喉元をつぶされる。息を喰われる。そんな感覚を覚える。鶴見中尉のキスは、いつだって捕食のようだった。

 わたしの後頭部と首の付け根の境に手を当てて、ほとんど垂直になるほど顔を引き上げさせると、自分は悠々と突き出された唇を食む。もう一方の腕がわたしの腰から胴にかけて蛇のように巻きつき、顔を引き上げるだけではまだ足りないと言わんばかりに自らの体に押し付けるように引き寄せるのだから、わたしの体はほとんどが鶴見中尉に抱き上げられているといっても過言ではない。つま先がかろうじて床に接地しているだけでは、そのほとんどを中尉に委ねるほかないのである。自分と鶴見中尉の胸の間で潰れる手が痛かった。ぐう、と体全部を使って、抱き込まれているのか、キスをされているのか、それが曖昧に感じてしまうほどにはわたしに自由はなかった。

「んっ、ぅ」

 それは突然だった。いつものように、医務室でわたしは何をするわけでもなくぼんやりと椅子に凭れていた。曇った窓ガラスから見える外の風景は、どんより、という言葉以外思いつかないほどの鬱蒼とした曇天で、この医務室に流れる時間は、ほかの空間から切り離されてしまったのではないかと思うほどゆっくりと時を刻んでいた。瞬きを二、三、繰り返す。銃に触れていない間のわたしの指先は恐ろしくなるほど頼りなく、なんの存在意義もなく、今すぐにでも砂となって消えてしまいそうだった。

 鶴見中尉がやってきたのは、そんなことを思案している最中だった。

 突然医務室にやってきた鶴見中尉は、外の冷たい空気を纏わせながらぐるりと室内を一瞥したあと、目の前にまでつかつかと歩み寄ってきた。反射的に立ち上がるわたしを、中尉はほとんど持ち上げるような形で引き寄せると、勢いそのままに唇に噛み付いてきたのである。

 「ふ、…っ、ん、んぅ」

 身じろぎひとつ、かすかな息継ぎさえ許されない。咥内を縦横無尽に這いずりまわる長い舌先が、蛇のそれのようにわたしの舌に絡んでは強い力で吸い上げる。口の中は既に鶴見中尉の舌でいっぱいになっているというのに、この人は今度、その舌でわたしの下唇を押さえつけ、無理やりこじ開けた咥内に唾液を注いだ。ぶるっ、と背中が震える。すぐにまた痛いほど舌も唇も吸い上げられて、本当に口まるごとを食べられてしまうのではないかと錯覚した。それでも時折わたしを試すみたいに上あごをついつい、とつつく様は、この不気味な黒々とした瞳からは想像ができないほど、夜の情事をにおわせた。ぎゅう、とさらに強く抱き込まれる。鶴見中尉がどんどん体を折り込んでわたしを抱き込むものだから、わたしは逆に弓なりに背中をしならせるばかりである。呼吸がつらいだけではなく、体勢ももう限界だった。怖かったけれど(体が新鮮な酸素を求めるがゆえに)今までお互いの胸の間でつぶされるだけだった指先で鶴見中尉の服を掴んだ。すっかりわたしの口に蓋をするみたいに唇を押しつけていた鶴見中尉は、そのときになってようやく顔をあげてくれた。

 中尉の薄い唇につう、と唾液の糸が伸び、そのうちにぷつんと途切れた。わたしを見下ろす黒い瞳。静かな部屋には、情けないほどに乱れたわたしの呼吸の音だけが反響していた。

「ちゅうい、…」
「…なんて顔だ」

 呆れるような口調なのに、中尉の面には笑みが浮かんでいる。鶴見中尉は、最後にわたしの唇をべろん、と舐めた後に体を解放してくれた。膝が笑って、うまく立っていることすらままならない。そばにあるベッドに手をついたところで、背後でまた新たに医務室の扉の開く音を聞いた。

「鶴見中尉…」

 酸欠でくらくらとする視界の奥、その人影にわたしはぞくりと背中が粟立つ感覚を覚えた。鶴見中尉が「鯉登少尉」と彼の名前を呼ぶと、その人はうっそりと柔和な表情を覗かせる。けれどそのあとすぐに中尉の奥にわたしの姿を見つけると、今の顔が嘘みたいに、その切れ長の瞳に鋭い眼光を宿した。突き刺さるような冷たくて攻撃的な視線に耐えきれず、わたしはすぐに彼から視線を外した。

「悪いな、鯉登少尉。待たせた上に探させてしまったな」
「い、いえ。そんな…」
「正面に馬を用意させている。が、待たせたついでに悪いが、もう10分ほど待っていてくれるか。片付けておきたいことがまだあってな」
「悪いなどと滅相もございません!勿論であります、自分にもお手伝いできることがあれば何なりと…」
「いや大丈夫だ。すぐに戻るから、ここで待っていてくれ」

 鶴見中尉は入り口で敬礼姿勢をとる鯉登少尉の肩をぽんと叩いて、そのまま部屋を後にした。今、あの人はなんて言っただろう。ここで待てと、本当にそう彼に告げていただろうか。去り際に、きっと中尉はほくそ笑んでいたに違いない。そういう人だもの。あの人はわたしを地獄の入口まで追いやるのが非常に得意なのだ。

 鯉登少尉が後ろ手に医務室の扉を閉める音で、はっとして顔を上げる。少尉は見定めるようにわたしをじろじろと見やってから、こちらにぬっと腕を伸ばした。褐色の指先がわたしの襟元を掴み、そのままわずかに持ち上げる。先ほど中尉にされたよりずっと乱暴に、わたしの気道はまた圧迫される上、体の自由を奪われた。鯉登少尉の顔が、鼻と鼻がくっつくほどの距離にまで近づけられる。彼の言わんとしていることはなんとなく想像ができていた。その瞳に渦巻いているのは、純粋なまでの嫉妬の炎だったからである。見れば分かる。そしてその瞳は今度、息苦しさに薄く開いたわたしの唇に向けられた。

「なぜ、鶴見中尉…、」

 紅潮した頬、ぬらぬらと唾液で光る唇、そして彼が入室した際の、わたしと中尉の距離。物的証拠はこれ以上ないほど揃っていただろう。鯉登少尉は、今の今までさんざんに蹂躙されてきたわたしの唇を恨めしそうに見下ろして、再度、何故、と小さく呟いた。

「っひ…!」

 そうしていまだ唾液の乾かないわたしの唇を、ぞろり、と長く肉厚な舌で舐め上げた。思わず上げてしまった悲鳴にもお構いなしに、今度はわたしの唇に歯を立てると、柔い力加減で甘噛みした。襟元を掴む少尉の手を解こうと爪を立ててみるが、それは石のようにびくともしない。けれど仮にも少尉の地位にあるこの人に、それ以上の表立った抵抗らしい抵抗はできない。少尉、となんとか言葉を絞りだそうとしているのに、肝心のその人は悩まし気な表情で、歯を立てたところを再度舐めつけ、ぢう、と妙な音を立ててわたしの唇を啜るばかりだった。びり、と唇に痛みを走った。ぎりぎりと襟元を締め上げ続けられるせいで、先ほどの酸欠よりも、もっと明確に生命の危機を感じた。苦しい、と申し訳程度に指先で訴えても、少尉は取り合ってくれない。この人が求めているのは、わたしの体にわずかに残る、中尉の体温なのだ。その執着心たるや、常時親の仇のような瞳を向ける標的であるこのわたしに、口と口を合わせて粘膜を舐め上げるほどである。

この人にとって、鶴見中尉がどんな存在なのかは知らない。理解する気も毛頭ない。けれど知らなくとも肌で感じるほどの彼のこの酔狂ぶりには、正直わたしは辟易しているし、恐怖すら感じている。鶴見中尉に首輪で繋がれることに、一体どんな利益を感じうるのだろうか。教えて欲しい。この手枷足枷が羨ましいと思うのなら、首輪に繋がれ一生この人の命令のもとでしか生きながらえない悲劇が美しいと思うのなら、どうか教えて欲しい。わたしには、何もないのである。


結局鯉登少尉のされるがまま、わたしが解放されたのは鶴見中尉が再び医務室に現れる直前だった。鯉登少尉と部屋を後にする際、鶴見中尉は確かにわたしに視線を投げていた。こちらを捉えていたのは、あのなんの感情も読み取れない無機質な黒い瞳である。その背中は、わたしに今夜の悪夢を予見させるようだった。

ようやく1人になった冷たい部屋で、わたしはふらふらと最初に腰を掛けていた椅子に凭れかかった。なんだかどっと疲れた気がする。窓の外に視線をやると、ついに仄暗い曇天からはぽつぽつと雨の雫が漏れ出していた。霧が掛かった不気味な夕暮れ、一歩あの霧の中に足を踏み入れればきっともう人の世には戻ってこれないような、そんな雰囲気を孕んでいた。

でも、駄目だ。この霧の中に飛び込んだとして、わたしにはあの人から逃げ出せる未来が思い浮かばなかった。あの人がこの首輪に繋がる鎖を引き上げるからではない。わたしが、この足で鶴見中尉のもとへ戻らざるをえないのだ。わたしにはそれが何よりも恐ろしかった。

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