朝。最近この寮に身を置くようになった少女がいない食堂、燐は不思議そうにあたりをきょろきょろと見渡してから、雪男を見た。ウコバクお手製の朝食は今日も美味しい。もぐもぐとそれを咀嚼しながら「神楽那起きてこねーなー」と、なんとなく彼女がいないことを指摘すると、雪男はほんの一瞬、箸を止めてから、また食事を再開する。

「…今日は学校もないから寝坊するんじゃないかな」
「ふーん」

思えば、既に昨日の夜から姿を見ていないような。神楽那と最後に会ったのは、あの屋上だ。最近ちょくちょくと顔を見せる塾にも現れなかったし、いくら広いといっても、三人しかいないこの寮でも姿を見かけなかった。部屋に閉じこもっているのだろうか、と今のところ一番の有力な説を思案し、燐は朝食を終えた。ウコバクが用意してくれた神楽那の分の朝食はすっかり冷め切ってしまっている。それでも今日が休日であるから、と燐はそれ以上神楽那の不在については詮索しなかった。




神楽那が目を覚ましたころ、寮には誰の気配もなかった。全身の力を抜いてベッドに寝転がると、どこからか巨大な悪魔の気配を感じ取る。ここから近いところではないが、随分と大きな悪魔の気配だ。と、その近くに燐の独特のそれも感じとって、今彼ら兄弟がその悪魔の近くにいるのだということを悟った。任務か。神楽那はのそのそとベッドから起き上がって、部屋を抜けた。


昨日のあれから、結局一度も雪男とは顔を合わせなかった。意図的に神楽那が徹底して部屋から出なかったのである。今更ながら、自分がどれだけ稚拙な考えを持っているのかを思い知らされ、同時に悔しさと後悔の念を感じた。雪男の言っていることは正論だ。けれど、それと同じくらい、悔しかったのも事実だ。情けない、半人前の自分が彼に堂々と反論するには、もっともっと力が必要だと、神楽那は感じた。もっとずっと、強くならなければ。神楽那の足は、理事長室へと向かっていた。




「メフィストー」

やたら豪勢な造りのドアをノックすることもなく、中に入る。こうすると必ずメフィストが何か小言を漏らすことを脳裏に思い出しながら、神楽那は目当てのピエロがいないことに気付いた。珍しく、留守のようである。出直すか、と肩を竦めたところで、神楽那は妙な気配を感じ取った。それがあまりにも自分に近いところから感じられるもので、反応が遅れたのだろう。視線を投げる頃には、気配の正体は自分の真隣まで迫っていた。

「っ!…な、アマイモン?」
「こんにちは」

ピエロ理事長に負けず劣らずの奇妙な出で立ちをする、地の王アマイモンは、いつものように感情の読み取れない表情で、神楽那を穴が開くほど見つめた。理事長は留守なくせに、結界で簡単には学園内に入れない悪魔はここにいる。どんな状況だ、と心中でため息をつきながら、神楽那は一歩、二歩、と後退した。あまりにもアマイモンの顔が近くにあったからである。するとアマイモンはぐるん、と首をかしげて神楽那が後退した分、再び距離を詰める。

「な、なんでこんなところいんの」
「兄上に呼ばれたので。そういえばあなたは奥村燐のことをどれくらい知っていますか?」
「…燐?」

じりじりと距離を開けたり詰めたりを繰り返しながら、神楽那は思ってもみない名前が挙がったことに眉を寄せた。神楽那の口からその名前が出たことに、アマイモンは彼女が奥村燐と関わりを持っていることを確信し、「そうです、父上も兄上も興味を持ってる、奥村燐のことです」と続けた。神楽那には嫌な予感しかしない。アマイモンの瞳は爛々と輝いていた。

「…あ、んまり知らないけど」
「…そうですか」
「ていうか近づかないでよ」

妙な攻防戦を続けた結果、神楽那の腰に理事長の机がとん、と当たった。これ以上下がれない。それを良いことにアマイモンは更にずいずい、と歩みを進めて、体が密着するほど神楽那に迫った。先の燐のこともそうだが、今日のアマイモンはいつも以上に何を考えているか分からない。故に、危険であると神楽那は判断した。仮にも相手は悪魔である。いつもの彼が食欲のためにふらふらしているのは慣れてしまったが、今日の彼の目的はまだ謎のままで、変に警戒心を抱いてしまう。瞬きを一度二度、と続けたあと、アマイモンは長い爪で神楽那の頬を撫でた。

「今日のあなたは、弱いです」
「…は?」
「…すごく、おいしそうだ」

アマイモンの瞳に、何か不穏な光が宿ったのを神楽那は感じた。慌てて逃げ出そうも、後ろの机に押し付けられてしまい、叶わない。勢い良くアマイモンを見上げると、彼は少し屈んで、突然神楽那の首筋をがぶり、と食んだ。

「…なっ、いたっ!」

悪魔特有の尖った歯が肌に食い込み、鋭い痛みが走る。アマイモンは、はむはむとその皮を何度か甘噛みすると、歯型がくっきりと刻み込まれたそこをべろりと舐め上げた。神楽那の体が一瞬痙攣したように揺れた。

「なにっ、…何すんの!?はーなーせー!」
「いやです、いつも我慢してるので、今日はすこし味見します。」
「は?味見?」

その言葉の後、神楽那はメフィストの言葉を思い出した。アマイモンは悪魔が本能的に引き付けられてしまう神楽那のその体質を、おいしそう、と捉えているのではないか。ビンゴである。アマイモンのこの爛々とした瞳は食欲ゆえのものだったのか、しかし目的がわかっても、この状況を打開する術は無い。なんとなくされるがままになるのは危険なような気がして、仕方なしに神楽那は手の先にベリアルを呼び出した。アマイモンから逃れるにはこれに頼るしかない。その手でぐ、とアマイモンの胸板を押し返すと、途端彼はその面に不機嫌そうな表情を覗かせた。しかしいつもならベリアルを嫌がるアマイモンは、神楽那のその不自然な光が包む腕を掴んで、そのまま力をこめた。

「っ、」

ともすれば簡単に折れてしまうのではないか、と掴まれた神楽那の手首が軋む。同時に神楽那は妙な感覚に襲われた。手の先に呼び寄せたベリアルが、神楽那の意志とは無関係に消えてしまったのである。アマイモンに掴まれた腕は、ただの少女の腕。唖然として視線を上げると、アマイモンはまた首をぐりん、とかしげて告げる。

「ボクを、誰だと思ってるんですか」
「…なんで、」
「あなたのそんな弱い使い魔なんて、簡単に消せますよ?」

ぞくり、と言いようのない恐怖に似た何かが神楽那の背中を駆け抜ける。掴んだままのその指を口に含まれ、更には尖った歯で噛まれてひくり、と体が引きつった。
地の王、アマイモン。神楽那はそんな彼の前に、自分がどれほど非力であるのかを思い知った。彼は本来ならば、いつでもこんな弱小の使い魔をこうして消すことが出来たのだろう。それをしなかったのは、恐らく神楽那に警戒されないため。神楽那はまんまと自分の力を自負していたのだ。
徐々にその体に抱きしめられる形となり、神楽那はアマイモンの腕の中でそれらに耐えるしかなかった。逃げ出せる術がないのである。アマイモンは神楽那が大人しくなったのを良いことに、更にはぐはぐとその首筋に噛み付いた。まるで本当に味見をしているかのように、吸ってみたり噛み付いてみたり。痛い、と呻けばアマイモンはあっけからんとした様子で返答する。

「本当は噛み千切りたいところなんですが、ガマンしてるんです、貴方もガマンです」
「ふざ、…ん、」

まるで吸血鬼である。神楽那はぐらぐら揺れる意識の中、せめてもの抵抗とばかりに腕を上げてアマイモンの髪の毛を引っ張った。アマイモンはそれに僅か視線をずらしただけで、今度はべろり、と神楽那の耳裏を舐めた。

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