04


 一度、大きな深呼吸をして心を落ち着かせる。

 ――さて、話を整理しよう。
 私は御蔵学園の裏山に存在する、生徒達の間で幽霊屋敷と専ら有名な古い屋敷にやって来た。そしてそこには、私以外にもう一人の人間がいたのである。その人間というのは、同じ御蔵学園に通う「やましたせいじゅうろう」という、ワイシャツの上に羽織を着て、何故か裸足の不審な先輩だ。
 そしてこの先輩は、私に対して「なんでここに来たのか」と聞いてきた。その問いに対する私の回答はただ一つ、「ここが幽霊屋敷だから」。私は噂の真相を確かめるべく、大槻を犠牲にして心霊体験をしにやって来たのだ。ここが幽霊屋敷だなんて言われてなきゃ、わざわざ山を登ってくるはずがない。
 だけどこの先輩は、私の回答を聞くなり首を傾げておかしなことを言ったのだ。


「ここ、俺の家だよ」
「いやいやいやいや、おかしいでしょう」


 彼の相も変わらない三度目の返答に、私は間髪を容れずに言葉を挟む。
 学園の生徒達が幽霊屋敷と呼び、恐れているこの古い屋敷を自分の家だと言い張る先輩。こんなおかしなことがあってたまるか。認められるわけがない。
 しかし、先輩の顔を見ても嘘をついているようには見えない。本人は真面目に言っているようだが、それでも私は信じられなかった。


「本当に住んでるんですか? みんなから幽霊屋敷だなんて言われてるこの屋敷に?」
「本当に住んでるったら。だって俺の家だもん。……というか、幽霊屋敷って言われてるの? 俺の家」


 まるで初耳だと言いたげに、先輩は私の顔を覗き込んで問いを投げ掛ける。正直、この先輩には呆れて言葉も出なくなってきた。御蔵学園に四年も通っていて、自分の家が幽霊屋敷と言われていることに今更気づいたのか。この先輩、多分人の話を聞かないタイプだ。
 なんだか気が抜けてきて、このままではいけないと感じた私は、一度気持ちを切り替えようと咳払いをする。二人しかいないホールに、こほんという咳払いがやけに響いた。


「えー、私が入学した時からそういう噂があったんですけど……先輩、自分の家のことなのに知らなかったんですか?」
「知らないよ。俺、そんなに学校行ってないもん」


 へらりと柔和な笑みを浮かべる先輩の台詞に、まるでテレビで見ているお笑い芸人のように思わずずっこけそうになる。
 ああ、そろそろ頭が回らなくなってきた。
 ついさっき気を取り直したというのに、この先輩のペースに呑まれてどんどん気が抜けていく。今までこんな人と話したことがないから、どう接すればいいのか分からない。いや、ここでへこたれるな私。ここが先輩の言う通り彼の家であっても、幽霊屋敷に変わりはないはず。私は当初の目的を遂行しようと、この屋敷について先輩に聞いてみることにした。


「まあ、その、なんというか……幽霊屋敷って言われることに、心当たりとかないんですか?」
「心当たり? ……んー、」


 私の問いに先輩は左手で口元を隠し、考えに耽るように目を閉じる。目を閉じてから十秒も経たない内に、彼はぱちりと目を開けると「ああ」と何か思い出したように声を溢した。やっぱり何かあるのだと期待した私は、身を乗り出して言葉の続きを促す。


「何かあるんですか! 心当たり!」
「うーん、まあ、幽霊とは少し違うんだけど、“幽霊みたいなやつはいるよ”」


 先程と変わらない調子で、先輩はさらりとそう言った。
 でも、その軽い口調とは裏腹に、彼の表情は至って真剣なものだった。


「今も君の後ろにいるんだけどね」


 そう言って、先輩は静かに右腕を挙げて私の背後を指さす。そこに何かが存在しているかのように、先輩の指は確かに何かをじっと指さしていた。私は一息つくことなく、彼が指さす先を目で追って振り返る。本当に私の後ろに何かがいるような気がして、無意識に体が動いていた。
 完全に体が後ろを振り返って――私の体は動きを止める。
 先輩が指さした私の背後には、幽霊も人も、何もなかった。
 私は体をぐるりと先輩の方へ向けて、今もまだ指をさし続ける彼をきつく睨む。ただでさえ吊り上がっている眉が、更に吊り上がったことが自分でも分かった。


「……先輩、私のこと、からかってるんですか」
「うわっ弥生ちゃん顔怖、じゃなくて、からかってないってば。俺、さっきから嘘は一つもついてないよ」
「最初の一言が気になりますが今は置いといてあげましょう」


 顔が怖いのはいつものことですよ。
 吐き捨てるように小さな声で呟いてから、私は先輩に背を向けて一人脳内会議を始める。
 彼と話をしてどのくらいの時間が経ったか分からないけど、悔しいことにこの先輩、自分で言っている通り嘘をついているようには見えない。今の行動だって――先輩が指をさした私の背後に、確かに“何かが”いるように感じた。先輩があまりにも真剣な表情で言うから、そうだと思い込んでしまったということもあり得るけど。

 一人でうんうんと唸っていても埒が明かない。そう思った私は、こっそりと振り返って彼の様子を窺う。先輩は私の視線に気づくと、しょうがないなとでも言うように溜め息をついて口元を綻ばせた。


「そんなに見たいなら時間まで待って」


 先輩の言葉が理解できずに、私の首は傾いていく。見たいなら時間まで待てとは、一体どういうことなんだろう。言葉を理解していない私に気づいたのか、先輩は少し考え込んだ後、一つの提案をしてきた。


「あんまり深く考えなくていいからさ。ほら、なんならこの家、探索してもいいよ。適当に時間潰してて」
「へっ? いいんですか?」
「一瞬で目が輝いたね。掃除してないところは汚いけど、気が済むまで見て回っていいよ。俺はここにいるからさ、何かあったら戻ってきてね」


 それだけ言って先輩は、その場にあった椅子に腰を下ろす。彼は欠伸をすると椅子に凭れて、目の前の机上に置かれた本を読み始めた。
 どうやら本当に、勝手に探索をしてもいいらしい。初対面の人の家を歩き回るのもどうかと思ったが、言われたからにはお言葉に甘えて探索させてもらおう。家の主から許可は取ったんだ。
 私は屋敷に訪れた時から気になっていた――先輩がいた二階に行ってみようと、赤い絨毯が敷かれた大きな階段を上がっていく。うん、しかし、こうして実際にこの階段を上がってみると、少しテンションが上がってきた。


「あ、そうだ。あまりはしゃぎすぎて転ばないようにね」
「なんですかもう! 人が気持ちよく階段を一段一段踏みしめてる時に! というか転びませんよ、小学生じゃあるまいし」


 テンションが上がってきた時に急にそんなことを言われたもんだから、つい声を大きくしてしまう。全くこの先輩は私のことをなんだと思っているんだ。

 階段の一番上まで上がると、屋敷に入った時に見た通り、道は左右二つに分けられていた。
 まず、どっちに行こうか。しばらく悩んで、私は右の道に進むことにする。確かさっき、先輩はこっちから来たはずだ。右の道の先には四つの扉がずらりと規則的に並んでいて、私は一番手前の扉から順に入ってみることにした。

 一つ目の扉を開けると、そこは誰かの寝室なのか、同じベッドが二つ並んで置かれていた。二つということは、ここで寝ているのは二人。もしかして、この家に先輩以外の人がいるのだろうか。父親と母親、とか。それとも叔父や叔母?
 ……いや、あまり勝手な推理をするのはやめておこう。先輩も家族のことを聞かれるのは、嫌かも知れないし。
 この部屋は見ないでおこうと、私は扉を閉じて二番目の扉を開けようと次の扉へ向かう。その扉を開けようとノブに手を掛けて、そのまま手を回そうとした時――ここよりも奥の方、一番奥の四番目の扉から何か物音が聞こえてきた。物音が気になった私は二つの扉の前を過ぎて、一番奥の扉の前に立つ。
 この部屋、誰か、いるのかな。
 ごくりと唾を飲み込んで、扉のノブに手を掛ける。ノブを捻って扉をそっと開けて、小さな隙間から中の様子を覗いてみる。人は……誰も、いないようだ。安心した私は扉を全開まで開けて、部屋の中に足を踏み入れた。その部屋にはベッドや机、本棚などが置かれていて、ついさっきまで人がいたような、自然な生活感が漂っている。


