すこし注意


 たん、と小気味の良い音。それは、人の死せる音。それは、わたしが放った銃弾の音。白い雪原のなか、軍服を着た男性が倒れこんだ。まっ白一面に、ぽつりと黒い点。その点を、すぐさま駆け寄る別の黒い点の人々が運び出すところまでを眺め、わたしは窓枠で固定していた銃を持ち上げて踵を返した。
 第七師団にひそかに反旗を翻す鶴見中尉一派。その彼らにもまた、造反者がいる。わたしが先ほど殺めたのはそんな造反者の造反者の一軍人にすぎない。まだ日も昇らない早朝に、鶴見中尉に言い渡された任務である。標的は一人だけ、下っ端であるから護衛もいない。のこのこと歩いている標的の脳みそを、この本部の建物内から撃ち抜くことなど造作もなかった。銃を握るたび、思い出すのはあの人だ。標準が定まり、鼓動が落ち着いていく。あの人は、きっともっと遠い標的すら簡単に撃ち抜くことだろう。わたしはそんなことを考えながら指先で引き金を引いた。
 報告をするべく、今朝の点呼を行っているであろう広間に向かった。大勢の軍人が蠢くそこで、鶴見中尉はそんな彼らを見定めるように佇んでいた。恐ろしいことだろう、あの、何を考えているのかほんの少しも分らない黒々とした瞳に見定められることは。それでも、鶴見中尉のその眼鼻立ちは遠目で見てもわかるほどに整っていた。すっと伸びた鼻筋に、尖った顎。しかし、整っているからこそその瞳と額当てが余計に彼の不気味さを増長させているとも言える。彼の意図するところを、その横顔から推測することは不可能だ。せいぜい、その均整のとれた顔のつくりを何も考えずに眺めることしか出来ない。わたしはかぶっていた軍帽を、また深くかぶりなおして彼に近づいた。ぶかぶかの軍服を、彼ら軍人の真似事みたいに身につけているわたしは、女性らしい体の凹凸も乏しいため、知らぬものが見れば本当に少年のように見えることだろう。鶴見中尉は、時折わたしに軍服を着せて傍に置いておこうとすることがある。その姿は傍から見れば少年のように見えるだろうし、わたしの存在を知る彼に近しいものであれば、女の分際で軍人の真似事など、と悪態をついているであろう。こういうところを踏まえても、やはり中尉の考えの及ぶところはわたしにはまだ理解することができないのだ。

 「中尉、」と背後から声をかけるとき、彼はもうわたしがそこにいることに気づいていたかのように、肩越しにこちらに視線を投げていた。まだ熱を帯びている銃身を背負うわたしを見下ろし、中尉は「なにか問題はなかったか」と問うた。はい、と答えようとして、わたしはどうしてかこちらに振り返った中尉の、その奥に視線を投げてしまっていた。きっとその人も、中尉の傍にわたしがいると知らずに視線をこちらに向けてしまったのだろう。中尉のもとにわたしがいると分かっていて、視線をよこすほど彼は愚かではない。ふいに流した視線の先で、不幸にも、わたしと視線がかち合ってしまったのである。
 それはコンマ一秒ほどもなかったかもしれない、それでもわたしは大勢の軍人の中でただひとり、こちらを見る彼の瞳にこくりと喉を鳴らしていた。体中の血液が、指先を、足先を、そして心臓に廻るのを感じた。その人は、まるでたおやかな水の流れのようにごく自然にすっと視線をずらし、何事もなかったかのように別のほうを向いた。わたしもすぐに鶴見中尉を見上げ、口を開いた。

「はい、無事に遂行しました」

 中尉はじっ、とわたしの瞳を穴があくほどしばし見つめ、小さくうなずいて、また体を反転させた。戻っていなさい、という意である。わたしはもうほかに視線を移すことなく、来た道を戻るようにして本部の中へ向かった。きっと、尾形上等兵の視線も決してこちらには向けられないであろう。


 わたしはその足で鶴見中尉の執務室へ向かっていた。たいてい、こういった任務のあとには詳細な報告を求められるため、彼より先に執務室で待機していることが多い。わたしが部屋の前で幾分佇んでいると、すぐに鶴見中尉がやってきた。入りなさい、と促されて彼に続いて部屋に入室する。羽織っていた分厚いコートを脱いだ中尉は、椅子の背もたれにそれを乱雑にかけると、そのままわたしから銃を取り上げた。

