あれから数日が経ち、クライスによる一連の事件も犯人死亡ということで幕を閉じた。新聞各社は歴史上稀に見る凶悪殺人について大々的に紙面を割き、特集記事が何度も組まれていた。もう一週間が過ぎようとしている今も、クライスの名を聞かぬ日はなかった。今もジェスの目の前に置かれている新聞にはその名前があった。中央ではやっと夜安心して出歩けるという市民の声が聞こえてくる。

 それでもあと数日もすれば、その名も呼ばれることもなくなり、やがては事件も風化して忘れ去られていくだろう。それが日常であり、人間の日々の営みでもあった。

 ただ当事者だけは忘れることはない。ジェスもそうだし、ダリヤもだ。他にもクライスによって殺された被害者の家族たち。

 クライスを殺したジェスに感謝をする家族もいれば、どうして生きて裁判に掛けてくれなかったのか、真実を明かして欲しかったとジェスを詰る家族もいた。そのどちらの家族の気持ちも理解できたが、結局ジェスの取った行動は変えようもなかった。

「どうした?そんな顔をして」

 新聞をボウッと見ながら、もう何杯目になるか分からないグラスに手を伸ばしていた。

「別に……」

 愛妻家で有名な親友は早く家に帰りたいだろうが、律儀にジェスに付き合っていてくれていた。ただしロシアスはジェスと違って酒量をセーブしていた。

「ダリヤの様子は?……少しは落ち着いたか?」

「ん?……ああ、あの夜の激情が嘘のように静かだぜ。俺もあんな様子を見ていたから心配していたんだが、馬鹿な真似はする気はないようだし」

 ジェスに殺してくれと叫んでいたダリヤを、ジェスもロシアスも見ていた。そしてダリヤの手首に残る傷跡のことも知っていた。父親の死で自殺でもしかねないかと皆心配し、妻にそれとなく見張っていてもらうように頼んでいた。ロシアス宅にも護衛を兼ねた見張りは何人か置いてあるが、家の中のこととなるとロシアスも妻に頼むほかはなかった。

 しかしあのダリヤなら自分が死のうと思えば、誰にも止める事は出来ないだろう。それだけの絶対の意思と、達成する力を持っている。ダリヤが男でジェスと同じほどの年齢で、その力を復讐ではなく、自分のために使っていればジェスの最大のライバルになったかもしれない。ダリヤはそれだけの才能と実力を兼ね備えた人間だった。

「奥方にも苦労をかけるな……私のせいで」

「なーに。リリアにかかれば、ダリヤくらいなんでもないさ。リリアももう一人娘ができたみたいって喜んでいるくらいだしな……あの娘も早くに母親を亡くしたみたいだし、俺のところで、少しは甘えてくれると良いんだがな」

「そうだな……本当にリリアは素晴らしい女性だよ。羨ましいよ…お前が」

 同じように結婚したジェスにはロシアスのような家庭はなかった。その責任の一端はジェスにあったが、それでも親友のように誠実で素晴らしい女性がいるのを見ると自業自得ながら羨ましく感じるのも事実だった。

「何だ?羨ましいだなんて。そろそろ俺の言うように再婚でもする気になったか?」

 ことある事にロシアスは再婚でもして、再び幸せな家庭を築けと何度もジェスに言っていた。今夜のこの言葉も、ロシアスの挨拶のようなものだった。普段ならジェスも聞き流す言葉だったが、今夜は曖昧に頷いてみた。

「…そうか!良かったじゃないか」

 あの事件があって以来、女を毛嫌いしていた様子をよく見知っているロシアスは、ジェスのそんな様に笑みが零れ、自分のことのように喜んでいた。

「もうプロポーズしたのか?」

「いや……プロポーズも何も、そんな段階でもないし。正直どう接したら良いのか分からないんだ……私がしたことを思えば、今さらどの面を下げて、そんなことを言える?」

「お前、まさか」

 それだけでジェスの結婚相手と考えている相手が誰か想像がついたのだろう。一瞬絶句し、言葉を考えあぐねている様子だった。ジェスもこの数日散々考え、そしてこの方法が一番ダリヤのためになるのではないかと思ったのだ。

「私の妻ということになれば、これ以上軍にも手出しさせないし、ディースも手出しはしないだろう。それでダリヤも自由になれるし、これ以上軍に関わらなくて済む……それにあの子が望めば……あの子が無くした家庭を、家族をもう一度作ってやれる。もう一度子どもを作って、そしたら今度はその子どもを誰よりも愛してやる。そして」

「止めておけよ…自分がどんな馬鹿げたこと言っているか分かっているのか?あの子はお前があれほど憎んだ子なんだぞ?あの子はそのことで十分すぎるほど傷付いたはずだ。そして、そのことでお前を憎んでいる」

 だいたいそんな申し出に、あの子がYESとでも言うと思っているのかと呆れたような声だった。それは勿論ジェスも考えたことだ。そんなことを言ってもダリヤが承知するはずないということは。

「お前の感情が、償いの気持ちからなら、罪悪感からのプロポーズなんて余計傷つけるだけだ」

「罪悪感なんかでは…」

 そう言い掛けて口を噤む。ダリヤに対して思う気持ちは、当然愛情なんかではない。酷く陰湿で、拭い切れない罪悪感とともにあるものだ。

「じゃあ、彼女を愛しているのか?好きだと言えるのか?……あの哀れなダリヤを見て、守ってやりたいと思う気持ちは分からんでもないが……お前には無理だ」

「そうだな……お前の言うとおりだ。大部分は罪悪感からだろうな。いや、好意なんか一欠けらもないだろう」

 ジェスはダリヤに好きだと言う事ができない。それは真実ではないからだ。ジェスはダリヤを愛していない。もっと言うのなら、誰も愛したことがないのかもしれないが。ジェスがダリヤに向ける感情は、愛では決してなかった。ただの罪悪感を払拭するための手段にすぎないだろう。

「昔はあんな子じゃなかったんだ……もっと無邪気で、馬鹿だったけれど、あんな憎しみをぶつけて来る様な、そんな子ではなかった」

 今でも出来るなら、ダリヤが望むなら、昔嘘で塗り固めたジェスがした約束を果たしてやりたいと思ったのだ。

「もうよせ……罪悪感や償いの感情だって言うんだったら尚更俺は賛成できないぞ。考えてもみろ……あの子はクライスの娘だぞ。それが悪いってわけじゃない……あの子には何の罪もないし、子どもは親を選べるわけじゃない。あの子は何も悪くない。だけど…お前はそう納得ができるのか?過去お前が理不尽な怒りをあの子に押し付けたように、これからもそうしないと言えるか?ふとした時、ダリヤがクライスの娘なのだと、嫌悪感を抱かずにいられるのか?……良いか?これは理性で言い聞かせてもどうしようもない問題なんだ……理性で抑えきれない、生理的感情の問題だからな」

 そうだ。そうやってジェスは過去散々ダリヤを辱めた。まるでダリヤがクライスの娘だからと、あたかも正当な理由が有ったかのように。

 今でもふとした瞬間に思うことがないとは言い切れない。ダリヤはあの大量殺人犯で、ジェスの妻子を殺したかもしれない男の血を引いているのだと。

「あの子はきっとお前のそういう気持ちを敏感に感じ取るぞ……それでまた傷付くんだ。偽りの思いを抱えて、あの子に嘘で好きだとでも言って、昔の過ちを正そうとでもすることが正しいことなのか?安易にこれまでのダリヤの人生を償うために結婚しますとでも申し込むつもりか?馬鹿にされているのかと一籌されるのがオチだぞ……俺が聞いたって、お前が狂ったのか錯乱しているのかと思うくらいだからな。だいたい思いつめて、試行錯誤した結果が結婚だなんて、誰が聞いたって唖然とすると思うぞ……まさか喜んでくれるとでも思っているんじゃないだろうな?そんな単純に片がつく問題だとでも思っているのか?……お前があの子に本当に償いたいのだったら、別の方法があるはずだ」

「そうかな」

「そうだ」

 ロシアスの言葉は一々に重みがある。ロシアスは自分に娘がいるだけにダリヤに同情的で、それでいて冷静だ。おそらく自分の娘にダリヤを重ね合わせて考えているのだろう。ロシアスも軍人だから、当然恨みを買うような仕事をたくさんしている。他人事ではないのだろう。

