10


 心地いい春の静かな日差しと暖かな風を身に浴びて、不意に溢れそうになる欠伸を噛み殺して校門を抜ける。周りの生徒よりも少し遅い速度で校舎に向かうと、昇降口の前で《風紀委員会》と書かれた腕章を身につけた複数の生徒たちが挨拶運動を行っていて、「おはようございます」と挨拶を交わして校舎に入った。
 外靴を脱いで、それを自分の下駄箱に入れ上靴を履いている時――背後から「おはよう」と、聞き覚えのある少年の高い声が聞こえてくる。その声に反射的に振り向けば、少女のようにぱっちりとした目を小刻みに瞬かせる大槻が立っていた。彼は私と目が合うなり、へにゃりと柔和な笑みを浮かべ、「おはよう、大槻」と返すと更にその頬を緩ませる。本当に中学三年生なのか疑ってしまう程、幼い容姿と性格だ。
 大槻は私と同じように外靴と上靴を履き替えると、


「そういえば、佐倉さん」


 と、好奇心に満ち溢れた眼差しをこちらに向けてきた。
 彼の反応を見て、あ、そういえばと思い出す。結局、大槻には幽霊屋敷での出来事を話していない。話しても信じられない話だと思うし、からかっているのかと拗ねられそうだし――そして何より、あの変わり者である先輩の話をするのが凄く面倒くさい。これが本音だ。
 でも、日直の仕事をやってもらった訳だし、お礼に奇妙な出来事の一つや二つ、話してあげたいけど……。
 どうしようかと一人で悶々としていると、私のことなんか気にしていない様子で、大槻はずいっと距離を詰めてきた。


「な、何?」
「昨日の5時半くらいに、近くのスーパーのビニール袋を両手に持った中等部の子が裏山の方に向かった。なんて話があるんだけど、それって佐倉さんのことだよね!」


 ――お、恐るべし新聞委員会……!
 一体、どうやってそんな情報を集めているんだ。実は新聞委員会なんていうのは表の名で、本当はスパイ活動委員会だったりするのか……!?


「あー、その、なんで私だって思う訳……?」
「ネクタイの色が桃色ってことは三年生だし、黒髪で仏頂面で、幽霊屋敷がある裏山にビニール袋を両手にぶら下げて一人で登る怖いもの知らずなんて、佐倉さんくらいだよ」


 悔しい。せめて自分が仏頂面じゃなければ、大槻に特定されなかったかもしれない。
 あまり大槻を相手にしないように「えー、そうかなあ」と適当に言葉を返しながら、そそくさと教室へ向かうが、彼は私を追うように足を速めてくる。


「それで、ビニール袋なんて持って裏山になんの用だったのかな! もしかして、あの幽霊屋敷に人が住んでるの?」


 私の後ろにぴったりとくっついて、大槻は核心を突いてくる。こういうところは鋭いんだよな、大槻は。
 いや、でも――屋敷に先輩が住んでたことは、言っても別に大丈夫な気がする。うん、そうだ。むしろ、今まで私たちが幽霊だと思っていたのは実は生きた人間、しかも同じ学園の先輩で、っていう話でいいじゃないか。これは事実だし、シロやクロのことは野生の狐ってことにして。裏山にあるのは“幽霊屋敷”――なんていうのは生徒たちの先入観で、思い込みで、それらに捕らわれていたことにより、あの屋敷で見たものや聞いたもの全てが幽霊の仕業だと勘違いしていた。
 よし、これでいける。先輩が陰陽師なんて話はなかったんだ。


「大槻、ここで今まで話せなかった土産話をしてやろう」
「えっ? 土産話? 何なに!?」


 予想通り、“土産話”という単語に大槻は大きな反応を示す。
 廊下の右端に寄るようにしてから、私は大槻にだけ聞こえるように声を潜めて話を続ける。


「実はあの屋敷、大槻が言う通り人が住んでてさ。その人っていうのが、昨日、教室に私のこと呼びに来た高等部の先輩で――まあ、その人が《変わり者》って言われてる先輩だった訳でして。私はたまたま先輩に会って、“幽霊屋敷”が先輩の家だって知ったんだ」
「……えー、じゃあつまり、あれ? 幽霊なんて本当はいなくて、“幽霊屋敷”はみんなの思い込みだったの?」
「うん、そうそう。新聞委員会の先輩が見たっていうのは、あの山に住んでる野生の狐らしいよ」


 大槻に変に疑われないよう始終真顔でそのことを話すと、彼は「んんー、なんか拍子抜けだなあ」と期待を裏切られたのか背中を丸めて落胆する。
 すまない、大槻。でも八割は事実を伝えたんだ、これで許してほしい。


「それじゃあ、昨日佐倉さんがビニール袋を持って裏山に登ったのは?」
「えっと、それは……その先輩があまりにも悲惨な食生活で、仕方なく晩ご飯を作ってあげたというか」
「なぁーんだ……ううっ、“幽霊屋敷”が人の家だったなんてえ……」


 と、顔色を青くして項垂れる大槻。……それくらい、ショックが大きかったのだろうか。
 「元気出しなよ」と肩に手を置いて慰めようとすると、大槻は急にがばっと勢い良く背筋を伸ばした。どうしたんだと声をかけるよりも先に、大槻は一度光を失ったその目をいつものようにきらきらと輝かせ、声を上げる。


「でもこれって大スクープだよねっ!? 今まで誰も分からなかった真実なんだからさ! 佐倉さんのおかげだよ! よしっ、その《変わり者》の先輩に会って話聞かなきゃ!」
「へっ? え、あ、うん?」


 落ち込んでいたと思えば通常の大槻より元気が倍になっていて、どう反応すればいいのか分からない。訳も分からないまま歩みを止めて呆然と大槻を見ていると、「僕、ちょっと委員会の方に行ってくるからーっ!」と言い残して、目にも留まらぬ速さでどこかに走って行ってしまった。
 しばらくすると向こうから「廊下は走るな!」なんて怒声が聞こえてきて、一人残された私は数秒間、その場に立ち尽くす。
 大槻に話して良かったのか良くなかったのか、なんだか心配になってきた。しかし、これでもうしつこく聞かれることはなさそうだし、とりあえずよしとしよう。
 大槻は先輩に会って話を聞く、なんて言ってたけど……先輩がそう簡単に見つかる訳ないだろうし、見つかっても適当に話を切り上げるだろうし、そこら辺は先輩に自由に任せるとしよう。

 抱え込んでいた悩みが一つ減った私は、何事もなかったように教室へ向かう。教室の前に着くと扉は開けられていて、扉を開ける手間が省ける。中に入れば何人かのクラスメイトに「おはよう」と声をかけられて、それらの挨拶に応えて自分の席に座った。
 大槻がいなくなると一気に静かになって、落ち着くはずなのに、逆に何故かそわそわする。ここ最近、先輩やシロとクロ、そして松葉先輩が騒がしかったから、久しぶりに静かなのが少し物足りなくなっているんだと思う。久しぶりと言っても、彼らと出会ってからまだ二日しか経っていないのだが。
 ううん、いつも話す大槻はいなくなるし、先輩たちはまず校舎が違うし、シロとクロはみんなには見えないから話しても怪しまれるし――今思えば、私にはまともな話し相手がいないような気がする。
 ……HRが始まるまで、本でも読んで時間を潰そうか。
 そう思ったらすぐに実行。私は机の中から読みかけの文庫本を取り出して、栞を挟んでいたページを広げ読書に耽けようとする。

 本を読み始めて、数分後。私の耳に、「おい」と誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。その声は聞き覚えがあるような、ないような、男性の声で。しかし、こんな低い声をした男子がこのクラスにいただろうか。
 まあ、自分には関係のないことだ。そう思い再び読書に意識を集中させていると、今度は大きな声で「おい!」と割と近い距離で声が聞こえた。その声は左側――私は窓側の席な訳で、つまりは声は窓の方から聞こえたもので、私は視線を文字列から窓へ向ける。

 窓の外には、金髪を全体的に逆立て前髪をカチューシャで押さえ、学ランの下にパーカーを着た不良みたいな男子生徒がいた。その手にしゃりんと音を鳴らす錫杖は持っていないが――彼は正真正銘、松葉先輩だった。
 予期せぬ人物の突然の来訪に、文庫本が手から滑り落ちる。文庫本は机に背表紙をゴンッとぶつけて、開いていたページをぱたりと閉じてしまう。
 せっかくいいところだったのにとか、栞を挟んでいないのにとか、思うことはいろいろあるけど、まずは目の前の人物をどうにかしなきゃいけない。現に、私を呼ぶ「おい!」という呼びかけに気づいた複数の生徒が、こちらに視線を向けている。
 裸足に羽織を着た変わり者の先輩に、金髪でパーカーとかいうバリバリ校則違反な不良っぽい先輩に二日連続で来られると、そろそろ先生に「何か弱みでも握られているのか?」なんて言われかねない。

 私は静かに席を立ち、窓に近づいて――松葉先輩の頭上に両手を置き、教室から彼の姿が見えなくなるよう、全体重をかけて押し潰した。まさかいきなりそんなことをされるなんて思ってもなかった松葉先輩は、「うおあっ!?」と奇声を上げるとバランスを崩して地面に尻餅を搗く。
 状況が理解できない松葉先輩は、目を見開いて私の顔を凝視してくる。いや、ごめんなさい。そんなに力を入れたつもりはなかったんです。


「急になんですか……窓の外から金髪の不良っぽい高等部の生徒に呼び出される私の身にもなってくださいよ」
「あっ、お、おう、悪い……じゃねえ! 声をかけたら訳も分からないままいきなり頭上から押し潰される俺の身にもなれよっ!?」
「仕方ないじゃないですか。他のクラスメイトに松葉先輩のこと見せられませんから」
「なんかその言い方スッゲー心にくる!」


 実際、松葉先輩と話してるところは見られたくない。変に話を大きくされては困る。場所を変えようにも、HRの時間を考えるとそんな暇はない。だからこうして、松葉先輩を隠して話すしかないのだ。
 それにしても……私に、一体なんの用だろう。正直、昨日はあんなことを言ってしまったから、顔を合わせると少し気が重くなる。
 やっぱり、先に昨日のことを謝った方がいいだろうか。


「あの、松葉先輩。昨日はごめんな――」
「昨日は悪かった!」
「……へっ?」


 私が謝罪の言葉を言い終わるよりも先に、それを遮るように松葉先輩が大きな声を上げて、そして頭を下げた。
 突然の出来事に、今度は自分が困惑する。


「ま、松葉先輩、その、悪かったのは私の方で、頭なんか下げなくても……」
「いや、お前に言われて考えた。確かに、男が諦めるなんてカッコ悪いったらありゃしねえ。一度口に出したなら、最後までそれを貫かなきゃ、男じゃねえ」


 松葉先輩は、頭を下げたまま言葉を続けた。
 私はただ、黙ってその言葉を聞く。
 「だから」と、彼の拳に力が入るのが見えた。


「もう一度、月夜里誠十郎と話をさせてくれ」


 ――ああ、なんでこの人たちは、見た目によらずこんなに不器用なんだろうか。
 松葉先輩が頼まずとも、こっちは話をさせる気満々だったのに。どれだけ律儀な人なんだ、松葉先輩は。


「だから、昨日も言ったじゃないですか。お昼に屋上待ってますからって」


 呆れ気味にそう言うと、私の言葉を聞いた松葉先輩は勢い良く顔を上げて「あんがとなっ!」と、子供っぽい――先輩や大槻とはまた違う、にかっとした笑顔を浮かべる。
 松葉先輩は先輩とは違って裏表のない、嘘がつけない人だから、本当に感謝されてるんだなって感じがして、なんだか照れる。かもしれない。


「あー、ほら、もうHR始まりますよ。戻らなくていいんですか?」


 気を紛らすように適当なことを言うと、胸ポケットから取り出した携帯で時間を確認した松葉先輩が「あ゛っ!!」と声を上げた。なんとなく言ってみたけど、どうやら本当にHRはもう少しで始まってしまうらしい。
 彼は「それじゃあ! またな!」と言い残して、高等部の校舎がある方へ走っていった。その姿が見えなくなるまで見送って、溜め息を一つ溢して回れ右をする。教室にいるクラスメイトたちは、特に私と松葉先輩を気にしていなかったようで、特定のグループで話をしていたり勉強をしていたり、それぞれの世界に没頭していた。
 安心して自分の席に戻ると、丁度いいところでHRの始まりを告げる鐘が鳴る。その鐘の音を聞いた生徒たちは、ばたばたと席に戻って一時間目の授業の教科書を机の上に並べていく。みんなと同じように教科書を並べて、ふと、前の席の住人がまだ来ていないことに気づく。
 本当に、先輩を探しに高等部に行ったのだろうか。うん、大槻なら行く。絶対に。
 大槻の好奇心も、ここまでくると感心を通り越して呆れる。

 それから数分経つと、担任の先生が「朝のHRを始めるぞー」と言いながら教室にやってきた。担任は教卓に出席簿を置いて教室を見渡し、私の前の席が空席であることに気づくと「大槻はどうした?」と私に視線を向けて聞いてくる。少し悩んで「新聞委員会の仕事です」と言うと、担任は「朝から委員会の仕事なんてあったかなあ」なんて呟きながら出席簿を開いて何やら書き込んでいた。


「それじゃあ、朝の連絡から伝えるぞ」


 担任の連絡事項を半分聞いて、半分聞き流しながら考える。
 そういえば先輩、朝から学校に来てるのかな。昨日は朝から教室に来たから存在を確認できたけど、今日は来なかったし……まあ、松葉先輩との話もあるし、来ていなくてもお昼前には来てくれるだろう。

 先輩たちのことを考えながら担任の方に目を向けると、目の前の空席が嫌でも視界に入る。
 大槻――お前のことは、忘れないぞ。
 そんなことを思っていると朝のHRはあっという間に終わり、担任と入れ替わるように数学の信楽先生が姿を現し、一時間目の授業が始まった。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -