06


 高等部の校舎に入って周りに誰もいないことを確認すると、未だに少し痛む体に鞭を打って、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 駆け上がっている途中――二階と三階の間にある踊り場に着いた瞬間、両腿がじわじわと痛みを訴えてくる。多分、屋上で寝転がった時の痛みがまた出てきたのだろう。
 それでも足を止める訳にはいかないと、私はその痛みに耐えて階段を上がり続けた。
 余計なことを考えずに、階段を上がることだけに意識を集中させていると、四階にはあっという間にたどり着く。荒れた息を、ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着かせ、自分の視線の先にある屋上へと続く扉のノブに手をかけて時計回りに捻る。

 扉を開けると、すぐ目の前に先輩の姿があった。彼は右手を扉に向かって伸ばしていて、恐らく扉のノブに手をかけようとしていたのだろうか。自分が開けようとしていた扉がひとりでに開いたものだから、先輩は目を丸くして、ぽかんとしていた。
 お互いぴくりとも動かずに、そのままの体勢で数秒が経過する。私は扉のノブを捻ったまま、目だけをそろりと動かす。
 すると、先輩と目が合った。ばっちり、と効果音が聞こえてきそうなくらい、ばっちりと目が合った。


「やあ、弥生ちゃん。随分と遅かったね。あと5分経っても来なかったら、迎えに行くところだったよ」


 先輩は丸くしていた目を細めて、穏やかな笑顔で実に恐ろしいことを口にする。
 5分とか言っておきながら、今まさに迎えに行こうとしていただろう、あんたは。先輩の5分は一体何秒なんですか。
 彼の言動に呆れて大きな溜め息が溢れる。
 いけないいけない。また、この人のペースに呑まれるところだった。私は先輩のペースに呑まれまいと、気を取り直すために「こほん」と咳払いをして話を続ける。


「すみません。ちょっと用事がありまして……待ちました?」
「ううん。そんなに待ってないし、弥生ちゃんが謝ることじゃないよ。……いや、それにしてもあれだね」
「はい?」
「今の台詞、デートの待ち合わせみたいで凄く良かったよ」
「あ、はい。そうですか。へえ」
「そんな湯葉みたいに薄い反応しないで」


 逆にどんな反応をしろと言うんだ。厚揚げみたいに厚い反応をすれば良かったのだろうか。いやいや、一体どんな反応だ。
 先輩に釣られて、自分でも意味が分からない思考をしてしまう。
 ううん。なんだか今日は頭が回らない。というか、松葉先輩と会ってから頭が回らない。恐るべし松葉先輩。今日が初対面で話したのはほんの少しだというのに、彼は短い時間で私の思考をおかしくしてしまった。


「……あれ? そういえば、シロはどうしたんですか?」


 会話が切れたところで辺りを見渡すと、シロの姿がないことに気づく。昨日といい今日といい、シロは先輩とずっと一緒にいるイメージがあったんだけど――シロはどこに行ったんだろう。
 私の問いかけに、先輩は「ああ」と反射的に言葉を溢した。


「シロには先に帰ってもらったよ。留守番してるクロに、弥生ちゃんが晩ご飯作ってくれるよって伝えてって」
「留守番……」


 ここで初めて、シロと対の存在である黒い狐のクロが、留守番を任せられていることを知る。……うん、まあ確かに、頭の中でシロとクロを並べてみると、シロが一匹で大人しく留守番なんてできなさそうだ。それを分かっていて、先輩はクロに留守番を任せているのだろう。妖が留守番なんて奇妙な話だけど――学校の生徒が肝試しに入れるような、不用心な屋敷だ。人だろうと妖だろうと、誰もいないよりはクロに留守番をしてもらってた方が安心できるだろう。
 それにしても――シロとクロ、二匹のことを思い浮かべて妖怪も不思議なものだなと関心を持つ。人間と同じように――彼らは同じ“妖怪”という生き物であるはずなのに、それぞれが自我を持っていて、性格が違えば言動も好き嫌いも違う訳で。同じ種類の狐の妖怪でも、やっぱりみんな違うものなんだ。

 同じ血を引く姉弟でも、全く正反対なのと一緒なんだろうな。


「じゃあ、俺も家に行ってるね。キッチン、片付けておかなきゃ、弥生ちゃんが晩ご飯作れないし」


 先輩の声を聞いて、はっと意識が現実に引き戻される。自然と俯かせていた顔を上げると、そこには先輩の姿があって、今見ているこの風景が現実なんだと改めて認識した。
 少しの間、どうでもいい考えに沈んでしまったようだ。


「あ、はい。えっと、肉じゃがでいいんですよね」


 昼寝をする際にリクエストされた晩ご飯を確認すると、先輩はまるで楽しみだというように無邪気な笑みを浮かべて「うん」と答えた。
 ぐっ、そんなに期待されては、私もその期待に応えなければならない。自分の料理なんて家族以外に食べさせたことがないから、おいしいかは分からないけど、腕を振るうしかあるまい。
 屋上を出ようと扉に近づく先輩の後を追いかけながら、鞄から財布を取り出し中身を確認する。財布に入ったお金を数えて、これなら足りるだろうとほっとして一息つく。
 今日は確か野菜が安い日だから、自分の家用の食材も買っておこうかな。
 そんなことを考えていると「そうだ」と先輩の声を聞こえてきて、何事だと顔を前に向けると何かが顔面に激突した。何かに顔面を打ちつけたことにより鼻がじんじんと痛む。予想もしていなかった突然の鈍痛に、両手で鼻を押さえ込んで自分の身に何が起こったのかを整理する。
 改めて前を見ると、すぐそこには先輩の羽織――つまり先輩の背中が視界いっぱいに広がっていた。その近さに、「そうだ」と足を止めた先輩の背中に私の顔面が激突したのだろうと推理する。
 自分の不注意が起こした事故だといえ、なんの断りもなしに急に立ち止まった先輩にも罪はある。鼻を押さえたまま先輩の後頭部を睨みつけていると、くるりと振り向いた彼と目が合った。なんだか今日は先輩とよく目が合う気がする。


「弥生ちゃん、荷物、預かっておくよ。わざわざ持ち歩くのも大変でしょ?」
「……へっ、ああ、いえ。別にそんな、大丈夫ですよ」


 じんじんとする鼻の痛みに意識が向いてしまい、一瞬、先輩が喋る言葉の意味が理解ができなくて反応が遅れた。
 私が勝手に晩ご飯を作るのにお邪魔する訳だから、キッチンを片付けてもらう上に、これ以上余計な手間をかけることはできない。お言葉に甘える訳にはいかないと断る、が――先輩は私の言葉を聞かずに、肩にかかる鞄の紐に手を伸ばすと、それを掴んでするりと私を鞄を奪っていった。
 先輩は奪った鞄を自分の肩にかけて、そのまますたすたと歩き出し、扉を開けて校舎に入ると階段を下りようとする。


「ちょ、まっ、先輩! いいですよ鞄なんて、自分で持ってますから!」
「いいよいいよ。買い物に行くのに鞄なんて必要ないでしょ? 邪魔になるだろうし、俺が持って帰ってるよ」
「それもそうですけど……いや、でも悪いですって」
「遠慮しない遠慮しない」


 いやいや、遠慮してる訳でもないんだけど。
 どうしよう。先輩は人の話を聞かない人だから、自分がこうすると決めたら何を言われても止めない人だ。でも、このまま先輩に鞄を持たせるのも私のプライド的な何かが許さない。しかし、先輩から鞄を取り返す方法が全く浮かばないのが事実。
 先輩、先輩。と呼びかけながら彼の後ろについて階段を下りていると、私たちはあっという間に一階に着いてしまう。
 先輩は相変わらず聞く耳を持たず、私の意見を全て無視して下駄箱へ向かい、そして裸足のまま彼は昇降口の外へ一歩踏み出した。


「それじゃ、俺は先に帰ってるから。家で待ってるね、弥生ちゃん」
「だから! 鞄なんて持ってかなくても――いい、のに」


 私の台詞を最後まで聞かずに、先輩はまるで飛び跳ねるような軽い足取りで、屋敷がある裏山へ向かってしまう。
 それにしても――こうして彼が裸足で外を歩き回るのを改めて見ると、かなり異質な感じというか、足元だからそんなに目立たないだろうと思うけど、実際めちゃくちゃ目立っている。現に、学園内をランニングしているサッカー部の生徒数人が、先輩の隣を過ぎる際に彼のことを三度見くらいしていた。
 そんな先輩の後ろ姿を見送ってから、下駄箱に取り残された私は、はあ、っと大きな溜め息を溢す。
 持って行かれたものは仕方がない。このまま財布だけを手に持って、学園の近くにあるスーパーに向かおう。

 くるりと方向転換をして、一刻も早く高等部の校舎を出ようと足を早める。
 廊下の先には中等部へ繋がる渡り廊下があり、渡り廊下を抜けると中等部の廊下に出て、しばらく真っ直ぐ歩いていると道が左右に分かれていた。左は上の階へ続く階段で、右には職員室や保健室、そして昇降口がある。
 角に行き着いて右に曲がると、昇降口にはジャージを着た部活途中のクラスメイト――腰まで伸ばした黒髪を一つにまとめ上げた姿が特徴的な辻さんが、水分補給をしながら同じ部活動の友達と談笑していた。彼女は私の存在に気づくと、「弥生ちゃん、またね」とその歳にそぐわない、幼い子供のような笑みを浮かべ私に対して手を振る。それに「じゃあね」と手を振り返して、私は自分の下駄箱から外靴を取り出し、入れ替えるように上靴を下駄箱に突っ込む。
 外靴を履いて昇降口を出ると、まず最初に聞こえてきたのは運動部の掛け声だった。野球部やサッカー部、テニス部など、様々な部活動の生徒が、近い日に行われる大会に向けて練習に取り組んでいる。
 運動部の人も大変だな。五月だというのに、ジリジリと蒸し暑くなってきてるこの時期に大会があるのだから。

 校庭で練習に励む生徒たちを横目に、私は校門を抜けて学園の近くにあるスーパーへ向かう。目的のスーパーは、御蔵学園からそう遠くない商店街の中心に店を構えている。ここからスーパーに着くのに、20分はかからないだろう。
 校門を抜けるとすぐそこに立っている大きな時計に目をやると、時刻は4時半頃を指そうとしていた。今から買い物に行って、あの山を登れば……うん、まあ晩ご飯には丁度いい時間になるだろう。
 私は財布を片手に、先輩からリクエストされた肉じゃがを作るべく、材料を買いにスーパーへ向かって歩き出した。


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