8
「妊娠していたんだ……俊ちゃんは避妊もしてくれなかったから」
そう冷笑をした。 遥は俊也に散々傷つけられた。だからこの兄も傷つけば良いと思った。
「だから死のうと思った。俊ちゃんが僕を自殺させたも同然だよ?」
泣くつもりも無かったのに、自然に涙が零れ落ちてしまった。後悔はしていない。だって、実兄との間に出来た子どもなんて産むわけにはいかない。 遥は中学生で、強姦されて出来た子を産めるはずがないことは兄だって分かるはずだ。
「ねえ、何も言えないの? 僕が飛び降りるのが怖くなかったと思っている? 死にたかったわけじゃないけど、こんな汚いからだは無くなってしまえば良いとは思ったんだよ」
「遥っ……」
初めて兄がここまで動揺している姿を見たかもしれない。母に近親相姦の事実を知られたときだって、こんな顔はしなかった。 遥が自殺したことがショックだったのか、それとも妊娠していたことが衝撃だったのか。両方なのかもしれない。
「知らなかった……」
「どうでも良かったんだもんね……僕の気持ちなんてどうだって良かったから、僕の身体だってどうだって良かったんだよね? 僕の身体のことは知っていたんだから、せめて避妊くらいしてくれたら……」
俊也は遥の身体のことを知っていたからこそ、妊娠する可能性がないと思っていたのだろう、ということは分かっている。 けれど、そんなふうに兄の罪を軽くしてあげようとは思っていなかった。兄もだから言い訳はしなかった。
「遥、ごめん……お前に取り返すのつかないことをしてしまった」
兄の謝罪の言葉が続いたけれど、遥には興味がなかった。どうでも良かった。どんなに謝られたって、過去は消せない。 兄に陵辱されたことも、妊娠したことも、死のうとする事でしか妊娠したという事実を消す事ができなかったこともだ。
今思えばもっと賢いやり方があったんだと思う。
母が話を聞いてくれなかったとしても、何度も話せば流石に無視することはできなかったはずだ。 医師から母に妊娠した事実を話してもらっても良かったはずだ。 もっというんなら俊也に話して、中絶しても良かった。俊也に知られたら、ひょっとしたらこの狂った兄だから産めと言われる事を危惧していたが、そこまで馬鹿じゃなかっただろう。
寄りにもよって一番馬鹿な選択肢を選んだという自覚はあった。けれどあの時はその方法しか思いつかなかったし、別に後悔もしていない。死んでも良かったと思っているし、これで兄と決別できるなら安いものだった。
「悪いと思っているんだ。僕に酷い事をしたって後悔している?」
「……取り返しのつかない事をしたと思っている……けれど、抱いたことは後悔していない。愛しているから、だか」
「そんなことどうでも良いよ! 俊ちゃんの気持ちなんてどうでも良い! どんな気持ちだったかなんて僕にはどうでも良い!……ただ、僕はもう俊ちゃんに触れられたくない」
「遥っ……」
何が言いたいんだろう。遥って呼ぶその声は嫌だと言っているようにしか感じられない。 次はそうしないとでも言うのだろうか。ちゃんと避妊をするから、だから大丈夫だとでも言いたいのかもしれない。
「もう二度と会いたくない」
「遥……愛しているんだ。会わないなんて事はできない!」
「会いにきたら、今度こそ自殺する」
そう笑った。 死ぬ方法を入院中に何度も考えた。今度は痛くない方法が良いって思ったから、一酸化炭素中毒が良いかもしれないねって笑った。
「ねえ、本当に悪い事をしたと思っているんだったら、もう二度と会いに来ないで。それで許してあげるから……」
「見ることも駄目なのか? もう二度と触れない……もう遥を苦しめることはしないと誓う……」
「駄目…」
「お前を守る事もできなくなるっ」
守ってくれるどころか、俊也がここまで追い詰めた。 だけど、小さい頃は長兄とともに両親や祖父の冷たい視線や言葉から守ってくれた。 他の誰からも傷つけられない様に、真綿に包むように大事にしてくれていた時もあった。
「遥、お前がいないと俺は……生きている意味が無くなる」
「……じゃあ、死ねば?」
本気で言ったわけじゃなかったが、今後も遥に手を出してくるのなら、死ねば良いと思った。 それだけ苦しめられたのだから、もう兄がなんと言おうと、何も感じなかった。
「遥…っ」
「冗談だよ……本気で死ねば良いと思ったわけじゃないけど……けど、もう無理なんだ。俊ちゃん、僕……今ならきっと許せるよ。時間が経てば、俊ちゃんを許せると思う。けど、今はもう無理なんだ。お願いだから僕に触らないで。僕の前から消えて」
そうしないと、生きていけないと思った。 もう我慢できない。
「僕はもう誰も好きになれないし、誰も僕に触れさせないよ。だって、実の兄との間に子どもを作ったなんて過去があったら誰も愛さないだろうし、僕も愛せないよ。だから安心して消えて?」
もし兄が、遥が他の男を愛する事を心配しているのなら、他の男に兄と同じように抱かれるのではないかと思っているならそんなことは有り得ない。 もう生きて行くだけで精一杯だし、誰も愛したいなんて思わない。
「遥、俺がいたら……生きていけないか?」
「うん……」
「二度と触れないと約束しても駄目なのか」
「うん……」
「分かった、消える」
兄はそうはっきりと言った。少し声が震えているようにも感じられた。
「ただ覚えておいてくれ……俺は、遥を苦しめたかったわけじゃない。愛していたから……お前をこんな目に合わせたかったわけじゃない」
「そうだろうね……」
間違った愛し方をしただけなんだろう。 どこか不器用な所もある兄だったから。こんな目に合わせれた今も、遥は兄の事を心底憎めなかった。ただいなくなってくれれば良いだけで、幼い頃からどれだけこの兄がいてくれたお陰で、両親や祖父から守ってもらっていたか。
「電話番号はずっと変えないでおく……困った事があったり…助けが必要だったら…呼んでくれ。どこにいても助けに行くから」
「……うん、分かった」
きっともう二度と兄に会おうとも思わないし、どんなに困っても兄にだけは助けを呼ばないだろうけど。けれどもお守り代わりに携帯のメモリに入れておこうと思った。最後の最後に、誰もが遥を見捨ててもきっとこの長兄だけは守ってくれようとするだろうから。
「バイバイ……俊ちゃん。お母さんが待っているから、行くよ」
どうしてただの兄弟だったらいけなかったんだろう。 そうしたら今も遥は兄を好きでいられたのに。家族でいられたのに。ずっと一緒にいたかったのに。
あんな目で見られたかったわけじゃない。
ただ弟として、ずっと一緒にいたかっただけなのに。
第一部完
|