06


 私、佐倉弥生は、世間一般で“霊感”と呼ばれている不思議な力なんてこれっぽっちも宿っていない、ごく普通の女子中学生だ。
 8歳の時、クラスメイトと度胸試しで行った幽霊が出ると有名なトンネルで、腰を抜かして動けなくなったクラスメイトを置いて一人で通ったにも関わらず、幽霊の一人や二人を見つけるどころかポルターガイスト現象も起こらなかった。そしてその翌年、同じクラスメイトは飽きもせずに私を度胸試しに誘い、夏休みに近所にある墓場でどちらが先に墓場の奥に着くかなんて勝負もしたのだが――そこでも、霊的存在を目にすることはなく。しかし別行動をしていたクラスメイトは、火の玉が浮かんでいただの、髪の長い白い着物の女の人を見てビビり物陰に隠れていただの、私がいないところで心霊体験をしていたらしい。
 そんなのは子供の嘘だろう。なんて大人の人は言っていたけれど、必死の形相でその時の状況を語っていたクラスメイトを思い出すと、本当に見えていたんだと思う。きっと、あのクラスメイトには、霊感があったんだ。

 まあ、昔のクラスメイトの話は置いといて。
 私には、そのクラスメイトと違って幽霊が見えた例がない。15年間、一度もだ。霊的存在に興味があるかないかと聞かれたら、答えは“ある”になる。一度きりの人生なら、見れるものは見ておきたい。それが私の主義である。
 だけど、私に生まれ持った霊感なんてものはなくて。今まで一人でいろんな心霊スポットに行ってみたりもしたが、幽霊なんて見えたことがなくて。どうせこのまま、幽霊やポルターガイスト現象を一度も見れずに年をとっていくんだろう。私はそう思っていた。

 ――そう、思っていたんだけど。


「弥生ちゃん。これが、君が見たかったものだよ」


 そう言った先輩の背後にある、二階の大きな窓。そこから見える橙色と藍色が混ざり合った空は――突然、その姿を変えた。いや、正確に言えば空自体が姿を変えた訳ではなく、空を背景にして“一部の空間が歪んだ”と言えばいいのだろうか。
 歪んだ空間は、蜃気楼のようにもやもやとしたものから、次第に渦を巻きながら色を黒く変える。その空間が真っ黒に染まり、形あるものとなった時――渦の中心から、まるで巨人のように大きく黒い一本の腕が、のっそりと伸びてきた。その腕は、渦の端を手でがっしりと掴むと腕全体に力を入れる。その動きは何かを――腕と繋がる体を引きずり出すような、そんな感じだった。
 そして三秒も経たない内に、渦からもう一本の腕が飛び出す。出てきた腕は片腕と同じように渦の端を掴んで、両腕には更に大きな力がぐっと入る。

 次の瞬間――渦の中から、巨大な化け物が姿を現した。
 化け物は渦から全身を引きずり出すと、ドンッという音を立てながら両足で着地し、地面を揺らす。
 その化け物は3メートル程の身の丈で、全身は黒く、体は人間――いや、手足の爪が異常に大きくて鋭く、人間というより鬼と言った方が的確だろう。化け物の体は鬼を想像させるようなもので、そしてその頭部は、二本の角を生やした牛のようだった。
 私は窓の外に現れた化け物を見て、ただ唖然と、その場に立ち尽くしていた。現実味のない光景に体はぴくりとも動かなかったが、脳は妙に冷静で、目の前の出来事を否定することなく、むしろこの状況を受け入れている。


「せっかちな奴だなあ。6時まで待てなかったみたいだ」


 ふと先輩の声が聞こえて、視線を化け物から先輩へ移す。彼は化け物を目で捉えながら、ズボンのポケットから何やら紙のようなものを取り出した。それが一体なんなのか、私には全く理解できない。
 いや、違うな。そんなことより、だ。


