そしてその夜はダリヤにベッドを譲り、ジェスはソファで横になった。一度ダリヤもジェスの家から出て行こうとしたが、やはり行く当てなどないのだろう。ジェスに引き止められるがまま残った。
男の一人暮らしで、客間などというものも存在しない。ダリヤは部屋の片隅で寝ても構わないといったが、ジェスもダリヤを床に寝かせるわけにもいかなかった。お互いが満身創痍で万全の状態とは程遠い。
ダリヤも遠慮というわけでもなく、ただ単にジェスに借りを作りたくないという様子で拒絶したが、ジェスも譲らなかった。
お互いが譲らないからといって、まさか一緒に寝るわけにもいかない。何度も性交渉を持った間柄だというのに、今さらかもしれないが。おかしな話だが、今一緒にいてジェスはダリヤに性的な意味で興味を持ってはいない。
ダリヤがリヤと同一人物だと知り、彼女¥がジェスを憎んでも当然だということ、彼女¥の犯した過去の過ちに同情的になった今、ダリヤはそういった対象から大きく外れていた。だから一緒の部屋に寝泊りをしたところで何の問題もなかったが、一緒に部屋にいるとどうしても気まずい雰囲気が漂う。
―――何を言えっていうんだ。何も信じられない。
何も信じられなくて当然だ。なのに、ダリヤがジェスのことを信頼してくれるとでも思っていたのだろうか。ジェスを頼ってここに来てくれたのだと、少し思い上がっていたのかもしれない。結局ダリヤは行くあてもないから、フラリとここに立ち寄ったに過ぎないのだろう。
それでもたった一人選ばれた気分になっていたのかもしれない。ダリヤにとってジェスはあらゆる意味で特別なことだけは、自惚れではなく理解していたからだ。
身体は疲労を訴え、眠りを必要としているのに、少しもジェスに眠気は訪れなかった。考えることが多すぎるからだろうか。
ダリヤのこと、その弟のこと、部下のこと。大総統の地位のこと。
何度寝返りをうっても眠れず、ダリヤがきちんと眠っているかを確認しようと自室に向かった。ひょっとしたら、ダリヤがきちんと眠りについているか心配で眠れないかと思ったのだ。いやもしかしたら恐れていたのかもしれない。ダリヤが何処かにいなくなってしまうことを。
ダリヤが寝ていたらと、起こさないように気配を殺して扉一枚を挟んで自室の気配を探った。
眠っている気配はしなかった。この寒い夜に風の音が聞こえる。
ノックをしながらも、ダリヤの返事を待たず部屋に入り込むと、窓を開けて窓辺で佇んでいるダリヤがいた。
「眠れないのか?」
「ちょっと…ね」
何でもないようにそれだけ言うとダリヤはベッドに戻ろうとしたが、僅かに左足を引きずっていた。
「ひょっとして、左足が痛むのか?」
「何時ものことなんだ。今夜が特別ってわけでもない」
「寒いからか?」
暖房器具はこの部屋には何もない。ほとんどジェスが自宅に戻っていなかったこともあって、冬に使うような布団すら用意をしていなかったことを思い出した。これでは寒いはずだ。冬布団を出そうにも、とても今使えるようなものではないだろう。何処に仕舞ったかも覚えていなければ、そんなものがあったかすら覚えていなかった。
「一緒に寝れば少しは暖かいかもしれない、嫌か?」
口から思わず出た言葉はそんなものだった。嫌かだなんて、嫌に決まっているだろう。何を言っているんだと思いながらも、一度出た言葉は元に戻らない。何を言っているんだとばかりに見開かれたダリヤの金色の目が、自分がそれほど場違いなことを言い出したかを物語っていた。
「あ、私は一体何を言ってるんだ……嫌に決まっているのに」
「中将のほうが……嫌なんじゃないのか?」
「嫌じゃないよ…君が嫌でなければ」
ジェスがダリヤに触れるのを嫌だと思わないのは、確かだった。そんなふうにダリヤがダリヤだと認識して触れるのは、今日が初めてだったかもしれなかった。ダリヤがリヤだったと知ってからも、何度かダリヤに触れる機会はあった。だがそのことに特に感慨もなかった。だが改めて感じてみると、昔感じたリヤへの嫌悪感は今微塵も感じることはなかった。
だがダリヤはどうだったのだろう。ジェスは自分が余りにもおかしなことを言ったと自覚したのに、ダリヤから一緒に眠ろうと言われた。
そして言われたように一緒に眠った。始めはただ一緒に眠るだけだった。だがダリヤが震えているのを感じると、恐る恐る手を伸ばしてみた。そうしてみてもダリヤからは拒絶はなかった。だからそっと抱きしめてみた。性的欲求など皆無だった。ただダリヤを、小さな彼を守ってやりたいとそう思ってからだった。
冷え切ったダリヤの身体を温めるように、背後から抱きしめてお互い何の言葉もなく、眠りに付いた。いや、ジェスは眠れなかったし、ダリヤもそうかもしれない。ただ、お互いの体温を感じて何を思っていたかは知らない。
ジェスは純粋にただダリヤの冷え切った身体を温めてやりたい、そう思っただけだったが、ダリヤは何を思ってジェスと一緒にいることを許可したのだろうか。
