ちょっと注意 



 肩を掴んだのがハンジだと分かった瞬間、そして振り返って彼女の表情を見た瞬間、ああこいつは今からわたしにとって不利益なことを口にするのだろうと直感した。理由は単純明快、経験からの予測値である。こんな表情のハンジにかなり面倒な仕事を言い渡されたことが、今までに両手では数えられないほどあったからだ。反射的にその口を塞ぎたくなってしまったわたしだが、ハンジはそれよりも早く演習場の監督をしてきてほしいんだけど、とやけに溌剌と告げた。

「は、演習場?」
「そ!暇でしょ?」
「あんた人にものを頼むときにそれはどうなのよ」
「事実でしょーう?」

 人類のために、この壁の中で活動している兵団のうち我が調査兵団がそれに一番尽力しているのではないかと考えるのは自分がそこに所属しているせいばかりではない。実際壁の 外に行ってその領地を拡げんと直接的な行動に移っているのが調査兵団だけなのである。もちろんそれに見合うだけの成果が挙げられたのかと言われれば、即答はできない。しかし内地で酒を浴びるだけのような憲兵団や駐屯兵団よりかは、調査兵団はよほど人類のための活動を行っていると自負出来る。さて、しかしそんな調査兵団といえど、毎日毎日仕事に追われているわけではない。確かに壁外調査では生き死にを揺るがされる任務を課せられているもの、寧ろそれ以外のところでは目立った仕事は回ってこないのだ。月に一度の壁外調査だって、必ず実行されるわけではない。資金繰りの問題だったり、人員の問題だったり、内地との調整など云々でそれがかなり間隔を開けてしまうことも珍しくないのだ。ちなみに内地との調整というところはわたしもよく理解していない。どうせお硬い上の連中の都合なのだろうけど、それをしっかり理解したいと考えるのならエルヴィン団長の執務室で5時間ほど討論を交わすのがお勧めだと思う。もちろんわたしにそんな知識は必要ないので、大人しく訓練に時間を費やそうと考える。

 そんなわけで先日の壁外調査から中々に暇な時間を持て余している我々は、訓練や模擬演習、そうでないときは掃除洗濯に勤しんでいる。あの小姑のような兵長殿のご指導の賜物で掃除や洗濯にはかなり自信がついてきた今日この頃だ。今日も建物内の掃除を終え、洗濯物を取り込んだところでハンジに捕まった。ちなみに今日はリヴァイがここを出ているため、彼の血反吐を吐かさんばかりの訓練はない。ハンジはまたにっこり笑った。

「大体演習場って、」
「ほら今日から新兵達がここに来てるだろ?彼らがそこで訓練しているはずなんだ。」
「ああ、そういえば来てたんだっけ」

 この古城は巨人化するエレンを監視するという名目でわたし達が過ごしている、本部とは別に切り離された施設である。本来ならばエレンのような新兵は本部で生活をしているのだが、わたしが先日聞いた話では確かこの数日、新兵達は本部を離れ拠点を点々とさせながら模擬演習や訓練を行う手筈になっているという。常に同じ場所で落ち着いているのではなく、様々に拠点を作ってそこで生活する術を獲得するだのなんだの。確かそんな感じの今回の訓練の概要を聞いたような、 聞かなかったような。エレンと同期の104期生がこちらに来るということを思案したのは覚えている。104期生で調査兵団を志願したのは22人、主席を含めた上位10位のうち8人がここの所属を志願したという。憲兵団を志願出来る権利を投げ打って、調査兵団を選んだことには中々好印象だった。

「新兵の顔ぶれを覚えるいい機会だし?」

 確かにそう言われれば納得できるが、わたしはどうも人を纏めるだの指揮する能力に乏しい。監督として演習場に向かうのにはどうも気乗りがしなかった。単に砂埃の激しいそこに赴きたくないという理由もあったけれど。

「ええ。わたしこれから掃除が」
「お掃除班…もといリヴァイ班の面々がもう隅々まで掃除終えたでしょ、どうせ暇ならいいじゃない。」

 それでも素直に首を縦に振らないわたしに、ハンジはまた良からぬことを思いついたような顔をして、そっと唇をわたしの耳に寄せて来た。

「あとそれ、気付いてないようなら教えてあげたいんだけどさ」
「?、なにが?」
「知らなかった?」
「だから、なにが」
「こーこ、痕くっきりつけられてるよ」

 ハンジの長い指がわたしの鎖骨をとんとんと突ついた。ハンジの唇は、そのあと「えれん」と動く。始め何のことを言われているか理解できないままに首を傾げていたわたしは、暫くしてその言葉の意味を理解して血が一気に顔に集まるのを感じた。

「は、え…?!」

 ハンジは相変わらずにやにやと笑みを浮かべていた。やばい、死にそう。
 堪らずその場から逃げるようにして駆け出したわたしにハンジは「それじゃあよろしくねー」と背中越しに暢気な声をかけた。