 ジェスと同じように内乱に参戦したロシアスも、ジェスほどではないがたくさん殺してきた。自分の娘がダリヤと同じ立場に立たされたら、と想像することも多いかもしれない。自分の殺した人間の身内が、自分の娘に同じ仕打ちをしたら。
 その場合、自分のような男に二度と関わって欲しくはないだろう。そう思うのも分かる。

 しかしロシアスの娘ローズにはロシアスのような家族がいる。しかしダリヤには何もないのだ。誰も支えになって味方をしてやる存在がいない。

「では、どんなふうに償えば良いんだ?……私のしたことを」

 今まで自分の歩む道は、ジェス自身が決め歩んできた。自分の選んできた人生に誰にも口出しはさせなかった。だが今は誰かに自分の取るべき謝罪の方法を指し示して欲しかった。

「分からないんだ…本当に。自分がしでかした過ちをどう償えば良いのか…償ったところであの子の気が晴れるとも思えない。私が楽になりたいだけだ……自分の犯した罪の証拠が目に前にあることが耐えられないだけかもしれない」

 ダリヤを本当に楽にしてやりたいのだったら、ジェスがクライスを殺した時に、ダリヤに乞われるまま殺してやることが、一番の安息だったのかもしれない。そんなふうに思うこともあった。

 殺人犯の子だというレッテルを貼られ、ジェスに裏切られ、子どもを亡くし、母親を魔術の反動で殺してしまい、そのことで軍に捕らえられている。その何一つ生きる希望のないダリヤの望んだことが死なら、ジェスが、ここまで追い込んだ自分自身がダリヤを殺してやるべきだったのかもしれない。

 だが、それではダリヤは苦しむためだけに生まれてきたようなものだ。搾取されるためだけに生き、何の幸せを感じないままその人生を終わらせることなど、数多の命を奪ってきたジェスだからこそできなかった。ほんのささやかな幸せすら知らないまま、たった18歳で死なせるわけにはいかなかった。

「ユーシス・クライスを…いや今はどんな姓になっているか分からない。ダリヤの話だと、養子に出したらしいが、どこまで真実かは…とにかくダリヤの弟を探し出して、連れてきてくれ」

 何もかも失ったと言っていたダリヤに唯一大切なものがあるとしたら、唯一人生き残っているだろう、弟のユーシスの存在しかジェスは思いつかなかった。ダリヤが持っていた唯一枚の写真。そこにはダリヤと同じほどに成長した弟の姿が映っていた。間違いなく今も生きているだろう。

 今もダリヤが軍にいる理由は、ユーシスが原因ではないだろうかとジェスは疑っていた。たった一人残った家族のために、ダリヤは軍に縛られているに違いないのだろう。他のどんな理由も見出せなかった。勿論うがった見方をすれば、ジェスに復讐するために軍に入ったという見解もできるだろう。それに蘇生魔術をした証拠を握られていては、自由になる術もないに違いない。

 ただ、それが、蘇生魔術をしたせいで脅されているだけだったのなら、ダリヤは黙ってはいないだろう。死ぬことも選択できただろうし、ダリヤたった一人なら何処になりとも逃げ出せたはずだ。だから、そうできない理由がダリヤにはあるはずだ。そしてそれはもうダリヤにはユーシスしかいないはずだった。

 今のジェスにはダリヤの弟をジェスの庇護下に置くくらいのことしか、ダリヤのためにしてやれることは思いつかなかった。

 あとはダリヤに残った最後の家族ユーシスを、ダリヤのために守ることが数少ないジェスがダリヤのためにしてやれることではないかと考えたからだ。



「俺は…少し後悔している」

「何だ?」

「お前にあんなこと言わなければ良かったかもしれないと、今頃思っている」

「ああ…そのことか」

「お前は、妻が殺された後、気丈に振舞っていたが……そのうち張詰めた糸が切れてしまうんじゃないかと思ってた。だから…」

 妻が浮気をしていたという情報は、ロシアスからもたらされたものだった。死んでいた胎児の毛髪や瞳の色彩はジェスの子どもには表れ難いものだったからだ。勿論隔世遺伝という可能性もあったし、表れ難いというだけで、全くありえないというものでもない。だがそれを不審に思ったロシアスが調べた結果が、不倫していたという事実だった。
 ジェスだとて全くその可能性を考えなかったわけではない。妻は黒に近い褐色の髪と茶色の目で、ジェスは黒髪と黒い目だ。胎児の髪は金髪に近い茶色で、目は青かった。

