怒りが燃え滾るその瞳は、後方で小さくため息を漏らした少女へとふいと向けられた。先ほどのように、彼女の瞳は血走っていない。大分呼吸も落ち着いてきたようで、そこには先日朝食の席をともにした、あの月本神楽那がいる。思案して、柔造はふと先ほどの神楽那の様子を思い出した。腐食されていく大木の枝の上、充血した彼女の瞳はまるで悪魔を髣髴とさせるようなものだった。はっは、と短い呼吸をしていた少女はぷつりと糸が切れたように宙に投げ出されたかと思うと、そのまま人形のように落下してきた。受身をとるどころか、まるで落下していることにも気付いていないような、そんな様子の神楽那を見て柔造は一目散に飛び出していた。なんとかキャッチした少女は自分の腕の中で一度呼吸をひっと大きく吸ったあと、静かに人間に戻っていったように柔造には見えた。今柔造の後ろを付いてくる神楽那は、紛れもなく人間である。

「自分、…神楽那チャン、さっきの炎、あれ烏枢沙摩の加護やろ」
「…え、あ、はい」

突然声をかけられたことに動揺したのか、神楽那は目を丸くして柔造を見上げた。柔造の声音は、先ほど神楽那を怒鳴ったものより随分とやわらかいものに戻っている。

「あれ、ベリアルゆうたか…、あんなぁ、正直に言わせてもらうで」

怒りだけが灯っていた瞳に、冷静な、真剣みを帯びた色が見えて神楽那は無意識のうちにごくりと生唾を飲んでいた。

「自分、そのうち飲み込まれるで」

柔造の言葉は、いやになるほど凛と響いた。神楽那は一度瞬きをして視線を落とす。今の彼の言葉が、紛れもなく真実であるからだ。

「俺はそんなベリアルだの使役悪魔だのに詳しくないけどな、そんな俺から見てても分かる。ベリアルの力行使しとんのが自分だと思っててもな、実際あんとき行使されてたんは神楽那チャンのほうや」
「…」
「力の匙加減分からんくて、悪魔に乗っ取られんようならな、そんなん戦力でもなんでもない。」

ただの足手まといや。
柔造の歩くスピードはまったく変わらない。神楽那はぐらりと視界が歪んだことに気がついた。
ああ、雪男は、きっと、このことを伝えたかったのかもしれない。自分は足手まといだと、役立たずだと。分かっていたはずなのに、どうして自分はそんな初歩的なことにも気付かなかったのだろう。何故自分がこの状況下で戦えると、戦力になると自負していたのだろう。神楽那の視界は相変わらずぐらぐらと揺れる。頭の隅でキインと耳鳴りがした。雪男はいつでも正論しか言わない。先ほどの雪男の言葉はすべてまぎれもない、真実であったのである。
結局、自分はあの頃から何も変わってはいなかった。弱いままで、何の力にもなれない。ありあまるこの悪魔の力は、いずれ自分を破滅に追い込むだけのもの。今神楽那が持ちうるものは、首吊り用のロープだけなのである。愚かな自信が戦えると勘違いをして、ロープを首にかけているだけなのだ。ああ、なんて、情けない。なんて、愚かしい。弱いだけの自分は、最早祓魔師でもなんでもなかった。

ごめん雪男。間違っていたのは、やっぱりわたしのほうだったよ。弱くて何もできない、役立たずの、このわたしだったんだよ。
神楽那の周りは急に音を消して、真っ暗になった。何も聞こえない、何も見えない。奈落の闇よりもっと暗くて黒いそれがねっとりと神楽那に纏わり付く。耳元で、誰かが笑っているような気がした。きっとそれがベリアルであることも、神楽那には分かっていた。ここまでだ。神楽那は直感した。もうベリアルを従わせる自信がなかった。悪魔と対峙する勇気がなかった。戦えない。何も出来ない。ここで、終わりだと、思った。



「こんなこと言われるために祓魔師になったんと違うやろ」

足を止めた神楽那に、柔造も同じように足を止めて振り返る。顔を上げた神楽那の顔を、瞳を、柔造はじっと見つめた。

「誰かを守りたいから、祓魔師になったんと違うか?戦って、何かを守りたかったんやないんか?」

誰かを、守りたい。
守ってやれるくらい、強くなりたい。
何も失いたくない。
この手で、守り抜きたい。
神楽那は柔造の後ろに、よく知った男を見た。丸い眼鏡の奥に、目つきの悪い瞳。顎に髭を少し蓄え、彼は優しく笑っていた。