「あーらら、確定かな」






 長い廊下を走りぬけ太陽の光がさんさんと降り注ぐ中庭に飛び出たわたしは、勢いはそのままに、そこから少し出た厩の隣に設置されている井戸まで走った。足に急ブレーキをかけて井戸に手をかける。ぜえはあと肩で息を続けながら、少しばかり呼吸が落ち着いてきた頃を見計らって恐る恐る中を覗いた。水面に浮かび上がる汗を滲ませたわたしの顔。表情は兵士としてはあるまじきかなりだらしのない焦燥しきったそれだった。もう少し身を乗り出して、少し顔を反らしつつ水面を見つめる。ハンジに突かれた箇所をかなり念入りに観察してみたのだが、思い当たるような鬱血痕は見当たらない。顔を上げてすぐ傍の窓を覗き込みながら、反射の力を利用して同じように鎖骨の辺りを確認してみたが、やっぱりそこにはハンジの言う痕とやらは見つからなかった。暫く自分の顔が映る窓とにらめっこをして、わたしは数分たった頃、漸くハンジの言葉がわたしとエレンの関係に鎌をかけたものだということを理解した。

「〜っ!!!くっそ、ハンジのやつ…!!!」

 多分ハンジは毎夜地下室から上がってくるわたしを見て、わたしにエレンと身体の関係があることに薄々感づいていたのだろう。そして多分、先ほどの言葉で確証を得ようとしたのだ。見事まんまと乗せられて、顔を真っ赤にしながらその場を去ってしまったわたしは、自らエレンとの関係を認めてしまったようなものである。くそ、不覚。ハンジの、あのにやついた顔が頭から離れない。ずるずるとその場に座り込みながら、火照った顔を冷たい煉瓦の壁に押し当てる。多分ハンジのことだから、他言するだなんていうことは万が一にも有り得ない。ただ、これから彼女に何かとこの件で冷やかされるのは目に見えていた。

「…はぁ」

 とりあえず、うん、エレン殴ろう。よくよく考えてもみれば、あのエレンが器用にもキスマークなぞをつけることができるはずもなかった。尤もこんなことを言えば奴のことだから目をきらっきら輝かせて、やり方教えてください!!なんて詰め寄ってくるだろう。暫くそこで頭を冷やしたのち、わたしはのそのそと立ち上がって、例の演習場へと足を向けた。このやるせなさを誰かにぶつけてやろうだなんて、勿論考えていない。断じて考えていない。


 演習場に着いて、既に監督を務めていた団員から引継ぎを行う。今年調査兵団に入団した新兵―つまり第104期生達は、巨人との戦闘では必要性を欠くであろうこの対人格闘技に励んでいた。訓令兵を卒業しても尚対人格闘技を訓練として行うのは、最早ほとんど体力づくりといっても過言ではないだろう。訓令兵時代に既に憲兵団を目指していたものならば、この不必要性を汲み取って教官の目を盗みつつ適当にやり過ごしていたはずだ。事実、わたしの訓令兵時代にもそういった連中は多かった。しかしなんというか、今年の新兵は血の気が多いのが目立つというか。凄まじい砂埃を上げて対人格闘技に励む彼らは、お互いに何か恨み事でもあるんではないかと思われるほど真剣にそれに取り組んでいた。多分この中にエレンも混じっているんだろうと思案し、わたしは渡されたボードで自分の肩を軽く叩いた。面倒くさい。せっかくリヴァイもいないことだし、麗らかな午後をゆったりと過ごしたかったものである。大体監督って何すればいいのよ。ぼんやり彼らの格闘技を眺めつつ、これが終わったら書庫へでも赴こうと考えた。彼らの監督をしているように見えるようのろのろと間を歩きつつも、頭の中はさて何の本を読もうかと既に意識は他のところへ浮遊していた。おかげでやたらでかい図体にぶつかるまで目の前の人影に気付かなかったのは、言わずもがなわたしのミスである。

「むぐっ、ご、ごめん…」
「も、申し訳ありません!」

 ぶつかってしまったのはこちらの方なのに、彼はさっと敬礼の姿勢をとってわたしに謝った。彼と対峙していた相手も慌てたように敬礼のポーズをとる。やべえ、余計なことしちゃった。彼らの訓練の邪魔をしただけでなく、明らかにわたしの不注意によることに対して謝らせてしまった。これが揺るぎ無き縦社会なのね、と一人で納得しつつ、すぐに地面に落ちた木製のナイフを拾い上げた。あ、これ懐かしい。

