彼と俺
午後9時26分。テレビを消して部屋の出入口に近寄り耳を澄ませば、木造建築ならではの床がギシギシと犇めく音が聞こえてくる。その音は、次第に部屋の前に近づいてきていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせるように息を吸って吐く。しんと静まった部屋で、自分の心臓が脈打つ音がやけに大きく聞こえる。
大丈夫。いつも通りに、平然を装うんだ。表情筋を柔らかくしろ。
3、2、1−−と、その音が部屋の前を過ぎようとするところで、タイミングを見計らって扉を開ける。勢いよく開けた扉の先には、いつものように、驚いて目を見開く彼が立っていた。
「あ、先輩。こんばんわ」
あくまで自然な、できるだけの笑顔を貼り付けて挨拶をすれば、彼は短い黒髪を右手でわしゃわしゃと掻きながら、呆れた様子で口を開く。
「ったく、お前なあ。毎度毎度、ビビらせんじゃねえよ」
「えへへ、すみません。先輩がタイミングよく帰ってくるもんで」
にしてもタイミング良すぎ。そう言いながら、彼は右手の中指を折り曲げ、それを親指で押さえる形にすると、俺の額まで持ってきてビシッとデコピンを食らわせてきた。
先輩の中指が額の骨に勢いよくぶつかって、じぃんと広がる痛みに思わず涙が出そうになる。
「先輩痛い!」
「うっせ。俺をビビらせた当然の報いよ」
彼は全ての指を広げた右手をひらひらと揺らして、ニカッと綺麗に並んだ白い歯を見せて笑う。
たまにこの人は、本当に年上なのかと疑う程、いたずら好きな子供のような笑顔を浮かべる。そんな顔をされると、怒ることも拗ねることもできない。
まあ、そんなところが好きだなんて、絶対に言えないのだけれど。
「じゃあ、俺もう部屋行くけど。お前、コンビニ行くの?」
「あっ、はい。そうです」
「もう遅いから早めに帰ってこいよ。おやすみ」
おやすみ。彼の口から発せられた言葉に、思わず体が固まる。
ああ、本当に、この人は、人の気も知らないで。
彼はおやすみと言うないなや、俺の部屋の正面にある自分の部屋にバタバタと入っていった。置いていかれた俺に、振り向きもせずに。
一人になった、そう思うと体から力が一気に抜けて、その場にべたりと座り込んでしまう。
「……はあーっ、」
彼と話したのは、5分もしない短い時間だというのに、酷い疲労感がどっと溢れてくる。
どくどくとうるさい心臓と、じわじわと熱くなる顔に、自分が情けないと自嘲した。
いつまで経ってもこんなんだから、俺はいつまでも、彼に相手にされないのだ。