「先輩! これ夢じゃないですよね!?」
「うん。残念ながら現実だよ、弥生ちゃん」


 私の問いに先輩は淡々と答える。
 これは夢じゃなくて、現実。私は先輩から視線を外して、もう一度、外の化け物に目をやる。化け物は興奮したように息を荒くし、赤い瞳をぎらりと輝かせると、耳を劈くような雄叫びを上げた。その雄叫びに体は反射的に耳を塞ぐ。雄叫びは牛に似た、しかし牛よりももっと猛々しい、虎のような咆哮だった。
 化け物を目の前にした私の体は、恐怖で震える――なんてことはなくて。死ぬ程めちゃくちゃ驚きはしたものの、何故か怖いという感情は湧いてこなかった。恐怖を通り越して恐怖を感じないのか、それとも……少し、楽しんでいるのだろうか。


「この家の中に奴は入れないから、弥生ちゃんはここで待ってて」


 先輩の言葉に、意識が現実に引き戻される。先輩を見ると、彼は私と話していた時と変わらない調子で無邪気に笑っていた。


「せんぱ――」


 先輩は、どうするんですか。
 その言葉を吐き出す前に、先輩は音もなく動き出す。

 彼は裸足で地を蹴ると、階段を二段飛ばし(よく見えなかったけど、多分二段飛ばし)で駆け上がる。そのまま化け物を目掛けて、二階の窓から外へ飛び出す――訳にはいかなかった。二階の大きな窓は閉ざされていて、このままでは窓を突き破るかぶつかってしまう。
 先輩が危ない。
 脳がそう判断したと同時に。その窓は誰が開けた訳でもないのに、“自分勝手”に開いたのだ。思わぬ出来事に私の体は硬直する。一方、先輩は窓を突き破ることも、ぶつかることもなく、そのまま外へ飛び出した。
 外へ飛び出した彼を見て、はっとする。今飛び出したのは二階の窓で、生身の人間が二階から飛び出して大丈夫なのだろうか。
 私は先輩の後を追うように階段を駆け上がって、彼が飛び出した窓に近づき外の様子を窺う。すると先輩は、たった今二階から飛び出したにも関わらず、何事もなかったように化け物の前に立っていた。
 先輩の姿を捉えた化け物は、先程よりも大きい雄叫びを上げる。その雄叫びは山全体に響き渡り、辺りの草木をざわざわと揺るがす。化け物の赤い瞳は爛々としていて、何やら怒っているようにも見えた。


「あーあ、昨日のこと、まだ怒ってるのかな」


 両手を腰に当て、悠然とした態度で先輩は独り言のように言う。あの場には先輩一人しかいなくて、独り言であるはずなのに、彼はまるで誰かと会話しているようだった。


「そりゃそーだよ! だってセイジューロー、ドッヂボールだーとか言いながらずうっとボールぶつけてたもん!」


 と――突如、先輩の独り言に答える声がどこからか聞こえてくる。それは、この場の雰囲気にそぐわない、幼い少年のような高い声だった。声の主を探そうと、身を乗り出して辺りを見渡そうとした時、“それ”は現れる。
 化け物が出現した時と同じように、何もない空間が歪みだし、二つの青い火の玉が先輩を挟むようにしてぼうっと浮き上がったと思うと――青い火の玉は風に吹かれたようにぐらりと揺れ、ある動物の形を象った。
 そこに現れたのは白色と黒色の狐で、足の先に青い炎を纏わせた二匹は、奇妙なことにふわふわと宙を浮いている。二匹の狐を目にした私は、つい数時間前に話していた大槻の話を思い出す。
 宙に浮く、白と黒の狐。新聞委員会の先輩とやらが見たのは、きっとこの狐のことだったんだろう。


「でもさ、先に喧嘩売ってきたのは向こうだよ。逆恨みじゃない?」
「あんなに怒っているのはお前が遊ぶからだろう、阿呆め」


 先程の幼い少年の声とは違う、落ち着いた大人の男性のような声で黒い狐が喋った。
 そう、これは夢なんかじゃない、現実。現実で、狐が喋っているのだ。なんとも不思議な光景である。目の前の出来事を現実として受け止めることで精一杯の私は、ただその一言しか言えなかった。