お前の力は誰かを守ってやれる。お前は強いよ、神楽那。
あの日あのとき、そう言って笑った彼の笑顔を、言葉を神楽那は一瞬も忘れたことはなかった。

「今までだって、そう思とって戦ってきたんやろ?」

そう、守りたかった。大切な人を。大好きな彼らを。自分の居場所を。

「自分、今、何をしたいん?」


何を、したいのか。

自分は戦えると、雪男に証明したい?
この場にいる祓魔師全員に、戦力になれると証明したい?
ベリアルを完璧に従わせたい?
二度と乗っ取られることなどないと、自信を持ちたい?
不浄王に挑んで、自分が先に言った言葉が正しかったと証明したい?

違う。こんなのは、ぜんぶぜんぶ違う。
今、わたしは、


「勝ちたい。」

足元を這いずり回っていたそれが、怯えたように動きを止める。耳もとで聞こえていた笑い声は、もうなかった。神楽那の瞼の裏には、確かに藤本獅郎がいた。

「弱い自分に、勝ちたい。」

この体質を言い訳にして、ベリアルを逃げ道にしていた、弱く愚かな自分に打ち勝ちたい。獅郎が信じてくれた自分を、信じてやりたい。もう、自分は弱くないのだと、何も出来ない自分なんて、いないのだと。

「わたしは、…っ、ここにいたい、戦って、みんなを、守りたい」

神楽那の瞳の中に、ようやく光が宿ったのを柔造は見つけた。

「それで十分や。もう十分、強い」

ああ、ただもう一度、自分はこうして誰かに手を差し伸べてもらいたかったのだ。かつて獅郎がそうしてくれたように。




「…ありがとう、ございました」

一番隊と合流してから少し経った頃、神楽那は前を行く柔造に小さくそう礼を告げた。柔造はもう確信していた。これから先、彼女が先のように足手まといになることはない。必ず戦力になって、あの男を倒すために尽力してくれるであろうと。彼の思惑は、神楽那の瞳がそうであると物語っている。もう、心配はなかった。

「…。集中せぇ、藤堂は近くや」
「はい」

鋭い彼の声音には一番隊全員の表情が引き締まる。その刹那である。神楽那は自分の足元が揺れたような錯覚に陥った。はっとする。今のは無論、地震でもなんでもない。何か非常に大きな気に当てられたときに感じる感覚である。神楽那はその感覚を知っていた。以前、アマイモンと対峙したとき、目の前で燐が倶利伽羅を抜いて青い炎を露見させたときのものである。心臓の奥深くまで圧倒的な恐怖が突き抜けるような、言いようもない感覚は、けれどあのときと何かが少し違う。サタンの青い炎によるものであることは間違いないのだが、ただ、すこし、何かが。
そこまで思案して、神楽那の嗅覚は最早悪魔である藤堂三郎太のニオイを捕らえた。彼は既に悪魔落ちしているために、通常の人間からは感じ取ることの出来ないそのニオイが発せられているのである。と、同時に柔造が動いた。神楽那の視界には地面に座り込んだ、見慣れた後姿が飛び込んだ。





ズドッ、と柔造の錫杖が男首に突き刺さる。その衝撃で草むらに飛ばされたのは、藤堂三郎太その人である。突然藤堂が視界から消えたことに驚きを隠せない雪男の周りを、一番隊の祓魔師が取り囲んだ。


「…っ、雪男!!」

神楽那の声は悲痛な叫びのように響いた。慌ててその場に膝をついて雪男の顔を覗き込む神楽那は、今にも泣き出してしまいそうな表情である。ぱちぱち、と雪男は二三回瞬きをして、そんな彼女を見た。

「貴様は俺の大事なモン目茶苦茶にしよったんや…!灰も残さんから覚悟しとけ!!」

柔造の怒りに満ち満ちた瞳が藤堂を捉える。しかし、そんな視線の先の男が視界に捉えたものは、彼ではなく、その下の少女だった。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -