05


 あれから結局――20分だけ寝転がるつもりが、五時間目の授業が終わりを告げるまで寝転がってしまった。
 隣で眠る先輩に「どうして時間だって言ってくれないんですか!」と八つ当たりをして飛び起きると、仰向けで硬い床に寝転がっていたものだから、背中の骨がぼきぼきと悲鳴を上げて鈍い痛みが全身に広がる。予想もしていなかった突然の痛みに、私は反射的に背中を丸めた。
 やっぱり、普段やらないことを急にやってみるものではない。今度寝転がる時は、クッションとか毛布とか柔らかいものを敷いて寝転がろう。


「……えっ? ああ、もうそんな時間?」


 全身の痛みに背中を丸めている私の隣で眠っていた先輩は、八つ当たりの声を聞いて閉じていた瞼をゆっくりと開ける。寝起きの目に真昼間の日差しは眩しかったのだろうか、先輩は開けた目を細めて、それから何度か瞬きを繰り返す。しばらくその行為を続けて、日差しの明るさに慣れた目をぱっちり開けると彼は上体を起こし、くあ、と短い欠伸を漏らした。
 私と違って、先輩は硬い床に寝転がったにも関わらず痛みを感じていないようで、まるで自分のベッドから起き上がるように、自然な動きで立ち上がる。先輩の滑らかな動作を見ると自分が情けなく思えて、なんとも言い難い敗北を感じた。
 一方的に敗北感を抱えて、先輩を睨みつけるようにじっと見る。別に故意も他意もないのだけれど、なんとなくそういう気分だったから。
 彼は私の視線に気づくと口元に微笑を浮かべ、少し腰を屈めて右手を差し出してきた。


「いや、天気が良くてつい寝過ぎちゃったんだ。あんまり怒らないでよ」
「……怒ってはないんですけど」


 文句を言いながらも差し出された右手を掴むと、先輩は私の手を握ったまま右手をぐいっと自分の方へ引き寄せる。その力に引っ張られるように、私は硬い床に足の裏を着いて立ち上がった。立ち上がった拍子にまた背中がずきんと痛んだけど、この痛みはもう仕方がない。しばらくすれば痛みもなくなるだろう。
 仰向けに寝転んでいたため、汚れがついたスカートの後ろを両手で払って一息つく。
 五時間目を丸々サボってしまったんだ、六時間目には遅れる訳にはいかない。開始のチャイムが鳴る前に教室に戻ろうと、私は先輩に別れを告げる。


「じゃあ、私は教室に戻るので、先輩もちゃんと授業に出てくださいよ」
「はぁーい」
「放課後にまたここに来ますから、私の教室には来ないでくださいね」


 最後にもう一度、教室に来ないように念には念を入れると、先輩は「えー、うん、はいはい」と残念そうに返事をする。こうして何度も注意しなければ、彼は本当に来るつもりだったのかもしれない。
 屋上を出る前にまだすやすやと眠っているシロを撫でてから、私は弁当箱を手にし、今度こそ高等部の屋上を後にした。

 階段を下りていると、休み時間で廊下に出ていた高等部の生徒たちに見つかり、珍しいものを見るような感じの視線に居心地が悪くなって、私は足早に高等部の校舎を出ようとする。中等部の生徒が高等部に来てはいけない、なんて校則はないのだけれど、未知の領域に自ら足を踏み入れる勇気がある人間なんて中等部にはそれ程いない。だから、高等部の生徒は中等部の生徒でありながらここにいる私を珍しく思い、私はこの未知の領域にいることに不安のようなものを感じているのだろう。
 屋上から一番下の階まで走るように下りて、高等部と中等部を繋ぐ渡り廊下に出て少し安心する。渡り廊下は二つの校舎を繋ぐために建物の外部に存在していて、ここなら中等部の生徒だろうと高等部の生徒だろうと、どちらの渡り廊下ということもないので気にせず堂々と歩ける。
 私は歩くスピードを落として、渡り廊下の先にある開けっ放しの扉を抜けて中等部の校舎へ入った。