「別の者からも報告は聞いておる、相変わらず、見事な射撃だったと」
「…いえ」

 別の者とは、わたしが標的を撃ち抜いた直後に、それを足早に回収していた連中のことだ。人を殺めたことも、その記憶さえ、わたしには何の感情も与えなかった。わたしの脳裏によぎるのは、つい先ほどの、あの人の瞳だけで、

「っ、中尉?」

 この人の目の前で、この人以外のことに思案を巡らせるなど得策ではない。だというのに、わたしはどうやら気を抜いてしまっていたようだった。思いのほか、鶴見中尉は目の前まで迫っていた。こわい瞳で、またわたしをじっと見下ろしている。両手で頬を包み込まれるように掴まれたかと思うと、その親指で唇を割られ、無理やりに舌を引っ張り出された。

「んっ、む」

 ほぼ垂直に顔を引き上げられ、舌を強く吸い上げられた。中尉の唇がわたしの唇を、舌をまるでそのまま咀嚼して飲み込んでしまうのではないかと思われるほど、丁寧にしゃぶって食んだ。愛情のキスなんかではなくて、それはまさしく捕食に近かった。中尉の咥内に引き入れられたわたしの舌を、丁寧に自分の舌に絡ませ、じゅ、じゅ、と音がするほど吸い上げ、時折尖った犬歯で甘噛みする。そうしてわたしの咥内にとくとくと自分の唾液を注ぎ込み、蓋をするようにまた唇を食べられる。体勢のせいもあって、ほとんどつま先立ちになってそれを受け入れるのはかなりきつかった。

「ふっ、んっ、んっぁ、」

 苦しくてほんのわずかな隙間から酸素を取り入れようとするも、中尉にそれを目ざとく見つけられてかっぽりと唇で蓋をされてしまう。そのまま丁寧に上あごを舐められ、くすぐったさに身をよじる。その舌が今度わたしの舌の裏側をぎゅっぎゅっ、と刺激し始めると、わたしの意志とはまるで無関係に膝がかくかくと笑いだした。なんとなく、腰が重たくなる。毎夜の行為を思い出させる仕草だった。

「んっ、!?」

 器用にも、中尉は捕食するみたいなキスをしながらわたしを壁際に追いやり、押しつけた。中尉の膝が持ち上げられて、わたしの脚の付け根をぐっと刺激した。そのままさらに強くぐりぐりと膝が押しあてられ、わたしのつま先はついに床から少し浮いた。中尉の膝に全体重が乗っかると、それは想定外の刺激となってわたしの背中を駆け上がった。びくっ、と体が揺れる。鶴見中尉はまだ唇を解放してはくれなかった。
 はふはふ、とだらしない犬のような呼吸をつづけるわたしに、最早抵抗の意も力もなかった。何より恐ろしかったのは、押しあてられる中尉の膝を濡らしてしまっていないかということで、それは絶望を感じるほどの恐怖だった。しばらくして、長い脚がようやく引き下ろされ、わたしのつま先が久方ぶりに床に接地した。そのまま腰がくだけそうになるのを二の腕を掴まれることで阻止され、そのときになってやっと中尉の唇が離れていった。

「はぁっ、ふっ、…」
「射撃に長けているもの、剣術に長けているもの、それぞれその力をもってして人を殺めるとき、どうも性的興奮を覚える者が少なくないらしい。」

 お前はどうだ?とでも言いたいのだろうか。残念ながら、人を殺めるときも、食事をとるときも、わたしは同じ感情で動いている。特別人を殺めることで何かしらの感情が動くことはないのだ。けれど、そう長々と伝えるほどの気力はわたしには残されておらず、いつまでも整わない呼吸に肩を揺らしていた。

「…なにかほかに報告することは?」
「…っ、はぁ、な、…ないです」

 呼吸を整えることに集中すべく、一度瞼を閉じた。中尉の大きな掌がぺたぺたとわたしの顔を触る。
 目を開ける。中尉の黒い瞳が目の前にあった。

「先ほど、誰を見ていた?」

 ようやく呼吸が整った。わたしはひとつ瞬きをして、ほんの少しも表情を変えることなく「鶴見中尉だけです」と答えた。中尉も瞬きをした。そうか、と返した鶴見中尉の表情は先ほどとなんら変わりがないように思えたけれど、その瞳にはたしかに懐疑的な色を孕んでいたし、わたしの二の腕を掴む指先にはかなりの力がこめられていた。

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