 ただ、真実を露呈したくはなかった。それが本音だった。短い結婚生活だったが、仕事で忙しかった分あまり一緒にいた時間は少ない。だからその分、綺麗な思い出しかなかった。喧嘩もしたこともなかったし、何時も微笑んでいた妻の笑顔しか思い出せない。

 その彼女がジェスを裏切っていたことを自分から調べる気にはなれなかったのだ。だからロシアスからもたらされた情報を見て、やはりという思いと、その浮気相手がジェスの友人だったという二重の裏切りに言葉もなかった。

 ジェスの友人はジェスと同じ国家魔術師でありながら、内戦には赴いていなかった。それは友人の父親は軍の高官であり、おそらく父親が裏で手を回し内戦へ行かせなかったのだろう。そのジェスが内乱制圧に行っていた五年間に、すでに関係があったのかもしれないし、ジェスと結婚してからだったのかもしれない。

 ただ離れていた五年間は長すぎた。その間に何があったのかは分からない。そしてまるで見知らぬ他人のように感じる婚約者を相手に、義務感だけで結婚式を上げた。彼女もそう感じていたのだろう。余所余所しい笑みを浮かべ、手探りでどうにか結婚生活を築きあげようとしていたのを思い出すことが出来た。

 その彼女の歩み寄りとは裏腹に、大総統になってみせるという決意のほうを結婚生活よりも優先していたジェスとでは自然に隙間が開いていた。ギグシャグとする中で子どもが出来て、これで何もかも上手くいくのではと思って、何の歩み寄りも努力もジェスはしなかった。

 何か言いたげな顔をする妻のことなどジェスは気づきもしなかった。

 寂しかったのかもしれない。そんな彼女が他の男を愛したとしても、ジェスには責める権利など今思えば無かっただろう。今だからそう思える。しかし妻が殺された当時はそうは思えなかった。

 そう思えば二人は愛し合っていたのかもしれないし、妻がジェスに向けていた笑顔に偽りが無かったとしたら妻が友人から脅迫をされていたのかもしれない。だが二人が密会を繰り返し、関係があったのは事実だった。

 友人とは言っても、ジェスとロシアスとのような仲ではなかった。表面的には友人だったが、彼はジェスにライバル心を常に抱いていた。ジェスが内戦から戻り、順調に出世していく中で、上層部の父を持ちながら彼は芳しい出世を遂げているとは言えない状況だった。

 その二人がどんなふうに関係を持つに至ったか、二人が死んだ今となっては分からない。子どももジェスが父親だったのか、それとも金髪で青い目を持つ友人だったのかも、分からない。もし友人が妻を殺したとしたら、その動機も不明なままだ。動機ならいくらでも考え付くことが出来た。妻が別れを言い出し激高したのかもしれないし、反対に結婚を強請ったのかもしれない。ジェスに全てを話すといわれ、不貞がばれるのを恐れての犯行だったのかもしれない。

 妻を殺したのが友人だったのか、クライスだったか、それすら、もうジェスがクライスを殺した今となっては、永遠に謎のままだ。

「俺があんなことを言わなければ……お前はダリヤに、手を出すことは無かったんじゃないか?」

「そうかもしれんな…だがお前が悪いんじゃない」

 疑惑があっても、目を瞑って見ない振りをしただろう。その事実を目の前に晒されて、怒りのぶつけ場を失って、ちょうどその時目の前にいた、小さなリヤに叩き付けた。

「今さら何を言ったって、過去は変えられん……私が仕出かした過ちだ」

 グラスの中でカランと氷のぶつかる音がした。グラスの液体はダリヤの瞳のような琥珀色だった。




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