ここにダリヤが来て以来、ダリヤはあからさまな憎しみを見せてはいなかった。あんなにジェスに対して燃えるような敵意を示していたというのにだ。ジェスを陥れ、一応は殺したということで、その復讐心は満足したのだろうか。復讐ではないのなら、ダリヤは何を求めてジェスの元へやってきたのだろうか。
そんなダリヤとは裏腹に、ジェスは未だにダリヤがクライスの娘だということが頭に過ぎることもあった。でもそれは嫌悪感というよりも、どうしようもないやるせなさから来ていた。
この抱きしめた小さな身体が、どうしてあの男から出来ているのだろうかと、そんなことを思ってはいけないと分かっていながらも考えることを止めることはできなかった。ダリヤとクライスが親子だろうと、それはダリヤには何の罪もなく、また関係ないことだと何度言い聞かせただろうか。
だが理性と衝動とは別のもので、こうして触れていてもダリヤの全てがクライスという男から受け継いでいることを、忘れることはできなかった。彼がクライスの子どもでさえなければ、こうして抱きしめることも、触れ合うことにも何の躊躇も感じずにすむのだと何度も思った。
この腕の中の少年の父親がジェスの妻とジェスの子どもだったかもしれない二人を殺したのかもしれない。
そう思うと自業自得だったかもしれない妻はともかく子どもには罪はなかったはずだ。だからダリヤをこうしていることに、後ろめたさを感じるのだ。その子を殺したかもしれない父親を持つダリヤを抱きしめている。
自分の子どもではなかったかもしれない子に対しては後ろめたさを感じるというのに、確実に自分の子どもだったと断言できる、自分が殺したダリヤの子どもに対してはそういった感情は沸かないのかと問われれば、感じないはずはなかった。
ダリヤの子どもに関しては、自分が犯した過ちの中でもっとも罪深いものだった。それを直視するのが躊躇われるほどの。だから余り深くダリヤにそのことで追求できないままだった。その時の子がどうなったか、どんなふうに処分されたかも知らないままだった。
その償いを込めて、ダリヤにプロポーズをした。もう一度ダリヤとの間に子どもができたなら、ダリヤに失わせてしまった分までを込めて大事にしてやりたい、そう思ったが、もうダリヤは子どもが産めない身体だった。
自分の思いは色々矛盾しすぎていて、自分の思いすら確固たるものを築けてはいない。自分がどうしたいのかも明白に出来ない。
だがジェス以上にダリヤ自身のほうがまた、クライスが父ということに蟠りを持ち続けていた。少なくてもジェスにはそう思えた。ダリヤが自分自身を侮蔑していて、誰よりも汚らしいものだと思っていて、それこそジェスを憎んでいるのよりも深く自分を憎んでいるのではないだろうか。
ダリヤは息さえしているのが辛いと言った。生きているのも、まるで地獄のようだと。だが今ジェスもダリヤの苦しみになど到底かなわないだろうが、苦しんでいた。
何を一番に選択すべきか、この目の前の少年をどうしたら幸せにしてやれるのか。せめて生きていることを辛いと思うことがないようにしてやりたかったが、ジェスにできることは余りにも少なすぎた。ジェス自身も過去に囚われすぎていたからだ。
「この傷はどうして治さない?銃弾で受けた傷は魔術で治したのに……」
眠っているかと思ったが、答えがなくても良いと問いかけた。パジャマから少し出たその両腕から覗く傷跡が気になったためだ。
以前に見た時も直りかけの傷口だったが、また傷が開いていた。いや、これは開いたのではなく、また新たに傷つけたものだろう。抱きしめたままそっとその両手を取り、そっと傷口の上から撫で上げた。これも魔術で治そうと思えばできるはずなのに、わざとダリヤはそうはしていなかった。
「これは…自戒。治さない。また同じ過ちを犯さないために、ずっとつけておくんだ」
「何時からつけ続けたんだ?……ひょっとして私が君を捨てたときからずっと?…ずっと手首を切り続けて、死のうとしていたのか?」
「そんなんじゃない……死にたいと思ったことはあっても、死のうとしたことはない……ただ、」
それ以上は言わなかった。ダリヤにはジェスの知らない過去がたくさんあった。この四年間で起こったこと。それはジェスが踏み込めない領域だったのだ。
「話しては……くれないんだろうね」
そう言うとダリヤは肩をすくめて見せた。
「いずれ……今が過去になって、そんなこともあったなって……笑って話せる時が来たら……話すしれない」
「……そうか」
どれだけ月日を重ねても、あの頃のことを、この今をダリヤが笑って話すことができる日がくることなど想像もできなかった。だから結局ダリヤはジェスに何も言うつもりはないのだ。
「もう…お休み。余計なことは…今だけは考えずに眠りなさい」
そしてダリヤが眠るまでずっと、抱きしめたままでいた。