 中等部の校舎に入ると、廊下は休み時間で賑わう生徒たちで溢れていた。窓際に集まってお喋りをする女子生徒、ふざけ合って廊下を走る男子生徒、プリントの山を両手に抱えて教室に入っていく生徒――いろいろな生徒の間をすり抜けて、私は一階にある自分のクラス、3年A組の教室に辿り着く。
 教室の扉をがらりと引いてまず最初に目についたのは、ぱっちりとした大きな瞳に、女だと言われればそう見えてしまうくらいの女顔――私の前の席の住人である大槻だった。
 彼も私の存在に気づいたようで、机の中から出そうとしていた教科書類を机上に置くと、小さな子供のように無邪気な笑みを浮かべて手招きをしてくる。私はそれに従うように、大人しく大槻のところ、というより自分の席に向かう。
 きっと大槻は、昼休みと五時間目のことを聞き出してくるに違いない。まあでも、これは覚悟していたことだ。
 逃げ場をなくした私は腹を決め、誰にも気づかれないように小さく深呼吸をしてから、大槻が待つ自分の席に腰を下ろす。


「佐倉さん、さっきの時間どうしたの? 大丈夫?」


 と、予想とは違う、まるで心配するような大槻の声色に耳を疑う。
 てっきり、昼休みから今までのことを聞かれると思っていた私は、驚いて大槻の顔色を窺った。先程の無邪気な笑みはどこにいったのか、大槻は表情を一転させ、曇った顔で私の顔を心配そうに覗き込んでいる。
 大槻がこんな表情をするのは初めてで、どうせまた面白おかしく話を聞かれるんだろうと思っていた私は、なんだか申し訳ない気持ちになる。
 まさか、自分は陰陽師の子孫だという変わり者の先輩と、自らを祈祷師だと名乗る錫杖を持った金髪の先輩の間に入り、話し合いにもならない言い争いを中断させた後に高等部の屋上で寝転がっていた――なんて言える訳もなく。
 本当に心配してくれた大槻に嘘をつくのは心が痛かったが、「少し具合が悪かったから保健室に行ってただけ」と答えた。大槻は私の言葉を疑わずに、「あんまり無理しちゃ駄目だよ」の一言だけを告げると、珍しく詳しい話も聞かずに、席を離れて他の友達のところへ行く。
 いつもの大槻なら、もっと何かあったんじゃないかと身を乗り出して話を聞いてくるはずなのに……ううん、調子が狂うな。

 へらへらと笑いながら友達と話す大槻を睨んでいると、教室の前の扉ががらりと開き、小柄な女の先生が教科書類を片手に入ってきた。周りの女子生徒とあまり変わらない背丈に、腰まで伸ばした黒髪を緩く一つに結んだ彼女は、化学の授業を担当する小泉先生だ。
 小泉先生を見て次の授業は化学だと分かった私は、机の中から化学の教科書とノートを取り出してそれを机の上に並べる。並べたところで時計に視線を向けると、針は午後2時29分を指していた。
 数秒すると六時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴って、廊下に出ていた生徒や席を離れていた生徒が一斉に自分の席に戻ってきた。がたがたと席に座る音が止むと、教壇に立つ小泉先生が「それじゃあ始めるよー」と気怠げな声を上げ、日直の人が「起立」と号令をかける。クラス全員が立ってからお願いしますと一礼して、「着席」の声と同時に私は席に座った。


「じゃ、この前の続きねー。教科書は18ページ開いてー」


 間延びした話し方をする小泉先生の指示通りに教科書を開いて、ふと、目の前にある後ろ姿に目が止まる。他の男子に比べて小柄な背中を、ただぼうっと眺めながら小泉先生の話を聞き流す。
 大槻が口にした「あんまり無理しちゃ駄目だよ」という言葉が、何故か頭から離れなかった。
 他人から見て、私は無理してるように見えるのだろうか。なんて考えて、馬鹿らしくなる。具合が悪いと聞いたら、誰だってそう言うのが正解なんだ。大槻の言葉に大した意味なんてない。
 そんな考えを振り払うように、私は大槻の背中から視線を外して教科書に向き直る。
 とにかく今は授業に集中しよう。先輩たちと絡んだせいで脳がうまく働かないけど、五時間目をサボってしまった分、頑張らなくちゃいけない。
 かつかつと黒板に書かれていく白い文字を、私は無心でノートに書き写していく。何も考えないように、余計なことを考えないように、ただ無心に鉛筆を滑らせた。


