撤退の美学に 

※実弥の浮気描写あり、格好良くはない


頭が真っ白というのはこのことかとミズキはぼんやり考えた。
場所は恋人の実弥の自宅最寄り駅、週末の今日はいつも通り彼の部屋に泊まる予定で駅まで来た。実弥にも事前に伝えてあったし、ざっくり電車の時間も伝えてあったから、意図せず目撃してしまったということにはならない。
目撃というか目の当たりにしたのは、自分の恋人が見知らぬ女性と寄り添って立つ様だった。
頭が真っ白のまま随分無遠慮に凝視してしまって、女性の方が不快そうに「実弥、だれ、これ」と実弥の腕に身体を寄せた。

特に実弥との関係に問題があったとは思わないし、冷めたという実感もなかったから、青天の霹靂というやつだった。実弥の人柄からも想像していなかった。
呆然と実弥の顔を見るも、彼はミズキを見なかった。無表情に近かったけれど、敢えて言うなら面倒臭そうという表情で、彼はただ「さァ」とだけ言った。

涙が込み上げて喉が震えるのを必死に抑えてミズキは口角を持ち上げた。

「ごめんなさい、知り合いかと思ったんですけど、人違いだったみたいで」

軽く頭を下げてその場を走り去った。後ろから名前を呼ばれた気がしたけれど、振り向かなかった。

ミズキは必死に走って慣れた道を辿り、実弥のマンションまで来た。その間の感情は言い表し難く、悲しくもあり情けなくもありただ納得してしまう部分もあり、とにかく混乱していて必死だった。
あの女性と実弥が出掛けて行くところだったのか帰ってくる途中だったのかは定かでないけれども、自分の痕跡は実弥の部屋から消した方がいいだろうと妙に冷静に考えていた。
いや待って何で浮気を私が庇うようなことをしてるの、とか、でもそもそも私の方が浮気相手だったのかも、とか色んな可能性が頭の浅い部分を掠めて消えた。
合鍵で部屋に入り(…あれ、合鍵、もらったよね?何だったのこれ、という不思議な感覚)、洗面所から自分の化粧品を雑に鞄に放り込んだ。目立つところにあった部屋着も丸めて鞄に押し込んだ。買ってきたおはぎの袋は台所に置いた。指輪を外してテーブルの上に置いた。部屋を出て鍵を掛け合鍵を郵便受けに放り込み(カランという無機質な音)、エレベーターを待つのと迷って階段を駆け下りてマンションを出た。
建物に入ってから5分足らずの迅速な行動だった。結果的に、エレベーターから転がるように降りてきた実弥と僅差で入違った形となる。




「…いやホントごめんね宇髄くん、何て言うか混乱の極みで」
「だろうなー馬鹿だね不死川も」

結局もう一度駅に入る勇気なんて湧くはずもなく、タクシーを捕まえて自宅方面へ帰ったのだけれど、自宅に帰る気分にもなれなくて混乱したままミズキは宇髄を呼び出したのだった。
実弥と付き合いの長い宇髄ならば、あるいは実弥の浮気について知っていることがあるかもと頭の隅で思ってのことだった。
ただ、律儀にコーヒーショップまで来てくれたものの宇髄から期待した証言は得られず、彼は「知らね」と言っただけだった。

「つーか何で不死川の部屋から自分の痕跡消そうとするわけ、普通逆じゃね?」
「自分でもよく分かんないっていうか…実弥とあの女の人がモメたら、よくないかなぁって」
「モメりゃいいだろ、最低浮気野郎とクソ浮気相手だぜ」
「自分がそのクソ浮気相手かもしれないじゃない」
「ド派手にネガティブだな」
「ネガティブにもなるよぉあんなの見たら」
「まーなー」

ミズキはコーヒーショップの硬質なテーブルに頬を付けた。ひんやりとして丁度良かった。
目の前の自身の左手に指輪が無いのを、不思議な気持ちで眺めた。

「実弥はさ、」
「うん」
「きっと私が可哀想で断れなかっただけだよ」
「…」
「私はすごく好きだったけど、重いとか鬱陶しいとか思ってたから、『察してくれ』っていう意味の今日だったんだよ、きっと」

にわかにミズキの目に涙が浮かんですぐ許容量を超え流れ出した。お店のテーブル汚しちゃうな、と彼女はまたズレたことを気にしながら、それでもひんやりするテーブルから頬を離せないでいた。
宇髄の手が伸びてきて、ミズキの薬指に彼の人差し指がトンと置かれた。

「ここ」
「なに」
「空席なんだよな、今」
「抉るねぇ」
「俺と付き合おうぜ」

ミズキはとうとうと涙を流れるままにさせながらハハと笑った。

「そういう冗談はもうちょっと元気になってからね」
「冗談で言うかよ阿呆」

宇髄の大きな手はミズキの薬指から動いて頭の上にかざされたけれど、髪を撫でてやる前にその手首を掴む手があった。

「触んな」

実弥だった。息を乱している。ミズキの身体が強張った。

「『触んな』はお前じゃねーの浮気野郎」
「ウルセェ」

ミズキは実弥に後頭部を向けたままテーブルから起き上がりハンカチで目を押し込むようにぐっと押さえ、濡れていたテーブルも軽く拭いた。
深く息を吐いて横隔膜を押し下げるようにしてから、実弥の方を振り向くと、彼がたじろいだ。

「不死川くん」
「っ待ってくれ、俺は、」
「ここに来るのは間違ってると思う。恋人が不安になるよ」
「俺の恋人はお前だ!」

店内にそう人は多くなかったとはいえ、その視線が集中した。ミズキは飲みかけのコーヒーのプラスチックカップを持って「出よう」と言って薄く笑った。
店を出ると夜風は思いの外冷たく、ミズキが軽く腕を擦る仕草に宇髄がパーカーを脱いで彼女の肩に掛けた。実弥が上着を脱ごうとしたのは、宇髄が肩に手を置いてやめさせたのだった。

「宇髄くん本当ごめんね」
「ま貧乏クジだよなー」
「本当それ」
「俺としてはクソ浮気野郎に謝ってもらいたいね」

歩きながら宇髄がちらと実弥を見ると、実弥がミズキの手を掴んで引き留めた。彼女の手からプラスチックカップが落ちて石のタイルに茶色い水溜りが広がった。

「本当に悪かった、謝りてェ」
「…仕方ないよ、他に好きな人が出来るのとか」
「違う!」
「なにが違うの」
「…俺のことで、取り乱してほしかった」

ミズキは少し目を丸くした後、くたびれた様子で目を伏せた。

「…取り乱したよ?取り乱して、宇髄くんに迷惑かけちゃった」
「俺はいーけど」
「パーカーありがと、洗って返すね」
「俺ばっか!惚れてんだろうがァ!!」

折角店を出たというのに、今度は近くでバスを待っていた数人が驚いて振り向いた。
実弥は苦い顔で目を逸らして、ミズキは先程地面に落としてしまったコーヒーのカップを眺めていた。クリームの乗ったコーヒーを零してしまって、きっと蟻が寄る、汚いシミが残ってしまう、とふわふわ浮いたような心配が彼女の頭に纏わりついていた。

「…告白したの、私からだった。今までありがと、不死川くんにだって選ぶ権利があるよ」
「なんでいつも…っ!俺が離れてもどォでもいいかよ!?」

ミズキの目にじわりと涙が滲んだのを見て、宇髄が実弥の肩に軽く手を置き、宇髄の方を向いた頬を彼の拳が強かに殴った。皮や肉越しに骨の当たる鈍い音がした。
さすがによろめいて実弥は数歩後ずさって、血の滲む口端を手の甲で拭った。
宇髄が溜息をひとつ。

「で、整理するけど」
「………おォ」
「ミズキ、辛ぇよなぁ。クソ浮気野郎は逆ギレしやがるしよ」
「…うん」
「お前が告白した後のコイツの浮かれっぷり見せてやりてぇわ。告白される2年ぐらい前からこの馬鹿お前のこと好きだったんだぜ」
「…え、」

『まさか』という顔でミズキが実弥を見ると、彼は気まずそうに目を逸らした。即ち肯定だった。

「だからな、確認の仕方はウゼェし阿呆で面倒臭くて最低だったけど、このクソ野郎は浮気なんざ出来るタマじゃねぇのよ実際な」
「さすがに罵り過ぎかなって」
「優しいねぇ。ま、供述聞いてから捨てるか刻むか決めりゃいいんじゃねぇの」

宇髄はミズキの頭にぽんと手を置いてから、その手をひらひらっと振って去っていった。
ミズキが呼び止めて「宇髄くん…っごめんね、ありがと」と言うのにも振り向かないで、手を挙げただけだった。

「…言い訳、聞いてくれるか」
「…宇髄くんに免じて」

「ありがとう」と実弥が言った。

「…つってもバラされてるが…。告白してくれるずっと前から好きで、浮かれて、でも不安だった。仕事で会えねェっても聞き分けいいし、嫉妬もわがままもねェし、頼られてる感じもしねェ」
「…今日のひとは?」
「知り合いで…協力してもらった。彼氏のいる人だ」
「だめじゃん」
「ごめん」

ミズキは悲しみだとか混乱が落ち着くにつれて、遅れてじわじわと弱い怒りが湧いてきていた。しかしその怒りというのも、口端に血を滲ませて叱られた犬のようにシュンとしている実弥を見ていると、膨らみ損なった風船のようになって大きくなる気配もなかった。
実弥がポケットから指輪を出してミズキに差し出した。

「…指輪、また持っててくれねェか」
「いらない」
「…っやっぱ、虫が良過ぎるよなァ」
「新しいの、買って」

実弥は目を見開いた後でまた「ありがとう」と言って、不要になった指輪をポケットに戻した。

「怒ったりわがまま言ってもきらいにならない?」
「有り得ねェ」
「あの女の人に謝って」
「うん」
「宇髄くんにも」
「分かってる」
「この前雑誌に載ってたベーグル食べたい」
「買ってくる」
「連れてって」
「分かった」
「私がいいって言うまで触らないで」
「…うん」
「今までの私の写真とかメッセージとか、全部消して」
「………まじか」
「まじです」
「………………わ、かったァ…」

無条件降伏の構えだった実弥が身体を強張らせて動揺するので、ミズキは思わずくすくすと笑った。実弥はスマートフォンを操作して、意を決したように最後に一押しして、ハァァァァーーー…と泣きそうな溜息と共に画面をミズキに示した。写真フォルダはまるきり空になっていた。

画面をフムフムと確認したミズキが息を抜くように笑った。

「そういえば、どうしてさっきのスタバにいるって分かったの?」
「…宇髄が」

もう一度向けられた画面を見ると、宇髄から地図のリンクが送られてきていた。時間は宇髄とミズキがスターバックスの席に着いてすぐというところ。派手な外見に似合わず繊細で面倒見のいい男だ。

「…ねぇ実弥」
「! あァ」
「明日、一緒に謝りに行ってくれる?」

ミズキが小さく首を傾げると実弥は何度も頷いて、「勿論」と言った。


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