ヴィクトルとベッド
(01/29 01:19)

ヴィクトルと◎◎シリーズ
同一夢主



 一人のベッドは冷たい、そして広かった。なあんて、我ながら飛び上るほど女々しいことを思案してしまった。俺がこのベッドに入るとき、それはいつも人の温度を吸って温まり、同じシャンプーの香りを漂わせる少女が既に横たわっている。だから今日みたいな夜は、そのあまりにも久々な感覚と感触に、リンクメイトの彼らに聞かれでもしたら一生ネタにされかけないことを考えてしまうのだ。
 冷たいシーツがほんのりと温まってきたころ、遠くで鍵の施錠音が聞こえた。続いて、扉の開く音。足音。俺はすぐに瞳を閉じた。案の定、数秒後に寝室の扉の開かれる音を聞いた。廊下の明かりがわずかに差し込む。扉はすぐに閉められ、足音は浴室へと向かっていった。

 帰ってきた。胸が躍るような気持だった。俺はいつからこれほどまでに彼女に骨抜きにされているのだろう。まるで主人の帰りを待ちわびる忠犬のようだ。けれど心の高まりは抑えられない。シャワーを浴び終えた彼女が、じきにこの部屋にやってくる。毎日毎日顔を合わせ(時には肌を合わせ)、それほどまでに近い存在の彼女の帰り一つで、これだけが己が翻弄されるのは、最早笑い話のようだった。うつ伏せになって、顔だけは扉のほうにむけた。浴室の扉が開く、ちょっと錆びれた音。ドライヤーの音。足音がぱたぱたと幼くなったのは、スリッパに履き替えたからだろう。足音は、扉の目の前で止まった。
 俺は高ぶる気持ちを押さえこみ、静かに瞳を閉じた。

 寝室の扉がゆっくりと、静かに開かれる。まぶたの奥で廊下の照明を感じた。ぱたん、と殊更静かに閉められた扉は、彼女が寝ている俺に気を使ったのであろうことが推測された。大好きな気配が近づいてくる。ぎぃ、とスプリングが軋む音。ベッドの端っこに腰をかけたであろう彼女からは、俺と同じシャンプーの香りがして、心臓にえもいわれぬ愛おしさの刃が突き刺さった。それは、痛いほどに。

 彼女の指は存外冷たくって、前髪を退かそうと俺の額に触れた瞬間、思わず声をあげそうになった。キスでもしてくれるだろうか。ふふ、とにやけないよう、口角を不自然でない程度に引き締める。彼女の冷たい手はベッドの中に入り込み、ワオ、そんな大胆な、と喜ぶ俺を傍目に、シーツの中に収まっていた俺の左手を引っ張り出した。冷たい両手に包まれる左手。どういうつもりなのか。左手に視線が注がれているのを感じた。
 一瞬動きの止まった彼女が、徐に立ち上がったのをスプリングの音で感じた。チェストの中を漁る音、放り出された俺の左手は、またすぐに冷たい両手に拾われた。
 この香り。彼女が好んで使っているハンドバームだとすぐに気づいた。優しく、マッサージをされるようにそれを左手に塗りこまれる。丁寧に、丁寧に。指先一本一本を大切に扱われるのはひどく気持ちがよかった。そういえば、薬指にささくれができていたっけ。この暗い部屋でよくもまあ見つけたものだ。しばらくのあいだ、細い指によって丹念にハンドマッサージを施される。俺が起きていれば絶対に彼女はこんなことをしない。してほしいと頼めば断らないだろうけど、自ら指先と指先を絡ませるこんな行為を、平生の彼女から行おうなどと、その姿はまるで想像が出来なかった。
 ああ、いますぐ飛び起きて、その体を抱きしめたい。折れるほど強く掻き抱いて、めちゃくちゃにしてしまいたい。
 でもこの小さな小さな幸せは、俺のかろうじて生き残っているわずかな理性の糸の上に成り立っているもので、ここでかっ、と目を見開いてしまえば、これはすぐに終わりを迎えるだろう。すり寄ってくる猫を撫でようとして、するりとかわされ逃げられた思い出がある。現状はまさにその状況だった。我慢。我慢だ、ヴィクトル・ニキフォロフ。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、左手を持ち上げた彼女は、今度、あろうことか俺の薬指にキスをした。
 さすがに発狂するかと思ったが、俺はそれをなんとか喉の奥に留めた。ああ、涙が出そう。ガマンだ、リビングレジェント。



「ヴィクトル、起きてるでしょ」


 ひっ、と喉がひきつった。

「寝たフリなんて、悪趣味。わたしソファで寝ようかな」

 もう少しこの幸せを享受したくて続けようとしたたぬき寝入りだが、その矢先の彼女の爆弾発言に慌てて眼を見開いた。

「やだ!」

 逃がすものかとその細い腰に抱きついた。指先はあんなに冷たかったのに、シャワーを浴びたばかりのその薄い肢体はさすがに温かかった。頭の上からくすくすと笑い声が聞こえた。逃げる様子がないのを確かめ、ゆっくりと顔を上げた。

「可愛いねぇ、ヴィクトル。寝たフリするの、下手すぎ」
「…だってきみ、逃げるだろう。猫みたいに」
「そんな。…猫みたいになんて」
「本当のことさ」
 
 頭をなでられる。上目で確認した彼女は柔和に笑んでいた。猫のようだと形容したことには特に何も思っていないようだった。今度は俺のほうから彼女の両手を掴み、その小さくてきれいな楕円の爪にキスをした。

「今度は俺が起きている前でやってみせて?」
「二度はしないよ」
「いーやーだ。さっきは目を瞑っていたからノーカウントだろう」
「寝たフリだったからカウントするよ」

 ほらね、やっぱり。彼女が自ら俺の指先にキスをしてくれるだなんて、夢のような話だったのだ。顔を赤くもしないで、照れているのかもわからなかった。手を少し持ち上げて、彼女の唇に触れた。

「可愛い。食べちゃいたいな」

 彼女の小ぶりな唇を撫でた指先を、これみよがしにぺろりと舐めてみせる。彼女もそれには目を丸くして、困ったように肩をすくめた。あ、すこし耳が赤い。

「じゃあ、今度は指じゃなくて、ここに。キスして?」

 とんとん、と唇を叩いた。どうするかな。その反応が見たくて言ってやった台詞だったのに、彼女はひとつ息を吐いてから、「わがままだなあ」と漏らした。柔らかくて、温かい唇がふにゅっ、と押しあてられる。触れるだけのキスをして、彼女は「もう寝よう、おやすみ」と早口でまくし立ててベッドの中に入り込んできた。ワア。びっくり。驚きのあまり声も出なかった。

「ちょ、っと待って!ねえ、いまのなに!」
「おやすみって言った」
「ちが、…え?夢だった?」
「ヴィクトル、うるさい。」
「だってまさか本当にしてくれるなんて!ねえ!アメイジング!可愛い襲っちゃいたい!」
「だめです、ハイ、おやすみ」

 もぞもぞと顔をシーツに埋めて本当に寝ようと体勢をつくる彼女を抱き起し、そのまま強く強く抱き締めてやった。ぶつぶつと聞こえる文句なんて聞こえない。パッチーン、と音がするほどオンになったスイッチを入れたのは、紛れもないこの少女なのだから。

「存分に可愛がってあげるからね、お姫さま」

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