15


 どうしたものか。
 目を瞑り、自分の額に右手を持っていく。こんなことをしなくても、特に熱がある訳でも風邪を引いている訳でもないことは分かっている。
 でも、もしかしたら春風に運ばれてきた病原菌に頭がやられているのかもしれないという疑心暗鬼に陥る。いや、むしろこの目に焼き付いた風景が、脳の異常が見せた幻覚であってほしいと願う。
 まあ待て、落ち着け。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと瞼を開け、目の前の状況を視覚で捉えて脳が整理する。
 時刻は8時になる少し手前。場所は学校の近くにある、大きい滑り台の公園。ここが先輩と待ち合わせをしていた件の公園だ。
 家を早めに出た私は、いつもの通学路をいつもの速さで歩き、学校を通り過ぎた先にあるこの公園――七瀬公園にやってきた。

 ここまではいい。何も問題なんてない。
 で、公園にやってきた訳だが――問題はここからである。

 予想はしていたことだけど、集合時間は9時半であるにも関わらず、高等部の運動着を着た先輩(羽織はなかった)はそこにいた。うん、ただそこにいるだけなら良い。
 やはり彼は私の予想の斜め上をいくというか、常識が通じないというか。先輩はそこにいるだけでは飽き足らず、あろうことか公園の真ん中に設置された砂場で砂遊びをしていた。シロも一緒に遊んでいて(クロは呆れて見守っている)一人ではないのだけれど……実際、一般人から見れば彼は一人で遊んでいることになる。
 話しかけたくねえ。
 それが率直な感想だった。
 しかし、このまま私が話しかけなかったら先輩は延々と砂遊びを続けるかもしれないし、近所のお母さん方に変な噂を流されるかもしれない。変な噂も何も、事実なのだけれど。
 仕方ない。ここは先輩の一後輩として、彼の人間性を損なわせないために話しかけることにしよう。
 コンクリートでできた門を通って公園の中に入ると、私が話しかけるよりも先に先輩がこちらの存在に気づき、砂で汚れた右手を挙げるとひらひらと力なく振ってくる。
 今更ながら、高一にもなって砂場で一人遊ぶ先輩とは関わりたくない。


「弥生ちゃん、おはよう。早いね、まだ8時くらいじゃない?」
「その言葉、そのまま先輩に返しますよ。どうして待ち合わせの1時間半前に来て砂遊びなんてしてるんですか。痛いですよ」
「朝から辛辣だね君は。時間見ないで公園に来たら8時前だっただけだよ。砂遊びは……暇だったから?」
「何故疑問形なんですか。暇だったからって砂遊びはやめてください、高校生でしょう」


 諭すような声色でそう言えば、「高校生でも砂遊びくらいすると思うけどなあ」と呟きながら先輩はゆっくりと立ち上がる。そう言われてしまうと確かにそうかも、なんて思ってしまうが、いくらなんでも一人で砂遊びをする高校生は、少なくともこの辺りには先輩だけだと思う。
 先輩が立ち上がると、彼と一緒に砂遊びをしていたシロが「もう行くのー?」と残念そうに聞いてきた。ぐう、そんな風に言われると心が痛くなる。でも、これ以上先輩に砂遊びをさせる訳にはいかない。


「大分早く集まっちゃいましたけど、どうしますか?」
「んー、ここから祥風寺まで10分ちょっとだからなあ。こんな早くに行っても悪いし」


 悪いと思う感情が先輩にあったことに驚いた。先輩にも松葉先輩にそんな感情が――と思ったところで、彼が悪いと感じているのは松葉先輩にではなく、お父さんの知り合いである住職に対してだと察する。
 友達の家に約束の時間より早めに遊びに行って、友達のお母さんがまだお菓子も飲み物も準備できていないと慌てるのを見て感じる罪悪感。きっとこんな感じ。


「公園にいるのも飽きたし、適当にぶらつこうか」


 と、計画性もなく自由気ままに動き出す先輩について行こうと歩みを進めて、


「――先輩」


 すぐさま彼を呼び止めた。
 私に呼ばれて「何?」と振り返った先輩の表情はあっけらかんとしている。私は視線を、彼の顔から足元へ移す。
 慣れは怖いと、つい最近思ったことだけど……もう一度言おう。慣れは恐ろしいものだ。
 先輩は当然の如く、裸足だった。会ってから意識していなかったけど、気づいてしまうと違和感が凄い。学校や屋敷ならともかく、公園や道路を裸足で歩かれると隣にいる私まで変人扱いされてしまう。


「先輩、やっぱり私の家に行きましょう。このままじゃ私の沽券に関わります」
「え? 弥生ちゃんの家?」
「そこ! 変に目を輝かせないでください! お茶の一つも出しませんからね! ただ靴を履いてもらうだけですから!」
「靴? なんで?」
「先輩の隣に立つ私のことを考えてください!」


 ぽかんと首を傾げる先輩を置いて、自宅に戻ろうと歩いてきた道を逆走する。こんなことで先輩に家を知られるのは不本意だけど、これもまた仕方ないことだ。二人も仕事で家にはいないだろうし、先輩と遭遇する心配もない。
 先輩を置いて歩き出したが、彼はちゃんとついてきているみたいで後ろから先輩とシロの話し声が聞こえてくる。今日のご飯なんだろうとか、ハンバーグがいいとか、呑気に好き勝手な話をしていた。ご飯の話は好きにして構わないが、作るのは私だぞ。
 振り向くことなく道を進んでいると、クロが音もなく左隣に浮かんでいた。先輩とシロの代わりに謝る訳でも慰める訳でもなく、ただ無言で隣にいるだけだったけど、クロなりに労ってくれているのだろうと思い、私も無言でクロの頭を撫でる。
 クロは満更でもない様子だった。


 × × ×


「お茶の一つも出ませんが、まあくつろいでてください」
「まさか人の家の玄関でそんなこと言われるなんて思ってもなかったよ」
「奇遇ですね私もです」


 そんな茶番も程々に、先輩を玄関に座らせて階段の下にある小さな物置を漁りに行く。
 お父さんの古い靴でも貸そうと思ったけど……もう使わない、古いものは捨てる人だし、残っているとは限らない。
 それでも何か、裸足よりもましな物はないか――と、上半身を物置に突っ込んで探していると、A4サイズより少し大きい、薄くて平べったい箱を見つけた。
 なんだろう、これ。靴が入っているようには見えないけど。
 軽く振ってみると、何かが箱がぶつかる音が聞こえる。どうやら中に何かが入っているようだ。箱は絵も文字もかかれていない、真っ白な紙箱だった。どう見ても靴は入っていないだろうけど、何が入っているのか気になって好奇心で開けてみる。
 箱を開けると、中には雪駄が入っていた。サイズとデザインから、大人の男物だろう。黒に近い紺色の布製の雪駄で、鼻緒は白と紺の格子柄。
 この雪駄に、覚えがある。いつだったか忘れたけど――小さい頃、お父さんが夏祭りに連れて行ってくれた時に、彼が履いていたような気がする。
 あれから夏祭りなんて行ってないし、物置に置かれているくらいだから、なくなっても誰も気づきはしないだろう。
 新品同様の雪駄を手に持ち、箱は物置に戻して玄関へ向かう。先輩は玄関の段差に座り込み、退屈そうに欠伸をしていた。


「先輩。はい、これ」
「ん? ……雪駄? 新しいみたいだけど、いいの?」
「いいですよ。お父さん、もう数年前から履いてないみたいですし」


 そう言って雪駄を渡すと、先輩は素直に受け取ってそれを履く。先輩は立ち上がると、履き心地を確かめるように玄関をうろうろと歩いた。見た感じ、サイズに問題はないみたいだ。
 しばらく歩いていたと思うと、彼は突然ぴたりと立ち止まり「うーん」と小さく唸ってから、にっこりと満足そうに笑った。


「うん、いいね。ちょっと窮屈だけど、靴よりはいいかも。ありがとう弥生ちゃん」
「履けます? それ履いて外歩けます?」
「履けるし歩けるけど……」


 先輩の返答に、心の中でガッツポーズをした。
 あの先輩が、あの、先輩が。靴ではなくても、雪駄を履いてくれるなんて。なんということだ。今晩は赤飯だ。いや、ハンバーグだったか。作ろうか悩んでいたけど、先輩が雪駄を履いてくれた記念でハンバーグを作ってあげよう。
 これから裸足の先輩の隣の歩かずに済むと思うと、気分が晴れやかになる。


「じゃあ先輩、そろそろ祥風寺まで行きましょう。時間も丁度いいくらいでしょう」
「ああ、そうだね。弥生ちゃんの家も分かったことだし、行こうか」
「なんかちょっと気になる言葉がありましたけど今気分がいいので聞かなかったことにします」


 玄関を出ると、外で大人しく日向ぼっこをしていたシロとクロがのそのそと動き出す。「行くよ」と先輩が声をかけると、彼らは渋々と先輩の下へ集まった。そんなにうちの芝生が心地良かったのだろうか。


「あーっ! セイジューローが裸足じゃなーい!」
「弥生ちゃんから貰ったんだ。いいでしょ」
「へらつくな阿呆め。元はと言えば、お前が人目を気にせず裸足で彷徨くのが悪い」
「だって靴下とか靴とか窮屈じゃん」


 人の家の玄関で賑わう一人と二匹に、呆れて溜め息が出そうになる。
 ――最近、溜め息ばかり吐きすぎでは? ふとそう思い、口から出そうになった「は」の字を喉奥に引っ込めた。
 いつまでも動こうとしない彼らに、玄関の鍵を閉めながら「ほら、行きますよ」と催促する。私の言葉に先輩が「はーい」と返事をすると、一人と二匹は仲良く歩き出した。
 今度は私が先輩の後ろを歩く形になって、彼の背後から足元に視線を向ける。外で裸足じゃない先輩というのは、なんて新鮮なものだろう。いや、外で裸足じゃないことが当たり前なんだろうけど。
 先輩の後ろを歩き足元をじっと見ていると、目の前を歩く先輩の両足が突然止まる。つい先日似たようなことがあったおかげで、私は顔面を彼の背中に激突させることはなかった。


「先輩、急に立ち止まらないでくださいよ!」
「弥生ちゃん」


 私の小さな怒りも聞かず、先輩は私の名前を呼ぶ。なんですかと聞けば、彼は無言で手招きをしてくる。
 ……その手招きはなんですか。私にどうしろと。
 無言で先輩の顔を見てみたが、彼は自分の意見を口にする気はないのか、何も答えてはくれない。先輩、私はエスパーじゃありませんよ。
 彼が何を言いたいのか、私にどうしてほしいのかは分からないけど……とりあえず、手招きされたものだから、先輩の隣に行ってみる。
 さあ、次はなんだ。何か言いたいことがあるんでしょう。
 先輩の表情を窺おうと顔を上げると――彼は、心底嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「弥生ちゃん小さいから、見える場所にいてもらわないと迷子になるんじゃないかと思って」


 それは先輩なりの気遣いなんだろう。
 そう、なんだろうけど――この人は、必要な言葉が足りないくせに、余計な言葉が多すぎる。


「そうですか」


 ふつふつと湧き上がる感情を抑え、淡々と適当に相槌を打って、とりあえず先輩の脛を蹴っておいた。


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