09


「……あーっ、出来たぁ」


 電子レンジで温めたご飯を茶碗に、ちゃんと味見をして濃くないことを確認した味噌汁を汁椀によそい、肉じゃがも一人と二匹のためにそれぞれ分けてお皿に盛って、彼らの晩ご飯を無事作り終えた私は椅子に座り込んでテーブルに上体を放り投げた。疲れがどっと出てきて、このまま眠ってしまいたくなる。だけど、早く先輩たちを呼ばなきゃと、うとうとする意識を必死に起こして席を立つ。
 立ち上がると、貧血みたいに頭がぐわんとして、数秒間、その場に立ちすくむ。突然の頭痛にぎゅっと閉じた目をうっすら開けると、視界がぼんやりと白く霞んで、それが目眩だと気づくのに少し時間がかかる。
 ああ、今日はなんか、いろいろあったからなあ。先輩といい松葉先輩といい、シロとクロと晩ご飯といい――今日の出来事を一つひとつ思い浮かべると、よくよく考えなくても濃い一日だった。これは頭痛や目眩がしてもおかしくはない。

 しばらくすると頭痛と目眩は治まり、ふう、と一息ついて、先輩たちを呼ぼうとホールへ繋がる扉に向かう。ノブを捻って扉を押し、顔だけを出してあたりをきょろきょろと見回す。先輩とシロとクロは階段から移動していて、ホールの椅子に座り何やら会話をしていた。私は彼らに聞こえるように、扉から顔を覗かせたまま「出来ましたよ」と大きな声を出す。
 私の言葉にまず最初に反応を示したのはシロで、「ご飯ーっ!」と嬉しそうに声を上げると誰よりも早く駆け寄ってきた。先程の頭痛と目眩のせいか、反応が遅れてしまった私はこちらに突っ込んでくるシロを避けきれず、鳩尾でシロを受け止めてしまう。
 音もなく、“それ”は確実に私の意識を落としにくる。

 ほんの一瞬、三途の川が見えた気がした。


「はっ……!? 私、生きてる……!?」
「弥生ちゃん、鳩尾にシロ食らってなかった? 大丈夫?」
「なんか、三途の川が見えたような気がしますけど……生きてます……」


 うん、大丈夫だ。こうして目の前で先輩が心配そうな顔をしてるし、返答もできるし、私は生きている。どうやら、三途の川は渡らずに済んだようだ。
 視線を下に向けると、シロはいつの間にか私の鳩尾から姿を消していて、どこに行ったんだろうと探そうとしたところで、背後から――つまり、キッチンの方から「ご飯だー!」とはしゃぐシロの声が聞こえてくる。キッチンの方へ顔を向けると、シロは扉の前に立っていた門番である私を通り抜けてキッチンへ入り込んだらしく、テーブルに置かれた晩ご飯を目の前にして白い尻尾を大きく左右に振っていた。
 私の鳩尾にシロを食らわせた罪は重いが、そんなに喜ぶ姿を見たら怒るに怒れないし、こうして無事に生きていることだし……まあ、鳩尾アタックなんてなかったことにしよう。どうせシロも、私の鳩尾に突っ込んだことに気づいていないだろうし。

 そこで、晩ご飯の前で喜ぶシロを見てはっとした私は、いつまでも入り口を塞いでいる訳にはいかないと、扉の前で大人しく待っていた先輩とクロに「すみません」と謝罪してから脇に退ける。先輩は「別にいいよ」と笑って中に入り、クロも先輩に続くように入ってきた。
 先輩は晩ご飯が置かれたテーブルの前に立つと、椅子の背もたれに手を置いて、そこで動きをぴたりと止める。数秒しても先輩は椅子を引こうとせずに、ただぼうっと目の前の晩ご飯を見て活動を停止していた。
 ……何か気に入らないことでもあったのだろうか。


「あの、先輩。どうかしました?」


 声をかけると、こちらに振り向いた先輩は――目の端に何故か涙を浮かべていて、予想もしていなかった先輩の反応に驚いてどきりとしてしまう。
 なんだ? 泣く程私の飯が嫌だったのか……!?


「へっ? あ、いや、こんなにまともなご飯見たの久しぶりで、なんか涙が」
「そんな悲しいこと言わないでくださいよ! ほら早く座って食べて!」


 またしても予想外の発言をする先輩に心が痛くなって、彼が手を置いている椅子を引いて、いつまでも座らない先輩を無理矢理座らせた。椅子に座った先輩は、指で涙を拭って「ごめん」と口にする。
 なんかもう、なんとも言えないこの気持ちをなんて呼べばいいんだろう。捨てられた子犬を拾ってあげたい、そんな感じの気持ちは。


「フンッ! 泣きたいのはこっちだ。お前と居て、こんな豪華な飯を食べるのは初めてだぞ」
「うん、ほんとごめん。俺も今凄い感動してるから許して」
「ねーえー! もう食べていい? いい?」
「ああもう全員落ち着きないな! いただきますしてから食べて!」


 広いダイニングキッチンとはいえ、一ヶ所で二人と二匹がほぼ同時に喋ると一気に騒がしくなる。一喝するように声を上げると、先輩たちはしんっと静かになって、声を揃えて「いただきます」と口にした。
 シロは犬のように尻尾を振りながら、ばくばくと凄い勢いでお皿に盛られた肉じゃがを食べ始め、結構多めに盛っていた肉じゃがは見る見る減っていく。クロはシロの隣でがっつかずに、一口食べては何度か噛んで飲み込み、とお行儀良く静かに食べている。
 そして、先輩はというと。「いただきます」と手を合わせてから箸を手に取り、まず最初に肉じゃがを一口食べた。口に入れたそれをゆっくりと噛んで飲み込み、彼はまた肉じゃがに箸を伸ばして黙々と食べ続ける。
 さっきまであんなにわいわい騒いでいたのに、食べてる時は静かなんだな。作った本人としては、まずいかおいしいかの感想を一言くらい言ってもらいたいものだ。
 彼らの目の前の椅子に腰を下ろし、頬杖を突いて一人と二匹の様子をぼうっと眺める。そんな私に気づいた先輩は、口にしていた味噌汁の汁椀をテーブルに置くと、なんだか嬉しそうに頬を緩めて「いやあ」と喋りだした。


「こんなにおいしいもの、食べたの久しぶりだよ。弥生ちゃん、料理うまいんだね。いつも作ってるの?」
「……まあ、両親が仕事でよくいないので、自分で作って食べる程度ですけど」
「はははっ、君、やっぱり照れ隠しが下手だね。でも、お世辞とかじゃなくて本当においしいよ」
「照れてないですってば。おいしいならいいんです」


 確かに感想は望んだけど、そんなに素直に、直球に言われると少し背中がむず痒い。
 先輩をちらりと見ると、彼はにこにこと面白いものを見るような表情をしてて、このまま相手をしていたら先輩にからかわれるだけだと悟った私は、むず痒さを紛らすように視線をシロとクロに向ける。シロはもう、あと二、三口で食べ終わるところまできていて、クロは相変わらず自分のペースでお行儀良く食べ進めていた。
 そこからシロが食べ終わるのに時間は5秒とかからず、肉じゃがを綺麗に平らげたシロは「ごちそーさまっ!」と元気な声を上げる。シロは食べ終わったお皿を口に咥えると、スキップするような足取りで私のところにやって来て、お皿を置くとちょこんとお座りをした。


「ヤヨイ、あのね、ご飯すっごくおいしかったよ! ボク、こんなにおいしいもの初めて食べた!」
「うっ……! 先輩という人と一緒にいるから、まともな食事もできなかったんだな……」
「あ、それちょっと心に刺さる」
「そうだよっ、セイジューローが何も作れないから悪いんだ!」
「あー、うん、ごめんってば。これ以上俺の心に言葉を刺すのはやめて」


 私の言葉に便乗するようにシロが先輩を責めると、責められた本人は左手で目元を覆って顔を俯かせる。さすが絹豆腐メンタル。沈むのは一瞬である。
 シロはふんすと鼻息を荒くして先輩を一瞥した後に、視線を私に戻して話を続けた。


「ボク、またヤヨイのご飯食べたいなあ。ダメ?」


 うぐっ、そんなキラキラした目で見つめられながら首を傾げられると断れない。断れるはずがない。なんだか上手いこと乗せられてる気がするけど、そんなこと、どうでもいいくらいシロはとても可愛かった。


「駄目じゃない! また作ってあげるからね!」
「わーいっ! ヤヨイありがとーっ!」


 ついに我慢できず、その白くもふもふな毛玉に抱きついて顔を埋める。シロの細長いふわふわした毛並みが心地良くて、堪らずシロに顔をすり寄せる。シロは嫌な反応もせずに、ただ嬉しそうに「くすぐったいよー」と尻尾を振っていた。
 埋めていた顔を上げるとクロと目が合って、彼は溜め息を吐くとすぐに目を逸らして再び晩ご飯を口にする。あの態度、絶対「莫迦な奴らだ」と思っているに違いない。自分だけ冷静振りおって、お前ももふってやろうか。


「ところで、弥生ちゃん」
「あ、はい?」


 いつの間にか復活していた先輩に名前を呼ばれ、シロから離れて先輩の方に顔を向ける。彼はご飯を口へ運んで、それを飲み込んだ後に話を始めた。


「クロが迎えに行った時、様子が少しおかしかったらしいけど、何かあったの?」
「……あっ」


 その一言に、私は今まで忘れていたことを思い出す。晩ご飯作りですっかり忘れていたけど、先輩に話さなきゃいけない大事な話があった。
 私の反応を見て“何かある”と感じたのか、先輩は手にしていた茶碗と箸を置いて頬杖を突く。「どうしたの?」と話を促されて、私はスーパーから先輩の家へ着くまでの出来事を――松葉先輩との会話を彼に伝える。


「その、スーパーでばったり松葉先輩と会って、先輩の家に向かう途中まで荷物を持ってもらって、そこで少し話をしたんですけど……先輩に、余計なこと頼んで悪かった、昼間の話は忘れてくれって」
「……ふーん。なんで? 急にどうしたの」
「それがなんか、頭冷やしたらこれは自分がどうにかしなきゃいけないことだって。他人の力を借りて解決する問題じゃ、ないって」


 話を聞く先輩は冷淡な表情を浮かべていて、その目は、なんだか氷みたいに冷たくて。彼の目を、見てはいけない感じがして、私は視線を先輩の顔から机へと落とした。

 これ以上、何を話せばいいんだろう。
 ついさっき見たばかりの先輩の表情を思い出すと、口が動かなくなる。話したいことが、話さなきゃいけないことが、もっとあるのに。心のどこかで、奥底で、もう何も言うなと、口を閉ざす自分がいる。
 ――いや、閉ざしてどうする。何も言わなきゃ、何も変わらない。それは、自分がよく分かっている。
 私は視線を上げて、先輩の目をもう一度見据えた。突然顔を上げた私に驚いたのか、先輩はどこか冷めた目を少し見開いている。

 そうだ、私の我が儘で何が悪い。こうなったら、意地でも先輩に妖退治を手伝わせてやる。意地でも松葉先輩を手伝ってやる。
 私は吸った息を吐き出して、よし、と意を決した。


「という訳で、先輩。あの松葉先輩にここまで言われて、大人しく引き下がるなんて言いませんよね。お父さんのぎっくり腰を散々自分のせいにされて、退治を手伝ってくれと頭を下げたと思えばやっぱり忘れてくれなんて、これは意地でも手伝ってあげるしかないですよね」
「や、弥生ちゃん? あの、なんでそんな」
「怒ってませんよ。いやでも、解決策すら浮かんでないというのに、先輩に手伝ってもらうことを諦めるような男に多少の憤りは覚えますね」


 「結局怒ってるよね?」と聞き返す先輩を睨み返すと、先輩は「ごめん」と謝罪の言葉を口にして目を逸らす。
 そんな彼の言動を見て、良かった、なんて胸を撫で下ろす。さっきの、なんとも形容し難い雰囲気とは違う、いつもの調子に戻った先輩に安心した。あと十数秒あんな調子でいられたら、その場の空気に耐え切れずにシロとクロにしがみついていたかもしれない。
 ちなみに――現在シロとクロは、クロはまだご飯を食べ続けていて、シロはその横でクロのご飯を狙っている。私が重い空気に押し潰されそうな時に、なんて呑気な狐たちなんだろう。


「まあ、でも、確かに弥生ちゃんの言う通りだけど……今更忘れてくれなんて言われて、忘れられるものじゃないよ。あの金髪小学生」
「……へっ?」


 左手で口元を覆って、しばらく考えに耽るように先輩は口を閉ざす。

 私は彼の言葉の続きを、期待していた。
 正直、最初は何を言っても先輩は折れてくれないだろうと、諦めかけていた。全てにおいて軽いように見えて、でも我が強くて、昨日出会ったばかりの私の言葉なんて、聞き入れてもらえないと思っていた。
 それでも、確信なんてないけど――今は聞き入れてくれると、先輩はやってくれると、そう思える。ちょっとした希望が見えている。
 手伝ってもいい。その一言が先輩の口から溢れるのを、私は待っていた。


「そうだな」


 と、先輩が口を開く。彼は口元を覆っていた左手を退けると、無邪気に、にっこりと口角を上げていた。


「可愛い後輩の荷物を持ってもらった訳だし、そのお礼もしなきゃ、釣り合いが取れないな」
「じゃ、じゃあ……っ」
「うん」


 先輩は置いていた箸を手にして、湯気が見えなくなった味噌汁を一口啜ってから、


「妖退治、手伝うよ」


 そう言って、今度は残っていた肉じゃがをどんどん口の中に詰めていく。
 やっと、聞きたかった言葉が聞けて満足した私は、嬉しさやら何やらいろいろな感情が込み上げてきて、「先輩最高」なんて言葉を口にしてシロとクロに思いっきり抱き着いた。
 シロは「何なに?」とクエスチョンマークを飛ばしていたけど尻尾を振って喜んでいて、まだ食事をしていたクロには「食事中だ!」と怒られた。
 ちなみに先輩は「抱き着く相手違くない?」とか言ってたけど、違わないです。これでいいんです。そう言って私は、気が済むまでシロに抱き着いた。


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