「――――ッ!!!!」


 そこで。
 先輩たちの会話を遮るように、化け物は言葉にならない金切り声を上げると――両腕を頭上まで振り上げて、その腕を勢い任せに先輩を目掛けて振り下ろした。振り下ろされた両腕の衝撃が地面に伝わり、地面は抉れるようにボコンと陥没する。


「せっ、先輩……!?」


 なんらかの手応えがあったのか、化け物はニタリと口角を釣り上げていた。
 まさか、先輩は、あの腕に潰されてしまったのだろうか。嫌な想像をしてしまって、不安がどっと溢れてくる。
 勝利を確信したのか、化け物は振り下ろした両腕を地面から離そうと、腰を持ち上げようとして――奴は動きを、完全に止めた。腕や足、頭どころか、指一本すら、その活動を停止したのだ。もしかして、時間が止まったのだろうか。そう錯覚するくらい、化け物の動きはぴたりと止まっていた。


「うえっ、ごほっ、土埃すごっ。家の中に入れないでよ。掃除するの、大変なんだからさ」


 動きを止めた化け物の腕の下から、不意に先輩の声が聞こえてくる。どうやって助かったのかは想像もできないが、どうやら彼は無事のようだ。腕の下にいることにより、先輩の姿を見ることはできないけど、この声の調子から恐らく彼は無傷だろう。彼の生存が確認できたところで、安堵の溜め息が自然と出てくる。その溜め息が聞こえたのか、先輩は私に対して「驚かせてごめんね」と言った。いや、その言葉はもう少し早くに言ってほしかったかもしれない。


「うん、そうだなあ。君と遊ぶのも、そろそろ飽きてきたから……もう、おしまいにしようか」


 先輩がそう言って、一息もつかぬ間に――化け物は両腕を軸にして、その巨体を宙に浮かせていた。正に180度回転。宙に浮いた化け物の腕の先を見ると、先輩は化け物の両腕を素手で掴んで、柔道の投げのような形をとっている。
 彼の細い体のどこにあんな力があるのか、というレベルではない。ただの怪力という言葉では片付けられない、あの力は、人間の力なのだろうか。
 宙を舞う化け物は抵抗することもできずに、そのまま思い切り地面に叩きつけられる。どごおん、という轟音と共に、屋敷は地震が起きたかのように上下に揺れた。
 叩きつけられた背中を中心にして激痛が体中を走ったのか、化け物は一度短い呻き声を上げた切り、仰向けに寝転がり動かなくなる。

 ――先輩が、この化け物を倒してしまったのだろうか。一人で、しかも素手で、一撃で。相手は先輩の何倍も大きく、そして不気味な化け物だった。それなのに彼は、ごく当たり前のように化け物の相手をして、倒してしまった。ほぼ瞬殺である。


「さて、と」


 ふう、と一つ息を吐いて、先輩は寝転がる化け物に近づく。彼の手には、二階から飛び出す前にポケットから取り出していた紙のようなものが握られていた。先輩は化け物のすぐ隣にしゃがんで、その紙を化け物の体の上にそっと乗せる。


「――――」


 私のいるところからでは距離が遠く、先輩の言葉は聞き取れなかったが、彼が何かを唱えるように呟くと、化け物の体は白い光に包まれた。白い光はその化け物の形からみるみる形を変え、最終的には小さな光の玉となり、先輩が手に持つ紙に吸い込まれるように消えていく。光の玉が完全に消えてから、先輩はその紙を少し乱暴にズボンのポケットへ戻す。

 多分、全部終わったんだ。
 そう思うと、張りつめた糸がぷつりと切れたように、私はずるずるとその場に座り込む。はあーっと長い溜め息をついていると、すぐ近く――頭上から、がたんと物音が聞こえた。顔を上げると、窓の縁に足をかけて、こちらを覗き込むようにして先輩が笑っていた。


