結局ユーシスにも部下たちにもダリヤがジェスの自宅にいることは伏せていた。どんな理由を付けたところで、ジェスにはダリヤを軍に差し出すことなどできなかった。それが自分のひいては部下たちの利益に一番かなうこととはいえ、どうしてこれ以上ダリヤを自己保身の犠牲にできただろうか。

 おそらくダリヤがここを訪れたのは、ジェスに助けを求めるためでも、謝罪をするためでも、まして捕まりに来たわけでもない。

 何かしらの決着を付けに来たのだろう。彼の中だけで。

それだけは昨日のダリヤを見ていて分かった。そんな迷いのない眼をしていた。そこにジェスの踏み込む余地はなかった。

 だがその決着に何らかの形でジェスも関係しているから、だからジェスのところまでやって来たのだろう。

 ダリヤの存在が、自分の中でどう定義付けられるのか、何度も自問した。その度毎に、なんの答えも出すことの出来ないままだ。昨夜も散々自問し、眠れないまま小さな身体を抱いていただけだった。

「ただいま」

 もう何年も言ったことのない言葉だった。それでもダリヤがいるかもしれないと思って、そう言いながら扉を開けた。真っ暗だった部屋の電気をつければ、暗闇の中にダリヤが一人座っていた。ソファにでも座っていればいいものを、床に所在無さ気にポツンと足を投げ出していた。

「お帰り……」

 その声を聞いてホッとする自分がいた。

「いたのか」

「他に行くところがないことくらい、知ってるだろ」

「電気くらい…」

 付ければ良いと言いそうになって、それができないことに気が付いた。逃亡者であるダリヤがここにいることを知られるようなことを、ダリヤは避けていたのだろう。

「今日一日…ここで何をしていた?」

「何って……特にやることもないし。色々考えていた…これからどうしようってね。あ、そうだ…昼間これ作ったんだ。夕食まだなら一緒に食べる?」

「君が作ったのかい?」

 夕食はまだ取っていなかったが、特に食欲も感じなかった。最近はいつもそうだ。何を食べても味を感じなければ、紙でも食べているかのような感覚しかなかった。しかしダリヤが作ったらしい料理に興味をそそられた。

 そう凝ったものではない料理を温め、ダリヤはジェスに差し出した。

「そう……上手くないことは保障するぜ?俺、料理の才能は無いみたい。だいたい材料がなさ過ぎだし」

 言われるがまま食卓に付いた。そういえば自宅で食事を取ることなどほとんどなかったと思いながら、スープを口に含んだ。確かに不味いということもないが、格別美味しいということもない味だった。可もなく不可ないといった感じだろう。だが、久しぶりに味を感じられたような気がした。見た限り、ほとんど食材がなかった中で作ったものなら上出来かもしれない。

 そんなジェスの様子をじっとダリヤは見つめていた。

 なんだろうと思いながら、まさか食事に毒でも入っているのだろうかと一瞬疑ったが、ジェスが料理を口に運んだのを見ると、ダリヤも食べ始めた。

「何?そんな変な顔して、毒でも入ってるかもと思った?」

 ジェスの考えを読んだように、悪戯そうな顔をして見せた。

「少しね…そう言うと怒るかな?」

「別に……信頼関係が成り立ってない時点で、そう考えるのは当然だろ?実際に俺、アンタを一度殺したんだし」

 全く気にしていない素振だった。確かにダリヤとジェスの間に信頼関係などほんの一欠けも成立していなかった。ジェスはダリヤの真意など全く掴めないままだし、ダリヤも何も言わない。ここにいる理由すら言わないのだ。

 だがこんな夜遅くというのにダリヤはひょっとしたらジェスの帰りを待っていてくれたのだろうか。これからのことを話したいことでもあるのかと思えば、肝心なことは何も話さなかった。ただジェスが食事を取っているのをじっと見つめて、昔の話をし出した。

「俺さあ…家事一般はやっていたけど食事の仕度だけは母さんがやってくれていたんだ……俺の手つきが相当怪しかったから怖くて任せられなかったみたい。だから、ほとんど料理なんかしたことがないんだ。あんまり美味しくもないだろ?」

「そうでもないよ…君が言うほど酷いものではない」

 幼い頃から働きづめだったダリヤに家事までも要求するのは過酷だろう。ダリヤにはあらゆるものが備わっている。明晰な頭脳、行動力、判断力。だが、運には見放されている。

「中将の奥さんは…きっと凄く料理とか上手だったんだろう?」

「どうだったかな?」

 思い返してみると、妻の作った食事の味を思い出せない。それどころか何を作ってくれたのかさえ、霞がかっているようにさえ思えた。それだけの時間を妻と過ごしていなかったことに、ダリヤに問われて初めて気が付いたほどだった。

 それでもダリヤが聞きたがっているのが分かり、思い出す限りで妻のことを語った。

「彼女は良家の出で…だからといって、権門の出というわけでもない。ただ、大事に育てられた普通の女性だったよ。政略結婚でもない……ただ、普通に出会って、普通に恋をした」

