11


 一時間目の数学から時は流れ、四時間目の現代文の時間のこと。
 残り数分で終了のチャイムが鳴るというところで、教室の扉が静かに開いた。開いたのは教壇側――つまり教室の前の扉で、私の視線は自然と黒板からそちらに向かう。それは他の生徒も同じで、ほぼ全員の視線が前の扉に集まる。
 扉の前に立っていたのは、朝から姿を消していた大槻で、彼は「はぁあ……っ」と長い溜め息を吐きながら、疲れ切った様子でとぼとぼと自分の席に座ろうと動き出す。現代文の葛西先生に「おっ、大槻くん。今まで委員会の仕事かい?」と聞かれると、大槻は「まあ、そんな感じです」と小さな声で答えた。
 どうやら、相当疲れているらしい。あの調子だと、先輩を見つけることができなかったのだろう。
 大槻は自分の席に座るなり、一気に力が抜けたようにぐったりと机に頭を伏せた。そんなにへばるくらい、この学園中を探し回ったのか。それでも先輩が見つからないなんて、あの人、本当に今日来てるのかな。
 先輩の心配しながら、すうすうと寝息を立て始める大槻を眺めていると、四時間目の終わりを告げるチャイムが校内に響き渡る。葛西先生が「それじゃあ、今日はここまで」と言うと、日直が終わりの挨拶をして昼休みに入った。

 教科書類を全て机にしまって、昨日と同じように、弁当箱を持って高等部の屋上に行こうとする。
 と、その前に――行き先がバレたら非常にまずいことになるので、私はそっと大槻の顔を覗き込む。寝たふりでもしていたら……なんて考えていたけど、大槻は寝たふりでもなんでもなく、ぐうぐうと爆睡しているようだった。
 よし、これで後をつけられることはない。
 安心した私は弁当箱を片手に教室を出て、小走りに高等部の屋上へ向かうことにした。

 中等部の廊下を抜け、二つの校舎を繋ぐ渡り廊下を通り、高等部の校舎に入って階段を上る。高等部に来るのはまだ片手で数えるくらいだけど、ここの雰囲気にもそれなりに慣れてきた。まあ、これから何度でも来るだろうし、来年からはこの校舎に通う訳だし、嫌でも慣れるんだろうけど。
 階段を行き交う高等部の生徒たちの視線を集めながら、一段ずつゆっくりと上って二階に着いた時、


「弥生ちゃん」


 と、私を呼ぶ先輩の声が聞こえた。
 彼の声がする方へ首だけを回すと、そこにはやっぱり、裸足でワイシャツの上に羽織を着た先輩が立っていて。彼が学校に来ていたことにほっとした、のと――その右手に持った見覚えのある包みに、呆れて溜め息を溢す。


「先輩、またわらび餅ですか」
「そうだよ。いや、このお店のわらび餅って凄くおいしくて。一度食べたら、もうわらび餅しか食べれないよ。あ、弥生ちゃんも食べる?」
「いや、遠慮しておきます」


 丁重にお断りすると、先輩は「おいしいのにな」と少しがっかりしたような声色で呟く。……そんながっかりされても。
 先輩は肩を落としながら階段を上り始め、私はその後を追う。羽織の袖を左右に揺らし、裸足でぺたぺたと階段を上がっていく姿に見慣れてきた自分が怖い。そう、慣れは恐ろしいものだ。
 ――それにしても、と。私の視線は、彼の右手にぶら下がる包みに集中する。この先輩の主食はわらび餅なのだろうか。だとしたら、それは大問題だ。裸足の件と並行して解決しなければならない。
 購買の食べ物でも買ってきた方がいいか……? いやでも、それはちょっと強引すぎるかな。というか、購買の食べ物を買うくらいならわらび餅を買った方がいいよ、とか言われそうだ。
 私が用意して先輩が断れない、なんとか食べてもらえそうなお昼ご飯――そう考えて、はっと思い出す。


「そういえば先輩、朝ご飯、何食べました?」
「え? 普通に昨日、弥生ちゃんが作ってくれた余りだよ」
「……お昼にお弁当食べませんかって言ったら、食べますか?」


 その言葉を聞いた先輩は、階段の途中でぴたりと止まった。今いるのは屋上へと続く四階のところで、幸い、ここに人はいなくて立ち止まっても邪魔にならない。


「何? 弥生ちゃんが俺の分まで、お弁当作ってくれるの?」


 振り向いた先輩が、驚いたように目を見開いて聞いてくる。何もそこまで驚かなくても。いや、彼がこんな反応をしてくれるから、私も冷静を装っていられるのだけど。正直、こんなことを言っておこがましいのではないかと胃が痛くなっている。


「まあ、別に、自分のついでだから困りませんし、お昼がわらび餅だけっていうのは不健康極まりないというか」
「弥生ちゃんが作ってくれるなら、喜んで食べるよ」


 と、そう言って先輩はにっこりと頬を緩めると、まるでスキップするようにとんとん、と残りの階段を駆け上がっていく。
 なんか、意外とあっさり解決して、思わず呆然と立ち尽くす。いやいや、本当にそれでいいのか。もう少しこう、言うことがあるのでは。


