次の日。
一睡もできなかったダリヤだが、それでも足取りはしっかりしていた。ダリヤが気丈でいなければ、ユーシスを守ることもできないからだ。
どこへ行こうか。もうこの国にはいるつもりはなかった。ユーシスの秘密を知るものが軍のトップにいては、安心して暮らすこともできない。
幸いお金は腐るほど持っていた。これだけの金があれば、新しい人生を送ることができるだろう。そう、もう二度と誰にも操られることの無い、誰にも干渉されない新しい人生をユーシスに与えてやれる。
そして自分も。かつて、ダリヤ・クライスという名を捨てたように、今度はダリヤ・ハデスという名も捨てていくのだ。
この小さな手を守るためなら、ダリヤには何だってできた。
ジェスはこんな自分を恨んでいるだろうか?
志半ばで、その命を終えなければいけなかったことを。
あんなふうに夢を持っていた、子どもっぽい、だが信念に燃える男を、ダリヤが葬り去った。
抵抗すれば良かったのに、まるで殉教者のようにダリヤを見ていたジェス。抵抗一つせずにダリヤの断罪を受け入れて死んでいった。
ダリヤはたった一つのものを守るためだけに生きてきて、そしてジェスを殺した。何の言い訳もしないし、するつもりもなかった。今度はダリヤがジェスからジェスの部下や親友から恨まれ、罵られる番だ。だが構わない。それだけの覚悟はあったし、もう二度とこの帝国に戻るつもりも無かった。
「ねえダリヤ、どこにいくの?」
「色んなところ……これから色んな世界をユーシスに見せてやれる……ユーシスが見たがっていた、海にも、山にも、砂漠だって連れて行ってやる」
この研究所から出ることができないユーシスのために、ダリヤはたくさん本を読んでやっていた。そのたびに目を輝かせ、外に出てみたいと叶わない願いを口にしていた。だがもう何でも叶えてやれる。今まで辛い目を合わせた分だけ、何でもしてやりたかった。
「ほんとう?すごい!」
「ああ、どこから行こうか?やっぱり海がいいか?」
子どもらしくはしゃいでいる様子に思わず笑みがこぼれた。昨日自分が何をしてきたか忘れたわけではないけれど、小さな身体でダリヤに迷惑を掛けないようにいつも背伸びしていたユーシスが、実年齢に相応しく甘えているのを見ると、言い知れぬ喜びとともに不憫さが胸を過ぎった。
こんな当たり前のことが許されずにいたユーシスに、やり場のない怒りが込み上げてくるのがいつものことだった。
「……ぼくのおとうさんやおかあさんも、いる?おそとのせかいには」
何気ない問いかけだったが、微笑んでいたダリヤの笑みが一瞬で凍りついた。
何れそんな疑問を持つときが来るとは思っていたが、今までユーシスが父母のことなど聞いてくることもなかった。
「会いたいか?」
ダリヤはユーシスに何一つ真実を語っていない。ユーシスの父母が誰なのか、どんなふうに生まれ、何故研究所で実験体扱いされているのか。こんな小さな子どもに話したとしても、ほとんど理解できないだろうことは、ただの言い訳に過ぎない。
ダリヤはユーシスにどんな小さな真実さえ語るつもりはなかった。誰から生まれたのか。どんなに父親に疎まれ、生まれることすら拒絶されたのかを知るのは、余りにもこの幼い子には残酷だろう。ダリヤのように一生父親を憎むような真似をさせたくはなかった。
どんなにやり場のない怒りが辛いのか。憎しみと復讐心をずっと持ち合わせて生きていくことが、どれほど馬鹿馬鹿しく虚しいか、分かっていて止められないか。そんなことは、ダリヤ自身がたぶん誰よりも知っていた。
だから、ユーシスにだけは、そんな想いはさせたくなかった。だから何も語れない。嘘もつくこともできない。お父さんもお母さんもいないけれど、どんなに望まれて生まれていたか、そんなありきたりの嘘など言おうものなら、きっとダリヤは馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうだろう。余りにも現実からかけ離れすぎて、悔しくて、自分をこんな境遇に叩き落した全てのものを呪って、きっと偽りですら話すことはできないだろう。
だから自分のことは、ユーシスの兄だと告げ、ユーシスはダリヤのことをダリヤと呼ぶのだ。兄さんとは呼ばせない。それは、もう一人のユーシスがそうダリヤのことを呼んでいたからだ。兄さんと呼ぶのは、弟だけでよかった。
「ううん…ダリヤがいてくれればぼくさびしくないもん!ダリヤ、これからずっとぼくといっしょにいてくれるんでしょう?」
こんな小さな子どもでも、敏感にダリヤの感情を汲み取って、言いたいことも言えないのだ。何時も冷酷な大人に囲まれて、甘えたい盛りなのにいつも遠慮したように我侭一つ言わなかった。
「ごめんな…」
何も言えないこと。こんなふうにしか生きさせてやれないこと。本当だったらどんなに謝罪しても、足りない。
「ダリヤはいつもごめんって…そればっかり!」
「そうだな…情けないよな」
ダリヤはしゃがんでユーシスと目線を合わせるとギュッと抱きしめた。苦しいよとクスクス笑うユーシスを強く強く抱きしめて、その子どもらしい高い体温を感じた。
ごめん、ごめん。何度でも言うよ。頬に触れる黒髪を撫でて、そう言い続けた。一度も会ったこともないユーシスの父親を殺したこと。こんな研究所で、研究材料としてしか生きながらえさせることができなかったこと。こんなふうに産んでしまったこと。化け物だと罵られるような、そんなふうに生き返らせてしまったこと。どれだけダリヤはこの子に謝っても、謝りきれない。
「ダリヤわらって!ダリヤがわらうとぼくもうれしい」
「じゃあ、ユーシスも笑ってくれ」
ますます強く抱きしめて、ダリヤはユーシスに顔を見られないようにした。
ユーシス、ごめん。今は上手く笑うことができないんだ。もう少ししたら、きっと上手く笑うから。だから、今はお前が笑っていてくれないか。そう心の中で叫びながら、抱きしめた腕で、優しくユーシスの頭を撫でた。