「一人になっちゃったな…」
司令部に戻る途中の車の中でポツリと誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
面と向かって血縁だといえる最後の男だった、父クライス。この不思議な哀愁は、父親の死を悲しんでいるものなのか、ダリヤ自身ですら分からなかった。薄っすらと記憶の端にしかいなかった存在だった。愛情よりも憎悪のほうがずっと深かったのに、いざ彼を目の辺りにしてみると余りにもその生き様が自分と似すぎていて、目を背けたくなるほどだった。
「私を恨んでいるか?私が君の父親を殺したことを…それでも…君の手でクライスを殺させるわけにはいかなかった」
「俺はもう母親も自分の子どもも殺しているのに?」
今さら一人くらい身内を殺したくらいで、これ以上ダリヤの何が損なわれるというのだろうか。既にこの両手は血で汚れきっているというのに。
「それは…君が悪いんじゃない!……皆、私が」
「アンタなら……そう言うと思った」
昔ダリヤを助けてくれたジェスだったら、そう言っただろう。ダリヤが見てきた酷薄さはジェスの一面であって、全てではない。昔ダリヤを助けてくれたあの優しさもまた彼の一面であって、むしろそちらのほうが本来のジェスだったかもしれない。時として余りにも深い絶望が人を狂わせることを、身をもってダリヤは知っていた。
「あんな男…父親らしいことをしたことがなければ、夫としても最低の男だったんだ。母さんだって長生きするよりも、短い人生でも愛する人がそばにいてくれたほうが、ずっと幸せだったはずなのに。なのにあの男は自己満足のために、あんな犯行を繰り返して…どんなに母さんが悲しんだか、きっと最後まで分かっていなかった」
最後まで自己満足を貫き通した男だった。ダリヤもユーシスも、己の血を分けた子も、ただ母と血が繋がった存在としか見ていなかった。母の付属物としてほどにしか価値すら見出していなかったのだ。最後の最後まで。
「それでも、あんなふうに…盲目的に母さんを愛したアイツを…俺は心底憎めなかった。もっと後だったら、俺、母さんとアイツのために死んでやっても良かったんだ」
もっと後、ダリヤの役目を終えた後だったら、自らが殺した母親を蘇らすために喜んで犠牲になっただろう。
「皆…俺からいなくなってしまった。誰も傍にいてくれない」
「ダリヤ」
ジェスはダリヤに何て慰めの言葉をかけたら良いか戸惑っているのだろう。でも、ダリヤはジェスが心配しているほど父親の死を悼んでいるわけではないのだ。いや、悲しんでいるのだろうか。色んなことがありすぎて、自分でも自分の心を把握しきれていなかった。
ずっと昔からあの父を殺すことを決めていたはずなのに、いざその死を目の前にすると、こんなにも不甲斐ない有様を晒すことになってしまった。
「母さんはよく言っていた。私が死んだら俺が一人ぼっちになっちゃうわねって…たった一人にしてしまってゴメンねって…死期が近くなった頃よく言っていたんだ……でも、自由になれるから好きなことをして生きなさいって言ってた。でもさ、俺に赤ん坊ができたことを知ると、馬鹿だって言ってた。別に責めたりはしなかったよ……ただ、厄介ごとを背負い込んでみたいな感じで。やっと自由になれたはずなのにって馬鹿な子ねって」
でも、ダリヤはジェスがいて、ジェスしか見ていなかった。死を間際にした母の心痛など、ダリヤにとってはジェスよりも軽いものだったかもしれない。
「馬鹿だよな…14歳で何ができたんだって、あの頃は分かってなかった。母さんが言ってた言葉の重みも意味を考えもせずに、ただ盲目的に産みたいと思って……大佐なら何とかしてくれるって思ってたんだ。自分で責任も持てないくせに、大人ぶって…無責任なただの子どもだった」
ジェスがいればそれで良くて、ジェスしか見れずに、その結果全部失った。
「私ならできた……」
「そうかもな」
ジェスにならできただろう。
きっと今とはまるで違う未来を築けたに違いない。幼い頃何度も想像した風景。それは容易に叶えられただろう。ジェスさえその気だったのなら。ただ、ダリヤ一人の勝手な一方通行では不可能だった。
「なのに…理不尽な怒りを何も知らない子どもの君に押し付けて、傷つけて…再会しても思い出そうとすらしなかった」
あれから四年も経って、ようやくジェスは心底から後悔していた。それだけはダリヤも分かったが、ダリヤはジェスの心を癒してやろうとは思わなかった。ここで、過去のことはもう良いと簡単に言えるわけはない。そんな義理はなかった。
「君に……何て言葉を掛けたら良いか……どんなふうに償ったら良いか分からず、真実を口にすることもせずに、逃げていた……私は卑怯で卑劣な男だ。すまない…君が望むどんな償いでもする」
そんなジェスの真摯な声にもダリヤは心を揺さぶられることもなかった。自分が望むことはジェスは絶対に叶えてはくれない。無理だと分かりきっているから。ジェスが今持っているもの全てを捨てる覚悟でないと、それは叶わないことだ。
だから全く違うことを口にした。
「俺さ…ずっと羨ましかった……死んでまで大佐の心を離さない奥さんたちが。俺も、大佐が殺してくれていたら忘れないでいてくれた?俺たちのことずっと覚えていてくれた?」
「ダリヤ……」
「なんて、ね。無理だよな」
死んだってジェスはきっと覚えてはいてくれない。自分たちはジェスにとってそんな存在じゃない。
「覚えているよ…忘れてなんてなかった。ただ、忘れた振りをしていた。意図的に思い出さないようにしていただけだ」
「だったらやっぱりそういう存在でしかなかったってことだよ」
そう思い込むだけで、簡単に忘れ去ることが出来る存在でしかなかった。ダリヤも、その子どもだ。別に今さら何かに期待していたわけではないから、それで良かった。