「そんなところで突っ立ってどうしたの? ほら、早く行かないとうるさいのがいるよ」
「えっ? あ、ああ、はい。今行きますって」


 いつもと変わらない平然とした態度で催促されて、私は意識を現実に引き戻し急いで階段を上がる。
 まあ、本人がそれでいいのなら、別にいいんだけど……なんだか、あっさりすぎて逆に気が晴れないというか。変な気持ちだ。
 私が動き始めたのを見てから、先輩は屋上へ続く扉のノブを掴んで捻り、自分の体の方へ引く。扉が開くと外の風が吹き抜けてきて、風に流される髪を押さえ、先に屋上へ進んでいく先輩について行った。

 歩いてほんの数歩のところで、先輩はぴたりと歩みを止める。止まった彼の背後から顔を覗かせ――その視線を辿らなくても、先輩が何を見て立ち止まったのか分かった。
 屋上のど真ん中にいたのは、まだ出会って二日目なのにも関わらず、もう見慣れてしまった金髪で。仁王立ちする彼の右手には、今朝は持っていなかった錫杖が握られている。
 突然、一際強い風が吹くと、錫杖の鐶が音を鳴らす。しゃりん、と。鈴のような音が、やけに大きく響いた。


「あ、もしかして待った?」
「――おっせーんだよこのあほんだら!!」


 特に謝る気もない先輩の態度に、松葉先輩は声を大にして怒りをぶつける。怒りをぶつけられている本人は、「えー、でもすぐに来た方だよ」なんてへらへらと笑いながらその場に胡坐をかいた。
 私と松葉先輩も、彼に釣られてその場に座り込む。


「お前はよお……っ!」
「まあ、先輩は基本的にこんな人ですから、もうここは軽く流して落ち着きましょう。ね?」
「……言われてみりゃそうだな」
「ねえ、そこ二人で気持ち通じ合うのやめてくれない?」


 そんなこと言われても、と松葉先輩と顔を見合わせる。その様子を見ていた先輩は「あー、やっぱり話聞くのやめようかなあ」と、拗ねながらわざとらしく言い出した。
 子供か。いや、子供だった。
 「先輩」と睨んで、早く話を進めてくださいと促す。先輩は「えーっと」と呟いてから、左手で口元を隠して言葉を選び始める。
 この人、何も考えないでぶっつけ本番で来たのか。


「……月夜里誠十郎。昨日の話だけどよ、」


 なかなか話を始めない先輩を見て、先に松葉先輩が口を開く。が、先輩はパーのように広げた右手を松葉先輩に突き出し、話を中断させる。


「待って。その話、俺からするから待って。今必死に考えてるから、あと30秒待って」
「は、はあっ!? なんだよそれ!?」
「もう10秒で話すから、だから待って」


 まだ本題が始まってすらないのに、わちゃわちゃと揉める二人を見て呆れる。
 多分、先輩は松葉先輩から話を始められるのが嫌なんだろう。誰かが話を始めないと話ができない自分が嫌――違うな、仲直りの「ごめんなさい」を先に言われると何も言えなくなる男子小学生、に近いと思う。
 この二人、とことん面倒くさい性格をしているな。というか、性格は全然違うように見えて根は同じなんだろう。
 数秒経って頭の中で言葉がまとまったのか、先輩は小さく息を吐いて、次に言葉を絞り出すために息を吸い、その口を動かす。


「一度は断ったし、忘れてくれとか言われたけど、弥生ちゃんの荷物も持ってもらった訳だし……そのお礼ってことで、手伝ってもいい、いや、手伝うよ、妖退治」


 松葉先輩から目を逸らして、先輩は淡々とそう言った。私は彼のその態度に、失礼ながら思わず笑いそうになったけど、松葉先輩は目を大きく見開いて、口もぽかんと開けている。そして体をふるふると震わせながら、力なく先輩を指差し、言葉を発した。


「おっ、おお、おま、お前、頭でも、ぶつけたのか……っ!?」
「弥生ちゃん。やっぱり手伝わなくてもいいかな」
「手伝ってください! 松葉先輩も現実を受け入れて!」
「げ、現実……!? 夢でも、頭ぶつけた訳でもねえのか……!?」
「思いっきり現実です」


 私の言葉を聞いて徐々に落ち着きを取り戻した松葉先輩は、一度大きな深呼吸をして、少し気まずそうに話を続ける。


「その、よお……今まで言ったこと、なしにしてくれとは言わねえが……あーっ! とにかく! オレも悪かった! 手伝ってくれんなら、よろしく頼む!!」


 最初はぼそぼそと呟くように喋っていたが、柄じゃないと吹っ切れたのか、錫杖を床に置き、そんな言葉を叫ぶように言って頭を床に叩きつける勢いで下げた。俗に言う土下座だ。
 先輩は「そういうの好きじゃないからいいよ」と、その顔に笑みを浮かべながら言う。どうやら、先輩も吹っ切れていつもの調子に戻ったようだ。
 松葉先輩は下げていた頭を上げ、「じゃあ」と話を進めようとした時。ぐうう、と、お腹が鳴る音が聞こえた。音がした方へ視線を向けると、いつから包みを広げていたのか、わらび餅が入った箱を足に乗せた先輩がへらりと笑っている。