「……先輩の部屋、なのかな」


 ぐるりと一周部屋を見回して、誰に向けた訳でもない独り言が口から溢れた。うん、多分、あの先輩の部屋だ。確信はないけど、なんでかそんな気がした。
 ふと視界に入った机の上には教科書や小説、漫画や絵本など、ジャンルを問わず本という本が散らかっている。ああ見えて先輩は、結構いろんなものを濫読する人なのかもしれない。机の上の本をなんとなく見ていると、教科書の表紙に書かれた文字に目が止まる。別になんてことない、高等部の化学の教科書なのだが――表紙には三年の文字が書かれていた。
 あれ、先輩、一年って言ってなかったっけ。なのにどうして、三年の教科書があるんだろう。
 そこまで考えて、数分前の先輩の言葉を思い出す。

 ――そんなに学校行ってないもん。

 ということは、先生に言って家で勉強をしているのだろうか。いやいや、でも三年って……勉強するなら一年の教科書なのでは?
 一度考えると答えが気になってもやもやしてきた。そうだ、本人に聞いてみよう。考えるより、それが一番手っ取り早い。

 そう思ったらすぐに行動。私は部屋を出て、先輩がいるホールへと向かう。廊下から下のホールを覗き込むと、先輩はそこで本を読んでいた。
 良かった、ちゃんといる。
 階段を降りようと一段目に足を置いた瞬間、先輩が何か話しているのが聞こえてきた。


「――ああ、いいんだ。あんなもの見たら、どうせすぐに帰るさ。……うん、まあ、仕方ないよ」


 目の前の光景に、思わず言葉を失う。
 先輩は人がいるわけでも電話をしているわけでもないのに、一人でぼそぼそと話をしていた。……あの先輩、確かにおかしいとは思ってたけどここまでとは予想もしてなかったというか、なんというか。
 どう話しかけるべきか、階段の上から様子を伺っていると、突然先輩が振り返って目が合う。目が合うなり先輩はにこりと笑って、今度は私に向かって喋り出した。


「弥生ちゃん、どうしたの? そんなところに立って」
「へっ? あ、いやその、先輩に聞きたいことがあって……」


 平然とした態度で話し掛けてくる先輩を怪訝に思いながらも、はっと我に返り、教科書の話題を振ることにする。多分さっきのは、突っ込んではいけないことだ。私は自分にそう言い聞かせた。


「聞きたいこと?」
「はい。先輩の部屋らしきところで化学の、三年生の教科書を見たんですけど、先輩一年生ですよね? どうして三年生の教科書があるんですか?」
「ああ、あれ? いや、一年と二年の教科書、全部見ちゃったからさ。三年の教科書、今のうちに見ちゃおうかなって、先生に頼んで貰ったんだよ」


 先輩の返答に自分の聴覚を疑う。
 一年と二年の教科書、全部見ちゃった――彼の言っている意味がよく分からなかった。いや、分かるといえば分かる。一年と二年の教科書を全部見た。そういうことなのは分かる。でも、どうして高等部一年である彼が、二年と三年の教科書を見るのだろうか。休みがちなので自宅で勉強をしている、というレベルを超えている気がする。


「先輩、学校、休みがちだから家で勉強してるんですよね?」
「うん。そうだよ」
「テストとか、ちゃんと受けてますか?」
「うん。テストの日はさすがに行ってるよ」
「ちなみに順位の方は」
「順位? あー、大体いつも五番くらいには入ってるかなあ。弥生ちゃん、急にどうしたの? テストのことなんか聞いてさ」


 馬鹿と天才――いや、変人と天才は紙一重と言うべきか。
 きょとんとした表情で、その順位がまるで当たり前のように言う先輩に腹が立って、とりあえず彼の脛を思いっきり蹴っておいた。先輩は「弁慶!」と叫んで、床に崩れ落ちた。


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