「おはよう」 「おはよ」 「髪、短くしたんだね」 「……別に」 「昔みたいだ」 「……」 僕の言葉から逃げるように、なまえさんは視線を逸らした。 まだひとけの無い午前七時半の教室。隣の席の彼女は、頬杖をついて黒板の向こう側をぼんやりと見つめている。 その目元が僅かに赤く腫れていた。 なまえさんは昔からの幼馴染みで身内も同然である僕がどう贔屓目に見たとしても「女の子らしい」という形容詞とは程遠いようなひとだった。 日焼けした肌、短い黒髪、サバサバした性格、言葉遣い。どれも女の子らしさには決して繋がらないものだ。 世の中の女子が興味を持つお洒落などには見向きもせずに、兄さんと一緒にゲームをしたり僕の持つ漫画を片っ端から読み漁ったり、ろくに同性の友達も作らずそんなことばかりしているなまえさんに「もう少し女の子らしくしたらどうなの」と声を掛けたことが何度あっただろうか。なまえさんはその度に「うるさいホクロ眼鏡」なんて失礼極まりない悪態をついて鬱陶しそうに耳を塞いでいた。 そんな彼女が、中学一年生のある時を境にして短く切り揃えていた髪を伸ばし始めた。邪魔だから。風呂上がりに乾かすのがめんどくさいから。以前はそう言って邪険に扱っていたはずなのに。 それからなまえさんは人並みくらいには自分の外見に気を遣い始め、日に焼けた肌は幾分か白くなり、伸ばした黒髪はきちんと手入れされて綺麗なストレートになった。 彼女は恋をしているようだった。 人づてに聞いた話では、相手はどうやら別のクラスの男子生徒なのだそうだ。 女性は恋をすると変わるものだとよく言うけれど、それは全くその通りで、なまえさんは前よりもずっと綺麗でずっと女の子らしくなった。おかげで同性の友達も増えていき、それと反比例するようにして彼女が修道院に遊びに来る機会は減っていった。 そうして時を重ねるうちに、僕の大切な幼馴染みは手の届かない遠い遠い所へ行ってしまったような、そんな気がした。 いつまでも昔のままではいられない。そんな当たり前のことが、無性にもどかしかった。 なまえさんが髪を切った。 つい昨日までは胸元まであった黒髪が今は肩にも届かない長さになって、開け放された窓から吹き込む秋の風に揺られている。 僕が放課後の教室で声を押し殺して泣きじゃくるなまえさんを見つけたのは3日前のこと。何してるの。夕暮れ色の逆光を浴びる背中にそう声をかけようとしたところ、なまえさんは僕に気付くや否や逃げ出そうとした。何だか様子がおかしかったので、半ば反射的に追いかけてその肩を掴んで引き留めると、なまえさんは目にいっぱい涙を浮かべていた。 正直、驚いた。 幼い頃の話だけれど、僕がなまえさんの前で情けなく泣くことはあっても、なまえさんが僕の前で涙を見せたことなんて、思えば一度も無かった。 一瞬目を丸くして固まった僕を強引に振り切って、なまえさんは逃げた。 こんな姿は見られたくない。プライドの高い彼女のことだから、きっとそんな思いでいっぱいだったのだろう。 どうして彼女が泣いていたのか、どうしてせっかく伸ばした黒髪をばっさりと切り落としたのか、そんなことは僕には関係ない。なまえさんだって、僕に理由を話す気なんてこれっぽっちも無いだろう。 単なる幼馴染みでしかない僕には、なまえさんが誰と付き合おうが、誰に振られようが、全く関係ない。 だから僕は、あまりに無神経で彼女の気持ちなんて全く省みない利己心に満ち溢れた言葉を贈るよ。 「やっぱり、そっちのほうがなまえさんらしいよ」 まだ俯いたままでいる彼女に、一言、そう告げた。まるで、事情なんてこれっぽっちも知らないというように。 僕は兄さんみたいに綺麗じゃないから、君を慰めてはあげられない。 建前なんか捨てて、素直で醜い本音を吐き出したんだ。 ――ずっとずっと、君が好きだった。 本当に伝えたい言葉は、いつだって胸の内に納めたまま。 僕は狡猾で情けない人間だ。いっそ嘲笑ってくれたらいいのに。 なまえさんは僅かに口を開きかけて、ぐっと言葉を飲み込んで押し黙った。 午前七時半の教室は、再び静寂におちていく。 20111206 |