「とりあえずさ、お腹空いたから、食べながら話さない?」


 それもそうだと、私は自分の弁当箱を床に広げて、松葉先輩は購買で売っているパンとパックの飲み物を袋から出す。
 先輩はわらび餅を二、三個口に放り込んで、「それで」と話を進めた。


「いつ行けばいいの?」
「そうだな……なんか、昨日から寒気がするっつーか、嫌な予感がするからよ、なるべく早い方が助かる」
「……その、妖って、悪いようなものばっかりって感じがするんですけど、良いものもいるんですか?」


 控えめに手を挙げて質問を投げると、先輩と松葉先輩はううんと考え出す。
 しばらくして最初に口を開いたのは、やっぱりと言っていいのか、先輩の方だった。


「妖、というか妖怪っていうのは、人が理解できないような奇怪な現象とか、そういうのを起こす非科学的な存在のことだからね。必ずしも、全部が悪い奴って訳じゃないよ。まあ、妖も人と同じなんだよ。根から先まで善人もいれば悪人もいるし、善人でも負の感情はあるし、悪人でも正の感情はある。人間って一つのグループが良いものか悪いものかって言えないのと一緒で、妖怪にも善悪はあるんだよ」
「オレら祈祷師も、そういう存在の良い奴に豊作ーとか無病ーとか祈って叶えてもらってっからな」
「へえ……そういうものなんですね」


 話を聞いて、鮭フレークが乗ったご飯を口に運び、それを噛んで飲み込む。丁度いい塩味においしいな、と思いながら、おかずのベーコンと卵を炒めたものを一緒に食べる。
 先輩と会って、陰陽師とか妖怪とか祈祷師とか、現実味のない夢みたいな話に突っ込んだけど、こうして話を聞くのは純粋に面白いというか、楽しい。今まで分からなかった数式の答えが分かったのと、似たような感じだ。


「というか、明日土曜日だし、明日にでも行けばいいんじゃないですか?」


 ぱっと思いついたことを口に出すと、二人は昼食を食べていた手を止めて、同時に私の方を見てくる。
 そんな顔で急に見られても、どんな反応をすればいいのか分からない。まさかこの人たち、適当に一日を過ごしたり、一日のことでいっぱいで今日明日が何曜日か分からない、曜日感覚のない部類なのだろうか。


「あれ、今日って金曜日なの?」
「そのまさかだった、だと……」
「明日が土曜なら話は早えー! お前ら、明日汚れてもいい格好で祥風寺に集合な!」
「計画性も何もない人たちですね」


 自分の発言のせいとはいえ、唐突に決まった予定に呆れを通り越して溜め息も出ない。別に、明日は特にすることもないし、困りはしないのだけど。……というか、ちゃっかり私も行くことになっているんだ。
 いや、言われなくても行くつもりではいたけど、こうして数に入れられて、少し嬉しかったりする。


「何時に行けばいいんですか? と、いうか……私、場所知らないんですけど」
「弥生ちゃんは俺が迎えに行ってあげるよ」
「いや、迎えとかいいんで、待ち合わせでいいです」
「まあ、10時くらいだと嬉しいな」
「そんなこと言わないでよ。弥生ちゃんの家ってどこ?」
「あーっ! 先輩は人の話を聞いてください! 10時に着くようにどこかで待ち合わせしましょう!」


 右から左から、同時に喋られると会話が聞こえづらい。というか、松葉先輩が喋っている時に喋る先輩がうるさい。
 怒るように大きな声でそう言うと、先輩は「えー」と心底残念そうな表情を浮かべる。別に、知られて嫌という訳ではないけど、親がいつ休みで家にいるか分からないし、親がいる時に来られると何を言われるか恐ろしくて、迂闊に教えられない。
 先輩は少しの間、考えるように「うーん」と唸り、「じゃあ、あそこ」と言葉を続ける。


「学校の近くの、大きい滑り台の公園。そこに9時半でいい?」
「あ、はい。いいですよ」
「あー、そのまま祥風寺じゃなくて水族館とか行きたいー」
「はっ倒すぞ!?」
「代弁ありがとうございます、松葉先輩」


 再びぎゃあぎゃあと騒ぎ出す二人(主に松葉先輩)を横目に、まだそれなりに残っている弁当箱の中身を黙々と食べる。弁当箱のおかずを眺めて、来週から二人分か、と一瞬箸を止める。
 ううん、そろそろお弁当のレパートリーも増やした方がいいかもしれない。
 喧騒を聞き流しながら、チーズの肉巻きを食べやすいように二つに割って、その片方を口に放り投げた。余っていたチーズを肉で巻いて適当に焼いただけだけど、意外といけるかもしれない。
 先輩の弁当箱は……もう使っていない、お父さんの弁当箱にしようかな。


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