鳴り響くサイレンに神楽那はゆっくり顔を上げ、今の今まで突き抜けるような青色だったはずの曇天を仰いだ。結局塾生たちと一緒になって海で遊んでいた神楽那だが、サイレンに続いて響く拡声器を通したシュラの指示に、すぐさま表情を切り替える。塾生たちも慌てて砂浜へ戻り、各々武器である火炎放射器を手に取った。

「敵が近づくまで、海には入るな!!」

黒い海に大王烏賊(クラーケン)はただひたすらに静かに佇む。その様子には、シュラを始めとする祓魔師が眉を顰めた。ビーチには餌である人間がたくさん見えるはずなのに、大王烏賊はその場から動こうとしないのである。それどころか一度海に潜った大王烏賊は、結局ビーチへ向かうわけでもなく、海上で様子を伺っていたヘリコプターへ向けて触手を伸ばし、攻撃を仕掛けた。攻撃されたヘリコプターは成すすべも無く海へ吸い込まれ、とっさにそれを救出せんと動き出した祓魔師を、シュラが止める。

「大渦潮(メイルストロム)を起こされたら全滅する!」

しかし、その指示をよしとしない者がひとり。思い切り駆け出して、傍に停めてあったボートに飛び乗ったのは燐である。何故かそのあとにくっついてしえみまでも乗り込んだかと思うと、丁度エンジンが付いたのか勢いよくボートが発進する。それを見た雪男が、苦渋の表情を零して同じようにボートへ乗り込み、彼らの後を追った。

「…雪男!」

その姿には神楽那もシュラと同じようになって声を荒げるが、それも全く聞こえていない様子で雪男は燐の後を追った。大王烏賊の攻撃によって彼らが乗っていたボートが破壊されたことまではビーチにいる神楽那たちにも肉眼で確認できたが、それからの三人の姿は暗い空と海に飲まれ、見つけることは出来ない。大王烏賊がこの海域にいる限り救助隊も捜索隊も出せないのが現状である。シュラが大きく舌打ちをする横で、神楽那は段々と静けさを取り戻していく黒い海を見つめた。






シュラからの連絡で、どうやら燐、雪男、しえみはビーチからも臨める小島に避難しているようで、そこには古い海神の信仰があったらしく、恐らくそのせいで大王烏賊はこの海域に入ることができなかったという。その海神を呼び起こし、あわよくば大王烏賊との交戦に引きずり出そうというのがシュラの考えである。彼ら三人にはそんな海神の接待にあたるという任務が課せられ、ビーチに残る祓魔師たちは海神が動き出すまで待機という命令が下った。支給された弁当の中身を箸でつんつんと突っつきながら、神楽那はふうとため息を吐き出した。
有事の際であるというのに、こんな形ではあるが、雪男と燐がお互いに向き合って話し合うにはちょうどいい機会であると考えている自分に思わず苦笑が漏れた。しかしこれから正十字に戻ったとして、また任務に明け暮れる雪男のことを考えると二人が話し合いの場を設ける機会を作ることは、恐らくかなり難しい。あの離れ小島で、二人はそれぞれの考えと思いを吐き出して、そして認め合わなければならないだろう。それがきっと雪男にとって非常に難しい選択であったとしても、彼はもう悪魔として覚醒し、その力を行使する燐とその悪魔の力を認めなければ先へは進めないのである。
「僕は兄さんを守ると、神父さんに約束したんだ」そう呟いた雪男の横顔が忘れられなくて、神楽那は無意識のうちに唇を噛んでいた。

「なんだ、全然食ってないのな」

ふと後方からかかった声に、神楽那はくるりと首を傾けてその声の主を見上げた。

「ほらほらちゃんと食わないと、アタシが食べちゃうぞーっと」
「シュラさんだってお弁当あるんですからそっち食べてください、って、あっ、ちょっと」
「んふふーいただき」

そっと白い指が神楽那の弁当に伸ばされ、あれよあれよという間にから揚げがひとつ摘み上げられてシュラの口の中に消えていった。ぶう、と頬を膨らませる神楽那の横に腰を下ろし自分の弁当を開けるシュラは、黒い空と黒い海の狭間に浮かぶ、今三人が避難している小島を眺めた。

「まーったくあいつらは。ほんっと勝手するよな」
「…」
「そういえば雪男と仲直りできたんだろ?」
「へ?…あ、いや、…まあ」
「お前も雪男と喧嘩すんなら前もってアタシにアポ取っとけよなー、あいつがイライラしてんのぜーんぶアタシに降りかかるんだから」
「?」
「とにかく雪男とお前が喧嘩すると、面倒なことになるの。分かったか?」
「はー」

ようは雪男の八つ当たりが非常に面倒だから喧嘩はするな、ということである。理解しているのかしていないのか、定かではないような返答をする神楽那を横目でちらりと見やるシュラは、箸をぱきりと割ってからそういえば、と口を開いた。

「神楽那、お前自身はもう大丈夫なのか?」

何に対しての「大丈夫」なのだろうか。神楽那はほんの刹那そんなことを思案するが、すぐにそれがベリアルの暴走についての心配の言葉だということを理解した。烏枢沙摩(ウチシュマー)の炎の加護を受け、強力な力を得た神楽那はあの日、ベリアルという己の中に潜む悪魔にその身を蝕まれかけた。その状態でシュラに遭遇することはなかったが、恐らく志摩柔造か、あるいは彼の周辺の人間からでもそのときの様子を聞いたのだろう。まったくシュラにはいらぬ心配をかけてばかりだな、と思わずその口元に申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「わたしは、いつまでも自分の弱さに向き合って、そして打ち勝っていかなきゃ駄目なんですよね。それに逃げてばっかりいるから、ああいうことになって」
「…」
「そしたらすごいんですよ。燐のやつ、藤本神父と全くおんなじこと、わたしに言ったんですよ」

お前は弱くないよ。

「一言一句、そのまんま。もう、笑っちゃいますよね」
「…どこまでもいっても、あいつらは親子なんだな」
「ほんとに。泣きたいくらい、親子なんだなあって、思って。」
「…」
「わたし、強くなれますかね」

シュラが、らしくもなく黙ってこちらの言葉に耳を貸すのだから、思わずこちらもらしくないようなことをつい言ってしまう。きっと今、兄と弟がそれぞれの思いを口にしているであろう小島を見据えながら。神楽那が視線をシュラに戻すと、彼女は存外いつもと変わらないような顔をしてこちらを見ていた。

「なれるよ」
「…」
「でも、こういう食べなきゃいけないときに食べなきゃ、強くはなれないだろーな」
「ふ。シュラさん知ってると思いますけど、わたしかなり食べる方ですよ」
「知ってるっつーの、お前が3合炊いた白飯一人でぺろりと食っちゃったときは吃驚したよ」
「…いつの話してるんですか」

くしゃりと笑ったシュラにつられて、神楽那も同じように笑んだ。
そんな最中、耳を劈くような悲鳴が黒い空に響き渡った。悲鳴の主は、恐らくしえみである。慌てて小島に目をやれば、黒い海からにゅっと生えた大王烏賊の触手がそこに蠢いていた。

「やっと現れたな…!!」

口の中のエビフライをもぐもぐさせながら、シュラは拡声器を取りに走り出す。「総員戦闘準備」というシュラの指示に、今の今までビーチでのんびり過ごしていた祓魔師たちが一斉に武器を手にした。神楽那も同様に、まだほとんど手をつけていない弁当に名残惜しそうに蓋をして、ゆらりと立ち上がった。
どうやら燐たちの”接待”が功を奏したようで、目論見どおり海神を呼び寄せることには成功したようだったがその海神も、長く忘れられ力が弱まっていた所為もあり、大王烏賊に一度攻撃を仕掛けただけで軽々とビーチに放り投げられてしまった。しかし大王烏賊に傷を負わせ、浅瀬まで引きずり出すことには成功した。と気を緩めたのも一瞬で、次の瞬間、ビーチは大王烏賊が吐き出した煙によって包まれた。

「っ」

煙の中、拡声器を通したシュラの声が響く。

「擬態吐きだ!擬態吐きは瀕死の大王烏賊の断末魔的な習性で、大量のダミーを作り出す!」

シュラの言葉通り、煙が晴れるとそこには一面、大王烏賊がわらわらと蠢いていた。その光景には、うっ、と眉を顰める神楽那だが、本体以外のダミーが眉間を攻撃すると消滅するという補足に、すぐさま手足にベリアルを憑依させた。

「ちゃっちゃと終わらせるに限るってか…」

吸盤からぽとぽとと吐き出された偽烏賊(スキッド)をベリアルが憑依する足で踏み潰しながら、海へと駆ける。ぱちゃりと片足が波に触れた瞬間、全意識をその足の裏に集中させ、ロケットのように一瞬で大王烏賊の眉間まで飛び上がった神楽那は、今度はそのまま手のひらにベリアルを呼び、手刀の要領で目の前の目標を斬りつけた。ぼふんと大きな音と煙を発生させ消滅したそれがダミーと確認することもせず、神楽那はくるりと空中で一回転し、伸びてきた触手に一度足をつけた。とん、とタイミングよく足場となってくれた触手からまた飛び上がり、先ほどと同じように眉間の目の前まで迫って攻撃をする。大王烏賊のほうから神楽那に触手を伸ばしてくれるおかげで、彼女は一度も砂浜に着地することなく、空中で幾匹も仕留めることが出来た。地上から銃で狙うよりもずっと的確で、スピーディーなその手さばきには、先ほどまで一緒に彼女と海で遊んでいた塾生たちも、思わず感嘆の声を漏らした。

「ぅわっ!!」

しかしそうもことはうまくいかず、足場にしてやろうと伸びてきた触手につま先をつけようとした神楽那だが、触手はすぐにその足を避け、代わりにと足首に巻きついた。足場を失い重力に逆らうことなく落下していく神楽那は、宙ぶらりんの状態で足首を触手に持ち上げられた。が、すぐに鳴り響いた銃声が見事触手を打ち抜いていて、神楽那はそのまま宙に投げ出されることになった。落下する最中で一度くるりと宙返りをしてから、砂浜に無事着地した神楽那は、今放たれた銃弾が砂浜からでなく、小島からのものだと気付き、思わず頬を緩めた。

「…さすが雪男くん、死ぬほど正確に当ててくんなー」

感謝の意よりも、雪男に助けられたという胸の奥がくすぐったくなるような気持ちと、僅かな悔しさが大きかったのか、神楽那はまたすぐに高く飛躍した。こんなにダミーがいて、そして多くの祓魔師が戦っている中で、雪男は自分を見つけ、そして助けてくれたのだろうか。そう思うと頬が少し熱くなって、口元がにやけてしまう。たまたま雪男の放った銃弾が自分の足を掴む触手を打ち抜いただけかもしれない、ただの偶然である、慌てて神楽那は自分にそう言い聞かせて気を引き締め直した。
どんどんとダミーが減っていく中、神楽那がまた一匹の大王烏賊に斬りかかろうとした直後、ぼふんという音と共に目の前の大王烏賊を含め、海を埋め尽くしていたそれらが全て消えた。どうやら雪男や燐たちが見事”本体”を消滅させることが出来たのだろう。ぱしゃん、と波打ち際に着地した神楽那は、黒かった空が静かに明るさを取り戻していくのを見つめた。


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