「いや、よそ見してたのこっちだから、敬礼やめて、ね。はい、これ」
「は、感謝します」
「そっちの子もごめんね、中断させちゃって」
「いえっ…」

 かなり長身の彼にナイフを手渡してから、相手側の子にも視線を投げた。うわめっちゃ可愛い。少年だか少女だか分からないような、とてつもなく可愛らしい顔の造りをしたその子は、わたしの顔を見るとあれ、とでも言いたげな表情で青い瞳を丸くした。ちなみに身長はわたしと同じくらい。ますます女の子だか男の子だか分からない。敬礼の姿勢を解かないまま、じっとわたしの顔を観察していた。そんな青い瞳に視線を奪われていたせいか、後ろに迫っていた気配にわたしは全く気付くことができず、ぽんと肩に乗せられた重みに大げさなくらい驚いてしまった。

「なに、してるんですか?」
「わ、エレンか…吃驚した」

 金色の瞳を真ん丸くしたエレンは、わたしがこの演習場にいることが不思議で仕方ないといった顔をしてから、すぐに嬉しそうに頬を緩ませた。くそ。可愛い。もしこれが演技だとしても、可愛い。何をしても許してしまいそうになるくらいは可愛かった。わたしの後方では驚いたように「エレン!?」と上ずった声が上がった。見れば例の可愛い子ちゃんがひどく驚愕した様子で、顔面を蒼白にしてエレンを見ていた。長身の青年も同じように顔を青くしている。ここではもう見慣れてしまっているが、やはり兵団に入ったばかりのひよっこ新兵が親しげに先輩の肩を叩くだの、腕を掴むだのは、同期が見れば肩を引き攣らせてしまうほど異様な光景なのだろう。特に演習場での訓練を監督するようなわたしに対してだったら尚更だ。変な誤解を生まぬようすぐさまやんわりエレンの手を剥がした。(ここであからさまな態度を取れば後々エレンが拗ねて面倒なことになるのだ)ちなみにエレンさん、あなたのペアの人はどうしたんですかね。ペアの人をほっぽってわたしのところへ来ちゃったんですかね。可愛いやつめ。

「監督頼まれたの、ハンジに」
「そうなんですか!えへ、今日は会えないと思ってたので」
「エレンも久しぶりに同期に会えてよかったね」

 なんとはなしに、いつもどおりのよう会話をしてみる。可愛い子ちゃんがわなわなと唇を震わせていた。エレンはそれを一瞥したのちに、思い出したようにあっと声を上げて「あいつが幼馴染のアルミンです」と嬉しそうに笑った。背の小さい金髪碧眼の子がアルミン・アルレルト、わたしが最初にぶつかってしまったのがベルトルト・フーバーというらしい。エレンが同期とくだけた口調で言葉を交わすと言う光景が、わたしにはなんだかとてもきらきらと輝いたものに見えた。たぶん、あれだ。可愛い可愛い我が子が、いつの間にか作ったたくさんの友達の輪の中で楽しそうに喋っているのを見る母親の立場を思った。子供の成長を嬉しく思う反面、ちょっと寂しいと感じる、あの難しい気持ちである。普段年上ばかりに囲まれている所為で使っている敬語ではなく、エレン本来の男の子らしい喋り方は少し新鮮だった。エレンは訓練そっちのけでアルミンとベルトルトにわたしを紹介していた。なんでもいいけど、あの、一番遠いところで訓練している黒髪美少女の視線がすっごく怖いのだけれど。





 

 今日の夕食の当番はわたしである。献立は考えるまでもなく、小さくカットされた野菜のスープに、水分なんてほとんどなくスープに浸して食べれるような硬いパンという質素なメニューである。常々食料が不足しているような時代である。いくら体力が必要と言われる兵士といえど、内地の貴族方のような美味しいお肉だのなんだのは早々お目にかかれないのだ。今日は新兵がこちらに来ているということもあり、パンや食器の数が足りるかなと思案していた矢先、食堂には既に数人の人影があった。アルミン・アルレルトは食堂にやってきたわたしを見て二三度その大きな瞳をぱちぱちと瞬かせたのち、こちらに駆け寄ってくる。
「お疲れさまです。本日は自分たちが夕食の準備をしますので」
「えっ、あ、ほんと?」

 わたしが夕食の当番でここにやってきたというのを見越した言葉だった。アルミンはやんわり笑って、準備が終わるまで自室で休んでは、と提案する。厨房を覗けばエレンの同期と思われる少年少女がエプロンをつけ、せかせかと夕食の準備に追われていた。かくいうアルミンもその手には洗いかけの芋を握っている。近くで見れば見るほど可愛い顔立ちである。わたしはその場を彼らに任せるとして、踵を返した。
 わたしは、いうなれば手持ち無沙汰だった。今日はすっかり夕食の当番だと思って、立体機動の整備も、数少ない書類仕事もすべて終わらせておいたのである。自室に戻っても、と考えたところで、わたしは今夜恐らく厨房にあるだけでは到底皿の数が足りないであろうことを思い出した。今夜は新兵達がいるのである。今厨房の棚に仕舞われている分では勿論足りるはずがないだろう。幸い食料庫に隣接する物置に恐らく予備の食器がいくらかあるだろうことを思案して、わたしは物置へと足を向けた。
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