 × × ×


 約一時間後。
 全ての授業が終わり教室の掃除をして、帰りのHRの時に、担任の先生から五時間目はどうしたのかと聞かれた私は「具合が悪かったので保健室に行ってました」と言って、なんとかその場を切り抜けた。特に問題も起こしていない無遅刻無欠席の、ごく普通の生徒である私に、先生はなんの疑問も持たず「体調には気をつけてな」と一言だけで済まされる。
 その一言だけで済まされてほっとする、けど、HRが終わった後に先生が保健室に訪れた生徒を確認しに行くのは分かっている。
 HRでの連絡事項が終わって、「さようなら」と挨拶をすると私は急いで教室を飛び出し、先生よりも先に保健室に向かった。保健室は教室から廊下に出て、昇降口の目の前にある職員室を通り過ぎた廊下の隅の方にある。
 数秒で保健室に着いた私は、保健室の扉を二回ノックした。すると中から「どうぞー」という女性の声が聞こえてくる。扉を開いて「失礼します」と中に入れば、ラフな格好にその体格には合わない、少し大きめ白衣を着た秋野先生が椅子に座って退屈そうにお茶を啜っていた。
 秋野先生は私を見ると「あら、弥生ちゃん」と名前を呼んでにこりと笑う。


「今日はどうしたの? 何か相談したいことでも?」
「いえ、今日はそういうことじゃなくて……」


 私は秋野先生に、昼休みに高等部の先輩に絡まれ五時間目には出れなかったこと(誤解を生むかもしれないが、嘘ではない)を伝えて、その時間は具合が悪くて保健室で休んでいた――「そういうことにしてください」とお願いした。何度かお世話になっている秋野先生は、軽い口調で「はいはーい」と笑った後に「次はちゃんと言ってからサボりなさいね」と言って私の額を人差し指で突いた。別にサボった訳ではないのだけれど、結果的にはサボりという形になってしまったので、「次からはそうします」と返す。私の返事に、秋野先生は「よろしい」と満足げに笑った。


「それにしても、弥生ちゃんが高等部の子に絡まれるなんてね。何なに? 高等部の子に蹴りでも入れちゃったの?」
「まあ、入れたりもしましたけど、そういう喧嘩とかじゃなくてですね……変人二人の仲裁に入ったというか、その」


 なんて説明したらいいのか分からなくて、私は曖昧に言葉を濁す。裸足で羽織を着た先輩と錫杖を持ち歩く金髪の先輩なんて、現実味がなくて説明のしようがない。


「あははっ! 何それ、面白そう。良かったら今度、先生にその話聞かせてよ」
「面白くもないですけど……その時はお茶菓子も用意してくれると嬉しいです」
「ふふっ、はいはい。今丁度切れてたところで、先生もお腹空いてたの。次来る時はちゃんと用意しておくから。ほら、そろそろ行かないと担任の先生が来ちゃうよ?」


 秋野先生の言葉に、壁にかけられた時計に目をやると時刻は3時40分前で、それはそろそろ担任の先生が保健室に確認しに来る時間だった。
 私は慌てて保健室の扉に駆け寄り、「失礼しました」と言って保険室の扉を開けて廊下に出る。「またねー」と手を振る秋野先生の姿を最後に、私は鞄を取りに教室へ戻った。

 小走りに教室に戻ると、教室にはもう数人の生徒しか残っていなかった。ほとんどの生徒は部活や委員会に行ったのだろう。部活にも委員会にも用がない私は、教室の後ろにある棚から自分の鞄を手に取り、急いで高等部の屋上へ向かった。
 高等部の方が授業時間が長いといっても、この時間は高等部も放課後のはずだ。あまり先輩を待たせると、中等部に来てしまうかもしれない。
 それだけは阻止しなければと、私は廊下にちらちらといる生徒たちに気づかれないように、少し走っては歩き、走っては歩きを繰り返して、先輩が待つ高等部の屋上を目指した。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -