ソラニンとソルファ(前) 

宇髄はしばらく口をあんぐり開けた後、「お前それマジで言ってんの」と言った。
「残念ながら!」と煉獄の答える声量に、夜のファミレスに居合わせた周りの客が数人振り向いて見た。

「信じらんねぇ、あの子と一緒に住んでて「一緒ではないな!同じ階だ!」…ハイハイ同じマンションの同じ階に住むように必死に誘導して漕ぎ着けたんだろ、そんで2ヶ月経ってまだ何も無いって逆に何」
「それが分からんから相談している!」
「だろうなお前のことナメてたわ」
「恐れ入る!」
「褒めてねぇけどもういい」

宇髄は頭痛を覚えた。
ファミレスのテーブルを挟んで座る煉獄杏寿郎は彼の1年後輩にあたるのに加え、幼い頃からの付き合いで打ち解けた関係である。そして『あの子』というのも、宇髄を含めて旧知の仲だ。
煉獄がもはや何年目に突入したのか数える気も起こらない初恋を拗らせている相手が、ここでの『あの子』、ソウマミズキという。宇髄が初めて彼女に会った時にはまだ小学校にも入っていなくて、桜色の頬やくりくりと大きい目や天使の輪の浮かぶ黒髪がそれはそれは愛らしい少女だった。ガチの美少女だよな、帰ったら久しぶりに写真見て癒されよう、違う、今はそれじゃねぇ…と宇髄は風船のように飛んで行きかけた思考を手繰り寄せた。
ミズキの大学進学に際して一人暮らしの部屋探しを手伝う建前で、必死こいて自分の住んでる物件に空きがあるのを彼女の両親にまでアピールして「自分が同じ建物にいた方が安心」とか売り込んで、念願叶って今に至るんじゃないのか煉獄。それで何故アクションを起こさないのか常人にわかるように述べろ、と宇髄は言ってやりたかった。
煉獄は顔面をテーブルと平行にしている。

「全幅の信頼を裏切れん…」

察し。可哀想。

幼い頃から、煉獄のミズキに対する可愛がりようといったらなかった。暑くないか寒くないか疲れてないか腹は減ってないかどこも痛くないか何をして遊ぼうか寂しくないか花を摘んでやろうか以下略。宇髄はミズキに「逆にウザくね?」と聞いたことさえある。ミズキが笑って「杏くんは心配性なの」と答えたので宇髄は呆れた。明らかに心配性を通り越してストーカーに近い性質を備えている。
とにかく、くだんの美少女は煉獄のことを親鳥か何かだと思っているに違いない。
あれでよく騙されず搾取されずに世の中を歩いてきたもんだ、と宇髄でさえ心配になってきて、一周回って煉獄の過保護に納得したのだった。

「ゆるふわノンビリ行くなら止めねぇけどよ」

宇髄はドリンクバーの気の抜けたコーラを飲み干し、水滴が指を伝ったのでペーパーナプキンを1枚取って拭いた。

「世間知らずちゃんのまま置いといて悪いのに引っかかっても知らねぇぞ」
「…ミズキが軽薄な輩に靡くわけがないだろう」
「何でド派手に過保護なくせして妙なとこ信頼厚いかね」

こいつステ振り下手かよと宇髄は溜息を吐いた。
煉獄はテーブルの上でもどかしそうに拳を結び開きしている。

「ミズキ何かサークル入った?」
「弓道部に入ったと聞いている」
「あーぽいわ。新歓コンパとかあんだろ」
「…今日、20時まで。迎えに行く約束をしてある」
「ほー」

宇髄が煉獄の目前のテーブルをトンと指で打った。

「ミズキちゃんこの後2次会行かないの、はい幼馴染が迎えに来るので、他の新入生はみんな来るって言ってるよ、でも…、幼馴染くんだって本当は用事とか恋人とかあるんじゃない?、そうですかね、そうだよミズキちゃんだって交友関係広げたらいいんじゃないかな、そうかも、ハイ終わり」

つらつらと慣れた口上のように淀みなく言ってのけた宇髄に、煉獄は大きい目を更に大きく見開いた。
そんな台本みたいに運ぶわけがないだろうと反論しようにも、宇髄が示したのは一例であって、この一部であったり似たようなことが起こる可能性は充分あると煉獄にも分かった。
宇髄は続けた。

「一応ミズキには飲み会で席立ったら戻ってもグラスの残り飲むなって教えといたけどよ」
「…しかしまさかそんな、新入生を」
「悪いのはどこにでもいんだろ。あとお前がミズキでエロい妄想してんのだって多分10段階でいったら4ぐらいだからな。7以上がその辺歩いてると思え」

煉獄が雷に打たれたかのような顔をした後にわかに席を立つと、自分の飲食代には余る程度の額をテーブルに置いた。

「…宇髄、恩に着る」

強い足取りで店を出ていった煉獄の目が据わっていたのを見て宇髄は、『6か7ぐらいだったかも』と内心で改めたのだった。





ミズキは委縮気味に運転席の煉獄を見た。約束通り飲み会場まで迎えに来てくれたのはいいものの、こんなヒリヒリするような空気を纏った煉獄を見るのは彼女にとっては初めてのことだった。先程店の前で合流したときにも、酔った上級生がミズキの肩に回そうとしていた手を音が立つほど強く払い除けた。普段礼節を弁える煉獄が他人に対してここまで強い態度に出るというのは、余程の事態だとミズキは察した。

「…あ、あの、杏くん」
「どうした」
「ありがとう…迎えにきてくれて、忙しかったよね?」
「いや、何もない」

ミズキから見た煉獄の横顔はまだ苛立っているようだったけれど、信号待ちで止まったタイミングで彼は深く長く息を抜いておもむろに「すまない」と零した。

「怖がらせてしまったな、ミズキに怒ってるんじゃないんだ」
「…珍しいね。何かあったの?」

煉獄が喉の奥で返事を練っている間に信号が変わり、車は再び進みだした。

「…さっきの彼とは何の話だったんだ」
「さっき…?どの人?」
「何の話で肩を抱くような流れになる」
「肩…あぁ、先輩酔ってたから。やっぱり二次会来たらって誘ってくれただけよ」

ハンドルを握る煉獄の手にぎりりと力が入った。思ったよりも忠実に宇髄の台本が再現されたらしい。
舐めた真似をしてくれる、この大切な子に、俺がどれだけ心を砕いて守ってきたと思っている、軽々しく手を触れようなどと、ポッと出が、「触らせるわけがないだろう」。
ミズキから「何を?」と聞かれて初めて、最後の部分だけ口に出ていたことに気付いたのだった。
曖昧に濁して運転を続け、そのうちにマンションの駐車場へと滑り込んだ。

自宅の階まで上がり、よりエレベーターに近いミズキが鍵を開けたところで彼女が振り向いて煉獄のシャツの裾を握った。

「今日はありがとう。えっとよかったら…コーヒー飲む?」

自分を見上げてくる美しくて大切で無垢な目に、煉獄は喉を鳴らした。どうしてこの愛しい子はこうも無防備に、男の眼前に餌を垂らすようなことをするのだろう。ずっと親しく接してきた自分だからなのか、相手が自分でなくても同じようにするのか…と考え始めると、煉獄は腹の底が熱く煮詰まって焦げるような気分がした。
しかしミズキに男を誘う意図はないのだ。自分が一心に守って(半ば囲って)、男の汚い欲から切り離してきたのだから、知るはずがない。
この魅力的な誘いに乗ってはいけない、と煉獄は腹の底で燻る感情を必死に押し潰した。今ここでミズキの部屋に踏み入ってしまったら、宇髄の言うところの『10段階でいったら』1か2、いや3くらいまで手を出してしまう。長年の信頼が崩れてしまう。ミズキにとっては親に劣情を抱かれたような衝撃に違いない。
煉獄はかなり強引に笑顔の形を作った。

「いや…遠慮しておこう。疲れただろうから、ゆっくりお休み」

お願いだから何にも気付かずに部屋に入ってくれ、と煉獄が願っていたところへ、唐突に彼のポケットから着信音が鳴った。

「…電話、出たら」
「いや…」
「大切な用かも」

促されてしまえば引くに引けず、画面を見れば同じゼミの女性からだった。着信は続いている。正直出たくなかったけれど、ミズキの『ほら』と言わんばかりの目に後押しされて煉獄は通話を押した。
あっ煉獄くーんいまだいじょぶー?駅前で飲んでるんだけどおいでよぉ可愛い子いるよーじゃあ待ってるからぁ!
静かな廊下にその声はキンキンと響いた。最悪だ空気を読め着拒するからな、と内心で煉獄は罵った。ミズキに汚いと思われたらどうしてくれる、と思ったところでハッとして彼女を見ると、その大きな目には溢れんばかりに涙が溜まって口元がわなわなと震えていた。

「っミズキ俺は、」
「行けばいいじゃない、きらいっ!」

乱暴にドアが閉められ、鍵まで掛かる音がした。
煉獄の手からスマホが落ちて固い音を立てた。幸いディスプレイにヒビが入るようなことも無かったけれど煉獄にはそれどころではない。
きらい、という声が血の気の引いた頭の中に何度も響き渡った。
ミズキのその3文字が煉獄に向けられたのは、記憶の限り初めてのことだった。


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