 ジェスと彼女とはどこにでもあるような、カップルに過ぎなかった。恋愛ドラマなど生まれようもない、ごく普通の。

「私と彼女は内戦に行く時に婚約したんだ。その時は確かに恋をしていると思っていた。彼女を大事に思っていたし、必ず戻ってくるから待っていてくれと言って、私は戦地へと向かった。だが戻ってきてからはどうだったのだろうか?……正直分からない。戦場で始めの1,2年は彼女のことを思い出すこともあった。だが、あとの数年は……彼女の顔さえ思い出せない有様だった。再会した時、私の婚約者はこんな顔をしていたのかと驚いたほどだったよ…きっと…それは彼女も一緒だったのだろう。お互いがお互い、他人のようにしか感じなかった。だが、今さら婚約を破棄することもできなかった。五年という歳月は余りにも長すぎたんだよ……本当だったら五年も戦地に行きっきりになるなどと、私も彼女も思ってはいなかった。たかが異教徒の反乱だ。ほんの数ヶ月だろうと楽観的に思っていたんだ」

 しかし何時まで経っても異教徒の殲滅戦は終わりを告げることはなかった。その間にジェスの感情は麻痺しきっていて、人間らしい感情が乏しくなっていた。内戦が終わりを告げた時には彼女を愛しいと思う感情も、持ち合わせていなかっただろう。

「それでも、五年彼女は待ってくれていた。すでに良家の子女としては結婚適齢期を過ぎていた彼女に、もう少し待ってくれなどとどうして言えただろうか、ましやて婚約破棄など言い出せるはずもない……結果」

 余所余所しい雰囲気がいつまで経っても二人の間にあった。残っていたのは過去の愛だけだった。その過去の愛に縋って、現在に繋げようとしていた。

「何年も離れていた期間を埋めようとしたよ……私は彼女に誠実であろうとしたし、彼女も同じだったと信じていた。子どももすぐにできたし、これで子どもが産まれれば、きっと元通りに戻ると思っていた。ただ……私には彼女と過ごした日々が余りにも少なすぎたんだ。私は、彼女よりも仕事を優先して、家にいる時間も少なかった。彼女の料理の味も覚えていなければ、何を作ってくれたのか記憶にすらない……酷い話だろう?」

 結局一年ほどで妻の死という最悪の結果で結婚生活は幕を閉じてしまった。その中でジェスは彼女を裏切ったことはなかったが、良い夫とはお世辞にも言えなかったのかもしれない。

「…今思うと不思議だ。私は彼女を愛していたのか分からない…きっと、愛していなかったのだろう。それよりも私を裏切ったという憎しみのほうが大きかったのかもしれない。平気な顔で裏切る女を嫌悪して、行き場の無い怒りを犯人かもしれないクライスに、そして最後には何の罪もない小さなリヤにぶつけたんだ」

 自分ばかりが口を開いているとは思った。ダリヤは黙ったままジェスの話をただ聞いているだけだ。

「妻の失ったばかりの頃に私の前に現れた小さなリヤを見て、運命だと思ったんだ。クライスの子どもを弄んで捨ててやったら、どんなに気分が良いかと思った。クライスに妻が殺されなかったら、妻の裏切りも目にせずに済んだ。同じく殺された子どもが自分の子どもだったのか、悩むこともなかった。自分の子どもだったら、どうして守れなかったのか、その自分の無力さを悔やんで……私の家庭を無茶苦茶にした男の娘がこんな幸せそうに笑っているのを、どうしても許せなくなったんだ……言っていることが無茶苦茶だろう?」

「それで……気分良くなったのか?」  

「いいや……君は何時もまっすぐな目で私を見て……そして何も偽らない目で、私に好きだと言った。言い訳にしか聞こえないだろうが、君が私に好きだと言わなかったらきっと私は君に何もしなかっただろう。それくらいの理性は、あの頃の私でもたぶん持ち合わせていただろう」

 だが幼いリヤはジェスを好きだと、愛していると言った。

「私に騙されている馬鹿な娘だと、嘲り、だが、余計にいらだっていった。何故私を疑うことすらしないんだと……気分が良くなるどころか、逆に苛立ってばかりだった」

 その小さな身体すら投げ出したダリヤは、わざと痛めつけるように抱いたジェスに何の疑問すらも抱く様子もなかった。ジェスの偽りの愛の言葉すら疑うことすらしようとしなかったダリヤに、ジェスは苛立ちを隠せなくなっていった。こんなに深入りするつもりはなかったのに、ほんの少し弄んで捨ててやるつもりだった、ただそれだけだったのに。

「…君も同じだと思ったんだ。私のことを何も知らないで、好きだと、愛していると言った、私の外見や地位だけを見て好きだと言う女たちと何も変わらない、汚らわしい生き物だと思った。私を裏切った妻と同じだと……いや、クライスの娘であるリヤは妻以上に」

「汚らわしいと思った?」

「……そうだ」

 リヤへの憎しみは、クライスへの憎しみではなかったかもしれない。自分を裏切った妻への怒りをリヤに反映させていたのだ。

「おまけに、幸せだと言った。どうしてクライスの娘が、どうしてそんな幸せそうな顔をして微笑んでいるんだ……私はこんなにも苦しいというのに…そう思った。あんなにあどけない笑顔をしていたって、本当は妻と同じ汚らしい女なのだろうと。あんなに純粋そうで幼いのに、子どもが出来たといっては結婚を迫り、二度目には勝手に産もうとする。侮蔑していた妻そのものだと思った」

 すでにダリヤの作った料理は口にしていなかった。だがジェスはただ己の罪を、懺悔のつもりなのかダリヤに話し続けた。



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