今日は彼らがここを出立する日だ。

やっとエミールが私の前から姿を消してくれる。

エミールは昨日、私の話を聞くと黙って姿を消した。それからエミールを見ていない。

「すいません……お別れとお礼を一同で言いたいので、下に降りてきてくれますか?」

エミールの同僚が遠慮がちにそうドア越しにノックをしながら、問いかけてきた。

ここで出て行かないのもおかしいだろう。これでエミールに会うのは本当に最後だと、覚悟を決めた。

騎士たちは皆出立の用意をして、最後に私に別れの言葉を告げるためだけに待っていたのだろう。口々にお礼を言われ、私も黙ってそれを受けた。

「おい、エミール……お前も黙ってないで何か言えよ。散々迷惑をかけただろう」

エミールだけが黙って口をきかなかった。憔悴しているのが一目で分かった。表情も暗いし、おそらく眠っていないのだろう。
そんなに傷つけてしまっただろうか。でも、エミールにとっては必要なことだった。

彼は昔の負の遺産を何時までも抱え込んではいけない。私ではないほかの誰かを愛するべきだ。そのためにアンリ様に記憶を消してもらったのだから。

「セシル……その男を殺そう」

一体何を言われているのか分からなかった。誰を殺すのだろうか。

「セシルを傷つけた獣を殺したい! セシルに傷つけた報いを味あわせないと、俺は死にたくなるんだ!」

「エミール……」

それは君なんだよ。でも、私は別に傷ついたりしていない。私は平気なんだよ。

「誰だか分からないんだ……それにもう10年も前のことなんだ。私はもう気にしていないよ……でもね、私は君に相応しい相手じゃないと分かっただろう? さあ、もう行くんだ」

「セシル、セシル……愛している。愛している……愛しています!……例えどんな事をいわれても、貴方の過去に何があると言われても、俺の気持ちを変えることはできない!」

「理由はお話したはずです……」

純潔ではない。それはどんな断りの理由を並べ立てるよりも、誰もが理解できる明確な理由のはずだ。

「昨日は……何も言えなかった。言ったら、きっとまた貴方を傷つけてしまうだろうから!……俺の中でどうしようもない怒りがあったから!……貴方が自分の意思でなかったにせよ、他の男に抱かれた事を俺は……悔しかった!……貴方を抱いていいのは俺だけのはずなのにっ! その男を殺したくて堪らなかった! 貴方を、俺で上書きしたくて、傷ついている貴方を、俺は一言でも話したらきっと貴方を酷く抱いてしまっただろうから!……でも、俺はその男と同じにはならない。貴方を無理矢理奪ったりはしないと約束します!……俺の思いは変わっていません。貴方を愛しています……貴方を妻にしたい」

これ以上何を言っても無駄だと分かった。純潔ではないという言葉でも変えられなかった。

「……しばらく考えさせてください」

エミールは領都に戻っていく。その間に姿を消すつもりなのは変わりない。時間を稼ぐだけだ。
以前もこうやってエミールから逃げだのだと思わず自嘲してしまう。あの時は半年後に捕まってしまったが、今とあの時とは違う。昔はエミールの魔力がこの身体に残っていた。そのためエミールの執拗な追跡にあってしまったが、今回はそうはいかない。

「セシル、貴方は考えていればいい。時間だけはあげるから……俺の側で」

え? と驚く時間もなかった。エミールが私を抱き上げ、馬に乗せ逃げ出せないように後ろから抱きしめてきた。逃げ出そうにも抗議の声を出す事を思い出す前に、馬は走り出してしまった。
私は王族で最低限の嗜みは習っていたが、こんな全力疾走をする馬に乗った事がなく、落とされないか恐怖のために硬直して、勿論逃げ出す事など考えられなかった。

一時間も走った頃だろうか。疲労困憊の私のために休憩を取ってくれた。馬から下りた私は足腰ががくがくして、上手く歩くことが出来なかった。エミールが私を抱き上げて、地面に腰を下ろした。私はエミールの腕の中で囲われたままだ。

「こんなの、誘拐ですよ! 私を帰してください!」

領都に一緒に行くわけには行かない。あそこには何度も顔を出しているが、エミールが連れて行くのはおそらく領都にある領主の城だろう。だとしたらあそこには私の顔を知っている使用人が何人もいるはずだ。昔は何度か遊びに行ったことがあった。絶対にあそこに連れられていくわけにはいかない。

「魔力無効地帯で、一般市民に危険がおよぶ可能性があり、緊急避難として連れて来た……というわけ、じゃ駄目かな? セシルさん」

「私の意志を確認せずに?! 嫌です! 領都には絶対に行きません! あの家に戻してください!」

「セシル、俺が勝手にやった事だ。部隊は関係ない」

「何で!……考える時間が欲しいって言ったでしょう?」

「考える時間?……逃げる時間の間違いだろう?」

心臓が早まるのを感じた。それをエミールも分かったのだろう。これだけ触れ合っていれば鼓動の音すら分かる。

「セシルは俺を拒絶する事ばかり考えている。素直に時間が欲しいなんて言葉を信じられるわけはない。馬鹿正直にその言葉を信じて、期待してセシルの家に訪ねてみればきっともぬけの空になっていただろうな」

厳しい言葉とは裏腹に、私を優しく抱きしめながら背中を撫でてくる。

「責めているわけじゃない……セシルがどうして俺を拒否するのか、理由は言ってくれたから分かっている。けれど、俺はどうしてもセシルを諦めたくはないんだ」

そう言うとエミールは同僚のほうを向いた。

「ここら辺はどうだ?」

「もう、あと少しで無効地帯を抜ける。ここからでも転移できるくらい、薄くなっている……が、領都も無効地帯になっている可能性もあるから、やはり転移して行くのは危険だな」

「なら、やはり馬で行こう。もう少し待ってくれ……ここでセシルの記憶を消して行きたい」

私にも休憩を取っているここが、かなり魔力無効が薄れているのを感じられた。エミールたちならば無理をすれば転移の魔法が使えるほどに。私でも簡単な魔法なら問題なく使えるだろう。

「記憶を消す?……どういうこと?」

「セシル……貴方の頭の中に、貴方を汚した獣の記憶があるのはどうしても許せない。その男を殺せないのなら、一秒でも早くその男を貴方の記憶から削除をする。そうすればきっと俺のことを受け入れてくれると思うんだ。きっと俺の事を愛してくれる……セシル、少し頭が痛むだけだから安心してくれ」

私からエミールの記憶を消す?

「い、嫌だ!」

兄のお腹にいる頃からエミールが生まれてくるのを楽しみに待っていた。
初めて抱いた時のことをよく覚えている。初めてエミールを抱いたのは勿論母である兄で、その次が父である侯爵だった。私は自分の順番が回ってくるのが待ちきれないで、自分の父親を押しのけてエミールを抱っこする順番をもぎ取ったのだ。
初めて触れたエミールは本当に可愛くて、父が次を催促しても中々手放せなかった。

エミールが初めて話したのは、私の名前だった。

エミールが私の好きな薔薇を持ってきてくれて……私に宝物をくれた。そう、エミリオだ。エミールのことを忘れたら、私にはいったい何が残るのだろうか。何も残らない。もう死んだも同然の隠居生活だが、私の中からエミールの記憶を消されたら、もう私には何もなくなってしまう。
エミリオは私にとって、ただの甥になってしまう。

これ以上何を失っても、エミールの記憶だけは失うわけにはいかない。

「何故? 貴方にとっては辛いだけの記憶のはず! その記憶があるから、あんな場所で一人……そして、誰も愛そうとしないのに!」

「辛い記憶なんかじゃない!……私にとって、かけがいのない!……ただ一つの大事な物だ!」

エミールが咲いたばかりの薔薇を、ちょこんと顔を傾げておじ様気に入ってくれますか? と、差し出してくれた。

エミリオを産んだ時、最初に最後で母親として抱けた記憶。私がエミリオにたった一つプレゼントできたもの、エミリオと言う名前。

それら全ては私の中で優しい思い出なのだ。

エミールに無理矢理抱かれた事。花嫁の媚薬で何十回とエミールに抱かれただろう。それだって別に辛い記憶なんかじゃない。消されていい記憶なんか一つもない。

「何故だ! どうしてそんな男を庇う!……まさか、その男を愛していたとでも言うのか!?」

エミールは私の言葉に衝撃を受けたようだったが、私のほうこそエミールの言葉に驚かされた。

愛している? エミールのことを?




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