目が醒めた見たら、何も無かった。

痛みも無かったし、切り裂いたはずの腹にも傷は全く残っていなかった。

当たり前だ。今生きているのなら、治癒魔法がかけられたはず。傷一つないのは当然だろう。


「……ハンス、そんなに生きているのが辛いのか?」

レイダードは僕が子どもを始末しても責めなかった。それに関して何の言及もしなかった。
どうしてこんなことをしたんだと、それくらい言われるかと思ったけれど、何も無かったかのように、ただ僕が僕を傷つけたことだけを、問いただした。

「…別に」

レイダードは安心していたのかもしれない。契約は絶対だという思い込みがあったんだろう。
僕は自分の命を自分で終わらせる事ができない。
それがエクトル殿とレイダードの間で交わされた契約で、レイダードの妻として生きるとされた。

だから基本的には自傷行為は出来ないはずなのだ。
ただ何にでも抜け道はある。

僕は、僕を傷つけようとしたわけではなく、子どもを殺すという目的でお腹を裂いた。僕が死のうと思ってした事ではないので、契約魔法の呪縛に囚われなかったのだ。それによって、僕がショック死や出血死する可能性はあっただろうが、僕が死のうとしてやったわけではない。

「ハンス……俺がお前の夫であることは、お前にとってそれほど耐え難いか?」

そう聞かれても相変わらず分からないとしか思えない。

僕は子爵家から追放されてからも、される前も、これ以上生きるつもりはなかった。
エクトルとレイダードのせいでまだ生きているが、どんな生き方をしようと、僕にとって良い事も、耐え難いこともないだろう。
無理矢理生かされている。
僕の意思とは無関係にだ。

レイダードの妻だろうと、子爵家の飼い殺しとして生かされようと、どちらでも同じだっただろう。

「僕にとって、なんだって同じだった……誰の妻にされようが、どうでも良い」

同じじゃなかったのは、死んだも同じだった僕に新しい命を産ませようとしたことだった。僕はあんなに嫌だって言ったのに、愛せるはずはないと言ったのに、無理矢理生ませようとしたからこんなことになるんだ。

一応レイダードの子どもだったけれど、僕は悪いとは思っていない。レイダードが僕の意思を無視して産めせようとするからこんな事になったのだ。

「ハンス、俺はお前の」

「僕の事を好きとか、どうでも良いし……僕がこんなふうになったのはレイダードの責任とか、そんなこと言うつもりはない。僕が馬鹿だからで、謝る必要なんかない」

「死ぬ以外で、何か希望は無いか?……俺ができることは何でもするから……頼むから、一度で良いから……生きていて良かったと思って、笑ってくれないか?」

笑う?
随分と奇妙な事を言う、とレイダードの言葉を疑った。
僕は自分の子どもを殺したばかりなのに、笑えって?
皮肉ならいくらでも笑ってやるけれど、心の底から嬉しいと思って笑って欲しいんだろう?

僕はそんなふうに笑った事なんかない。

「死ぬ以外には……何もして欲しい事なんかない」

「俺と過ごした結婚生活は、辛い事しかなかったか?」

「……」

実家で過ごすよりはマシだったかもしれない。両親に愛されない事を卑下することもなかったし、愛されたいと願う事もなかった。ただ何も期待せず、何も思わないでいられた。

「俺は……自業自得だが、ハンスに愛されないことは分かっていた。でも、知らない場所で死なれるよりも、俺のいる場所で嫌われたままでも生かして囲っておきたかった。愛されていなくても、俺はハンスといて幸せだったんだ」

相変わらず馬鹿なんだな。こんな僕といて幸せを感じられるなんて、どんな被虐趣味なんだろうか。

それ以上レイダードは僕に何も言う事もなく、ただ黙って僕を見ていた。

そして次に目が醒めたら、僕はもう二度と戻ることもないと思っていた場所にいた。



「オートミールなら食べれないかな?……」

母が遠慮がちに差し出すお皿を無視して、返事もしなかった。

もう妊娠していないのに相変わらず食力はない。何も食べたくなかったし、この人が差し出す物なら余計にだ。

「……何も食べないと、元気になれないよ」

この人は子どもみたいなしゃべり方をする。ハンフリーのように精神的に幼稚というわけではないが、何時まで経っても子どものような人だった。

「赤ちゃんは、元気になればもう一度」

僕はもう我慢が出来ずに差し出された皿を、オートミールごと壁にぶちまけた。母の驚いたような悲鳴があがる。

「もう一度なんかあるもんか!!! 僕が殺したんだ!!!……もう二度と子どもなんか要らないんだよ!!」

この屋敷に来てはじめて僕が声を出したので、余計に母は驚いたのだろう。僕が怒った事、子供を殺したという言葉に二重に戸惑って、オロオロとしているだけだった。

「マリア、どうした?」

「あなた……ハンスが」

母が僕に害されていると思ったのだろう父が母を助けるためにやってきた。
僕がこの屋敷に帰されて以来、初めて顔を合わす。追放したはずの息子のことを歓迎していないのは分かりきっている。
母だけがここ数日僕の世話をしようとして、無視されていた。

「ハンス、余り興奮をしては……回復に差し障りが…」

「誰が回復して欲しいなんて思っているんだよ! 余計な荷物を侯爵家から送り返されて辟易しているだけだろう! 僕の事なんか放っておいてくれよ!」

こんな僕でも侯爵家に嫁に行った身だ。送り返した侯爵家がどう思っているかは僕は知らないが、もうこの家の子供でもない僕は侯爵家の一員として見れば、両親は粗雑に扱えないんだろう。
僕にこんなに気を使った話し方をする父を僕は初めて見た。

何時もだったら母に皿を投げつけるなんて、と怒られるか、性根が腐ったといわれるところなのにだ。

「送り返されたんじゃない。あちらは、実家で身体を休めて欲しいと」

「こんな所で休まるはずがないことは、ご存知のはずです。性根の腐った息子なんかいなくなって清々していたところに押し付けられて、お気の毒に」

両親の前で泣いた事なんかなかった。僕はハンフリーの面倒を見るのに忙しい両親の邪魔にならないように、何でも自分でやってきたし、泣いて構ってほしいと言った事もないし、わがままを言った事も無かった。

感情を見せない息子が、怒りに任せて爆発したことに驚いて言葉もないのだろう。両親は叱りもせずに、ただ黙っていた。

「でも嫌いな僕の子どもまで押し付けられなくて、良かったですね……貴方達はハンフリーの孫だけいれば充分なんだから」

ハンフリーの魔力の低い孫だってきっと可愛いんだろう。ハンフリーみたいに溺愛されているに決まっている。
僕の子どもだったらきっと見向きもされなかっただろう。

僕の血を引いているからきっと愛されなかった。

ああ、やっぱり僕は良い事をしたんだ。こんな世界に生まれてこないようにしてあげたんだから。

「ハンス、今は子どもを失ったばかりで気が立っているだろうが」

「気なんか立っているもんか。失ったんじゃない、僕が自分で殺したんだ。自分で殺しといてどうして動揺したり気が立ったりするんだ!」

気は確かに立っているだろう。二度と会わないと思っていた両親の元に戻されて、侯爵家の嫁になった僕に気を使っているのを見るのが最高に煩わしい。

「ハンス、何を言っている? 流産だったんだろう? レイダード殿が」

「アイツが何を言ったか知れないけれど、僕は子どもなんか産みたくなかったから、だから殺した。それだけだ。自分でやったんだから何も傷ついていないし、身体だってもう元通りだ。オートミールなんか出されたって食べたくもない!」

「何故、そんなことを……」

「何故? 僕のほうこそ聞きたい! こんな僕が母親で、生まれてきたい子どもなんかいるはずない!……貴方達から性根が腐っているって太鼓判を押された僕が母親になんかなれるはずがないでしょう!?」

愛せるはずないし、きっと僕は子どもを傷つけてしまう。
僕みたいなの親になる資格なんかないんだ。

「どうして、そんなことをっ」

「貴方達がそう言ったからっ……僕は腐っているって!……人間のクズだって……」

僕はどうしてこんなことを言ってしまうんだろう。両親を糾弾したいわけじゃないのに。僕の行為を両親の責任にしたって仕方がないのに。

「ハンスっ……ごめんね、ごめんね。子どもにそんなことを言わせる母親でごめんね」

母のごめんね、は、レイダードの母と同じ事を言っていてももっと幼く聞こえた。

「レイダード様が全部教えてくれたんだ。ハンスにレイダード様が魔法をかけてしまっていたって……そのせいで、僕もお父さまもハンスを愛せなかったんだって……でも、母親なのに……そんな魔法に負ける弱いお母さんで、ごめんね」

ごめんね、ごめんね、ともうその言葉しか忘れたように、嗚咽を漏らしながら泣く母親と、その母を抱きながら、同じように謝る父。

「私の顔を見たら、ハンスの療養に響くと思い……もう少し元気になったら、話し合おうと思っていた。レイダード殿から……聞いたが、マリアの言うとおりだ。私たちがもっとしっかりしていたら……」

別に変わらなかったと思う。

「僕は……レイダードのせいだとも思っていないし、貴方達の責任だとも思っていません……確かに、僕の性根は腐っていたんだから」

「言い訳になるようだが……ハンフリーが余りにも魔力が低くて、弱い子で、この家に置いておくだけでも許されないような子だった。だが、ハンス……お前が生まれてくれて、跡取りとして遜色のない子が生まれてくれたお陰でハンフリーはいても良い子になった。お前はなんでも良くできて、手がかからなくて……つい、ハンフリーにばかり構ってしまった。ハンスのほうが子どもなんだから、余計に愛情が必要だったはずなのに……怠ってしまったのだ。だから、やきもちを焼いてハンフリーに意地悪をするくらい子どもなら当たり前のことだったのに、お前を責めて」

「それこそ、レイダードの魔法のせいなんでしょう」

「だが、魔法の効果が切れても私たちの態度は酷いものだった……たいした非もないハンスを廃嫡にして追い出し」

「ハンフリーを殺そうとしました。当然のことです」

「ハンフリーを殺そうとしたのも、私たちが追い詰めたからだ……私たちが親としてなっていなかったせいだ」

「いいえ、僕の性根のせいです」





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