時透無一郎の場合
文庫本が1冊カウンターに置かれてミズキは顔を上げ、「またなの」と少し凄んでみせた。本を置いた側の少年、無一郎はミズキの視線の厳しさなどものともせず、にっこりと女の子のように愛らしく笑った。

「あのね、中等部にも図書室はあるでしょう?」
「中等部にはミズキがいない」
「当たり前でしょ、高等部付きの司書なんだから」
「だからわざわざ高等部まで来てるんだよ僕だってさ」

ミズキは一度『だから、』と続けようとして、図書室の他の利用者に視線を滑らせて小言を呑んだ。
結局仕方なく、いつも通り書類を取り出す。中等部の生徒が高等部の図書室を利用するために必要な書類だ。その書類を保存してあるバインダーは目下のところ無一郎の連打である。

「…今日も昼休憩の終わりまでいるんでしょう。静かにしててね」
「もちろん。声が大きくなっちゃうのはミズキの方じゃないの」
「あのね…もういいや。あと、学校で呼び捨てはやめてって何度も言ってるでしょ?『先生』は違うけど、せめて何か敬称つけて」
「ミズキちゃん?」
「それなら私も無一郎ちゃんって呼ぶわ」

無一郎はその可愛らしい顔をムスッと歪めて黙った。彼はミズキからのお子様扱いをいつも殊更に嫌った。
実際のところ歳の差を考えれば『無一郎ちゃん』は行き過ぎにしてもミズキにとって彼は子どもだし、何せ初めて会ったときには双子の有一郎と一緒にベビーカーに乗っていたのだから、その可愛いぷにぷにのイメージは根強い。

無一郎はいつもの書類に記入を終えると、借りたばかりの本を持ってカウンターの内側へ回った。
勝手知ったるという様子でいつもの椅子を引っ張ってきてミズキの隣に座る様は実に堂々としていて、当然のように窓から入ってきてだらりと寛ぐ野良猫を思わせた。

パラパラと文庫本をめくりながら、無一郎は「どこまで読んだっけ?」とミズキに聞いた。
ミズキは諦めの溜息と共に、「…女の子がカウチソファーで寝てるのを説得してほしいって母親がお兄ちゃんにお願いしてるところよ」と教えてやった。
無一郎はいつも同じ本を持ってきてミズキに栞の役割をさせ、その場で返却していく。昼食の後で中等部から歩いてきて棚の本を抜き取ってから読み始めるし、彼は途中で何度もミズキを構って遊ぶものだから、一向に読み進まない。
今回から棚に戻すのやめよう、とミズキは内心思った。

無一郎はいたずらにページを繰っていて、どうやら前回の読み終わりを探し当てられないでいるようだった。
ミズキは溜息をついた。どうやら今日は一文字も読み進めないようだ。

「…プロ棋士デビュー目前なんでしょ、高校生のお姉さん方も騒いでた」
「へぇ、妬いてるの?」
「応援してるのよ」
「妬いてよ」
「まさか」

また無一郎はむくれて見せた。
昼休憩はあと10分と少し。窓の外から聞こえていた生徒の笑い声も少なくなってきたし、いつの間にか図書室もミズキと無一郎のふたりだけになっていた。

「ねぇミズキ、」と無一郎が言いかけたところで図書室の扉が勢いよく開かれる音がして、ミズキは咄嗟に無一郎の肩を押し下げてカウンターの足元に押し込んだ。
昼休憩終わり間近のこの時間に、こんな無遠慮な開け方で入って来るのは教員だという直感があったからだ。中等部の生徒をカウンターの内側に入らせているのは、あまり知られたくない。
案の定、男性教員だった。

「ソウマさん、今ちょっといいかな?」
「は、はい、何の本をお探しですか?」

ミズキから足元の無一郎の顔は見えないけれど、またムスッとしているのだろうと思った。無理もない、今回は少々可哀想だ。しかし、今日足元に人を隠すことになるなら膝下とはいえスカートは選ばなかった。予期できるはずもないけれど。

「あ、いや、本じゃなくて…」
「はい?」
「今晩、空いてませんか?美味い店あるんで、メシでもと思って」
「はぁ…」

職員飲み会のことを伝えにきてくれたのか、とミズキはスケジュール帳を手繰り寄せて捲った。当日に連絡がくるなんて随分急だな、と思いながら。
その時ミズキはもう少しで悲鳴を上げそうになったのを寸前で堪えた。膝の間に何かが割り入って、ストッキングの上からするすると脚を撫で上げる手があったのだ。
上半身を動かさないように保ちながら左手を下に伸ばして無一郎の手を叩こうとしたのだけれど、当然空を掻いた。
ミズキはなるべく平常心を保ってスケジュール帳を確認し、にっこりと社交辞令的に笑った。

「特に予定は、…ッ!?」

男性教員がカウンターの向こうで首を傾げている。
勘違いでなければ、今、膝の内側の辺りを、舐められた?ミズキが混乱のあまり額に冷や汗を感じていると、今度は軽く歯が立てられてむにむにと柔らかい脚の内側が噛まれ始めた。あまつさえ手がスカートの中を這い上がっている。
あまりの出来事に性的な気分になるどころか『やばいやばいやばい』がサイレンのように頭を駆け巡るばかりで、とりあえず飲み会がどうとかそんな次元ではなくなってしまった。とにかくこの男性教員に一刻も早くご退出いただかなければものすごくヤバイ。

「すっすみません私は行けそうにないのでっ!皆さんで!どうぞ是非!」
「あっいや、僕は個人的に、」

丁度男性教員の言葉を遮るような格好でチャイムが鳴り響き、ミズキに促されて彼はすごすごと図書室を出て行った。
扉が閉まり重たげな足音が遠ざかっていったところで、ミズキは立って後ずさった。

「ちょ…っと!どういうつもり!?」
「謝らないよ、ミズキが悪い」

無一郎はカウンターの下で、あらん限りに不機嫌な顔を頬杖に乗せていた。
彼はゆっくりと立ち上がってミズキを正面から睨んだ。

「今のでどこが!?」
「あんなのについて行っちゃ駄目だよ」
「職員飲み会よ」
「デートの誘いだよ、馬鹿なの?ホイホイついていったら今以上のことをされるんだよ」
「そんなわけないでしょ」
「駄目、絶対に」

ミズキの背中が壁に触れた。無一郎が距離を詰めて彼女のブラウスの襟元を握った。
無一郎はその可愛らしい顔立ちにそぐわないギラギラとした怒りの目で、至近距離のミズキを睨んだ。

「ミズキじゃない他のどの女の子がナンパに引っ掛かろうが恋人作ろうが知らないけど、ミズキは駄目だよ、僕のだ」
「…あのね、無一郎、」
「黙って。子ども扱いも今は甘んじて受けてあげるけど、それなら僕が大人になるまで待ってよ。それまでに誰かに取られるなんて我慢ならない」

ほとんどミズキの鼻先に噛み付くかのように眼前で捲し立てた後、ブラウスの襟元から手を離して無一郎はミズキに背を向けた。
回り込んでカウンターを出て、図書室を出る手前で無一郎は一度立ち止まった。

「…明日も来るから」

図書室の扉が閉まる音がして、少々苛立った気配のある足音が遠ざかっていった。ほとんど足音を立てない無一郎には珍しいことだ、とミズキは妙に冷静に考えた後、ズルズルと壁に背中を預けたままへたり込んだ。
立てた膝の内側に濡れたシミと淡い歯痕を見付けて慌ててスカートを被せた。頬に触れると熱かった。



その夜、ミズキの元に有一郎からメッセージが届いた。

(無一郎のやつ今日も図書室行ったんだろ?すごい不機嫌で帰ってきたけど何があったんだよ?)
(とりあえずエディプスコンプレックスに関する書籍を読んでる)
(はぁ?)
(有一郎何とかしてよお兄ちゃんでしょ)
(無理に決まってんだろキスのひとつでもしてやれば?)
(私に死ねと言うの?)

2分後、無一郎からのメッセージ。

(エディプスなんたらの本は無駄だから、僕のことだけ考えててくれない?)

双子ぉぉぉ!!とミズキは声にならない悲鳴を上げた。


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