何か非常に嫌な予感はしていたのだ。この京都出張、盗まれた不浄王の目、任務といえども拭えない、妙な緊張感。非番の日でも構わず仕事に勤しむしえみの手伝いを少しして、旅館の中を歩いていた神楽那の視界に入ったのは、今朝ほど初めて言葉を交わした志摩柔造だった。何か神妙な顔をして、気配を殺している。それを妙だとは思いながら、きっと明陀宗のごたごたが関係しているのだろうと、神楽那は差して気をとめなかった。彼と、そして彼がこっそりあとをつけている人間が向かうその場所を、神楽那はまだ知らなかったのである。


ズウン、と何かものものしい轟音が響いた。日が暮れた時頃のことである。きっと旅館のどこかで修行をしているだろう燐の様子を窺いに行こうとしていた神楽那は、すぐに旅館の人間の、出張所がどうのこうのという話を耳にする。出張所が今また何者かに襲われているらしい。すぐにきゅう、と心臓が萎縮するような気に陥って、神楽那は慌てて旅館の人間に詰め寄った。

「あのっ、出張所で何があったんですか?」
「出張所にまた何者かが侵入したらしいんや、それで今坊と和尚が…」

神楽那はそこまで聞いて、走り出していた。恐らくはそんな大事になっているというのなら、この旅館のどこかの扉が鍵によって出張所へ繋がっているだろう。案の定少し走った先で、音を聞きつけた何人もの祓魔師で溢れかえっている扉を見つけた。その間を縫うようにして出張所へ飛び込んだ神楽那は、人ごみの中に見知った紅蓮色の髪の毛を見つけた。シュラである。その横に尖がった耳の少年も見つけて慌てて二人に駆け寄る。

「シュラさん、燐!何があったんですか?」
「神楽那!」
「どーやら勝呂くんと和尚が揉めてるっぽいにゃー」

今にも飛び出しそうな燐を制しているシュラが緊張感もなくそう告げる。視線の先を辿れば、天井が大破したその中央で勝呂が父である勝呂達磨に掴みかかっていた。その天井は何かすごい圧力で壊されたようで、昨日神楽那が目にした『不浄王の右目』はそこにはもうない。盗まれたというのは本当らしい。しかもそれが内通者であるはずの、宝生蝮の犯行だというから、人々のざわめきも激しくなる一方だった。

「アンタは金輪際、親父でもなんでもないわ!」

ふと、一際大きく勝呂の声が響き渡った。今のこの明陀宗の事情は神楽那には分からない。しかし勝呂が人一倍葛藤していたのは目撃している。何か彼には彼の父親に対して声を大にしても言いたいことがあるのだろう。そんな最中である。

「待て」

えっ、と目を見張る。今の今まで神楽那とシュラの間に挟まれていた燐が、勝呂達磨の肩口を掴んでいた。天性の縄抜けの才能でもあるのだろうか。ヒートアップしていく口論の中に混じる燐を止めるべく、シュラと神楽那は慌ててそんな燐を追いかけた。

「…燐!」

ざわつく人ごみの中の声は、彼には届かない。勝呂を思い切り殴った燐が何かを叫んでいる。まずい、神楽那の脳内に警鐘が鳴り響く。親、それも父親のことに関してあの燐が大人しくできるはずがない、神楽那はひやりと背中に嫌な汗が伝うのを感じた。藤本神父と燐の間に最期何があったのかは分からないが、きっと燐にとって父親というワードは非常に敏感になるものに違いないと感じたからである。そうなれば燐の高ぶった感情によって、炎をここで露見させてしまう危険性があった。つまりこの大勢の祓魔師の前でサタンの仔であることが公になってしまうのだ。先の懲戒尋問での条件のうちに、次の炎を出して暴れたら祓魔対象として処刑されるというものがある。神楽那はそれが恐ろしかった。そして、その予感は的中する。

「勝呂ォ!!」

燐の叫んだ声と共に、青い炎が上がる。神楽那は思わずひっと息を呑んだ。

「ちょと、どいてどいて!やめろ燐!!」

叫ぶシュラの声も燐には届かない。慌てて間に入った志摩柔造にキリクを向けられて立ち竦む燐が視界に入る。神楽那よりも先に人ごみを抜けたシュラが静かに印を結んだ。

「シュラさんっ!!待っ、」
「オン!マニパド、ウン!!」

詠唱が響くと同時に、燐が悲痛な叫びを上げてその場に蹲った。万が一の時にと、シュラに教えられた燐の禁固呪である。蹲った燐に駆け寄るようにして、神楽那はシュラを見上げた。シュラは厳しい表情のまま、その場に膝を着いて燐に小さく耳打ちをする。

「燐、懲戒尋問で決まった条件を忘れたか?次炎を出して暴れたらお前は祓魔対象として処刑されるんだぞ?落ち着くんだ…!」

禁固呪を使うことはシュラにとっても苦肉の策だった。この禁固呪が唱えられた瞬間、その報告は三賢者のもとへ伝えられる仕組みになっている。禁固呪を唱えなければいけなくなった状況になったということが彼らの知るところとなってしまうのだ。三賢者はいつでも燐を処分できる権利を手にするのである。
燐は苦しそうに息を続けながら、そっとシュラを見た。

「大事な…話してんだ、邪魔す、な、ブス!」

一瞬間を持ったシュラが再び禁固呪を唱えた。その額には青筋が立って見える。激痛に耐え兼ねて気絶した燐がその場に崩れる。バカヤローが、と小さく呟いたシュラは静かに立ち上がった。

「おーい誰か!こいつ隔離するの手伝ってちょ、もう気絶してるから大丈夫だよ」

手を上げてその場にいる祓魔師たちに燐を隔離するよう指示を促す。神楽那は呆然と座り込んだままである。シュラに片腕を引っ張り上げられてなんとか立ち上がった直後、我に返ったように彼女に詰め寄った。

「シュラさん!!どうして禁固呪を!」

あれを唱えればどうなるか、彼女も重々承知しているはずだ。それなのに何故。神楽那は心配と同時に恐ろしかった。三賢者に燐の炎が露見したことが知れてしまう。今回の寛大な処置というやつも、長年騎士團に貢献しているメフィストに免じたものなのだ。この報告に、彼らは間違いなく燐を処刑台へと送るだろう。

「…お前、あれ以外であの状態の燐を止められる術でもあんのかよ」
「…っ、それは、」
「分かってる、大丈夫だ、いくら三賢者だってそうすぐ処刑命令なんてホイホイ出さないだろ」

シュラは小さく笑みを浮かべ、不安げに眉を潜める神楽那の頭をぽんぽんと叩いた。勿論、渦巻く不安はこれっぽちも消えはしなかった。ぎゅっと拳を握る神楽那は、心中で小さく雪男の名前を呟いた。



あのあとすぐシュラの携帯に連絡が入った。雪男からである。そこには彼を含め、左目奪還部隊の面々が揃っていた。その隊長のターセル・マハム、増援隊長のシュラ、そして志摩八百造の責任者が揃っているということもあって、早急にその場で会議が開かれた。
どうやら先鋭部隊が追っていた車両は囮だったという。騎士團の目をそちらに向けさせるための時間稼ぎだったのだ。そして首謀者の藤堂三郎太の恐らくの目的は新型の強毒性瘴気の散布、場合によっては騎士團だけでは処理できなくなる事態になる。

「とにかく藤堂と宝生蝮を見つけることが先決だ」

この京都の街全体が、死にいたる危険性がある。事態は一刻を争うものなのだ。



一度その場を解散した一行の中で、神楽那は廊下で一人壁に背中を預けて考え込む雪男の姿を見つけた。その横顔に、体中の力が抜けてしまうほどの安堵感を覚えた。情けないとは思いつつも、ふらふらと彼に歩み寄る。

「…雪男」
「神楽那さん!…大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」

心配気に自分を見つめる雪男に、神楽那は一度息をついて視線を上げた。ちょっと会わなかっただけなのに、随分久しぶりな気がする。温くて大きな手も、レンズの奥にある綺麗な瞳も、優しく響くテノールも。そっと頬に触れた手に自分の手を重ね、神楽那は口を開いた。

「…ごめん、雪男、ごめんね」
「…兄さんのことですか?」
「うん、わたしがいながらもこんな事態になっちゃって…どうしよう、きっともう三賢者に禁固呪報告が、」

運ばれていった燐の姿が目に焼きついてはなれない。自分がいながらも、こんな事態を招いてしまうなんて。燐を守るのではなかったのか。果てしない自責の念が神楽那を襲った。
雪男は暫し言葉を失ってから、顔を真っ青にする神楽那をあやす様にその体を抱き締めた。

「ゆき、」
「神楽那さん、少し痩せました?」
「…は?」
「少し会ってないだけなのに、なんだか随分と久しぶりな気がしますね」

すんすんと神楽那の耳裏に鼻を潜り込ませて、雪男は更に強く少女を抱きこんだ。自分のこの切羽詰った状態を把握しているのかしていないのか、雪男からの突然の抱擁に目を白黒させる神楽那だが、不思議と気持ちが落ち着いていくのが分かった。雪男の匂いをいっぱいに感じて、静かに目を伏せる。

「ごめん」
「謝らないでください、大丈夫ですよ、きっと。」

雪男の手が何度も神楽那の頭を撫でた。普段なら馬鹿にするなと掴みかかってきてもおかしくない行為にさえ大人しく甘んじている神楽那に、雪男は小さく微笑んで一度体を離した。直後、神楽那の名残惜しげな上目の視線には理性が焼ききれそうになるも、なんとかそれに持ちこたえた。

「そんな可愛い顔しないでくださいよ」
「…馬鹿」
「ふふ、やっといつもの神楽那さんらしくなってきましたね」
「雪男はいつもどおり変態だね」
「褒め言葉ありがとうございます、キスしてもいいですか?」
「い、今言うこと…!?」
「今だからこそですよ、よく言う、いってきますのキスとただいまのキスですよ、始めのは神楽那さんからしてくれましたからね、ただいまの分は僕からしてあげます」
「な、ば…、馬鹿じゃないの」

そう言って耳まで紅くした少女に、雪男は壊れ物を扱うかのような手付きで、優しくキスを落とした。


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