「やあ、弥生ちゃん。気分はどう?」
「どうって、聞かれましても――まあ、とりあえず、死ぬ前にあんな幽霊みたいな類の化け物を見れて、嬉しかったですけど」


 私の返答を聞いて、先輩は驚いたように目を見開いて固まる。……先輩の問いに素直に答えただけなのに、どうしてこの人は固まっているんだろう。
 そして数秒後――


「ぶっ! く、ふふっ、あははっ!」


 短い沈黙は、先輩の笑い声によって破られる。何がそんなにおかしいのか、先輩は左手でお腹を抱え、右手で口元を抑えるようにしてくつくつと笑う。別に笑わせようと言った訳ではないのに、こんなに笑われると少し腹が立ってくる。
 もう一度脛を蹴ってやろうかと隙を窺っていると、私の目の前に音もなく白い狐が現れた。突然のことに驚いて、一歩後退する。


「なっ、ななっ、なんでしょうか……」
「あっ! ボクのこと、ちゃんと見えるの? キミってば、ボクがずうっと近くで話しかけてるのに反応してくれないんだもん! ちょっとだけ傷ついたよ、ちょっとだけ!」


 そう言って白い狐は、頬(なのかな)を膨らませていじけたようにそっぽを向いた。ずうっと近くで話しかけてた――なんて言われても、私に霊感はないのだから、反応しようがない。
 と、考えたところで、私は一つの違和感を覚える。
 あれ。そうだ、私には霊感がなくて――今目の前にいる狐や、さっきの牛の頭をした化け物だって、見えないはずなのに。どうして私は、見えないはずのモノが見えているんだろう。


「……あの、先輩」
「ん? ああ、そうそう。弥生ちゃんには悪いけど、勝手にちょっとした“魔法”をかけてね、こういうの、見えるようにしちゃった」


 しちゃった。自分の隣に浮いていた黒い狐を両手で抱えて、茶目っ気たっぷりに先輩は無邪気に笑う。いや待て。いろいろ言いたいことはあるが、とりあえず今すぐ突っ込みたいことが二つある。
 一つは、ちょっとした“魔法”とはなんなのか。霊感なんて全くなかった私が、ちょっとした“魔法”で見えなかったものを見れるようになるなんて信じられない。……とは言っても、現に見えてる訳だが。どうして急に見えるようになったのか、そこら辺のことをちゃんと教えてほしい。
 そして二つ――先輩は一体、何者なのか。この二匹の狐といい化け物といい、こんなもの、“この世”にいていいはずがない。奴らはお化け、というより、妖怪と言えばいいのだろうか。妖怪が当たり前のように見えて、更には素手で倒して、穏やかな笑みを貼り付けているこの先輩は――多分、普通の人間ではないのだろう。

 御蔵学園の裏山に存在する、幽霊が出ると有名な赤い屋根の古い屋敷。そこには人が住んでいて、その人というのは御蔵学園の生徒で。制服のワイシャツの上に羽織を着て、裸足で外を歩き回って、この世のモノとは思えない化け物と素手で戦う。なんてことを言って信じる人が、果たしているのだろうか。私なら絶対に信じない。
 ああ、大槻にどう話せばいいんだろう。そう考えて、また一つ大きな溜め息が出る。
 数時間の出来事を簡潔にまとめようと、必死に頭を回転させている私なんてお構いなしに、先輩は穏やかな笑みを貼り付けたまま口を開いた。


「まあ、なんて言うか。好奇心旺盛な弥生ちゃんは見事、“こっちの世界”に片足突っ込んじゃった訳だし、これから俺たちと仲良くしてくれると嬉しいな」


 そう言った彼の表情を見ると、何故か文句の一つも言えなくなる。それがなんだか悔しくて、差し伸べられた先輩の右手を掴んで立ち上がった後、流れに身を任せて脛を蹴った。
 先輩は「弁慶……」と呻くように呟いて静かに崩れ落ちた。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -