「どうしてこんな場所に用が?」
東方地方の下町をジェスとワグナーとともに歩いていた。
墓参りの後は何時も憂鬱な気分になった。返事もしたくないほどに。自分が守りきれなかった命の重みと裏切りが圧し掛かり、ジェスを苦しめていた。妻と子。軍人の自分が最も守らなくてはいけない存在だったはずなのに。
だがこの先に向かう場所はもっとジェスを陰鬱な気分にさせるだろう。この先はダリヤが東方地方でかつて住んでいた住居があるのだ。
「ここにあるような気がするんだ…何故ダリヤが国家魔術師になったのか、何故軍に縛り付けられているのかが。その原因が、全てがここから始まったのではないか…そう思った」
ジェスが出会ったリヤという少女はお世辞にも恵まれた環境にいたわけではない。軍とはもっとも縁遠い少女だったはずだ。それなのにジェスがリヤを見捨ててから、一年もしないうちにどうやって国家魔術師になれるというのだろうか。試験を受けることさえリヤでは無理だったはずだ。試験を受ける資格を得るには、軍の高官の推薦状が不可欠なのだ。
リヤ、いやダリヤの父親は高名な魔術師でもあり、ダリヤにその才能が受け継がれていたとしても不思議ではない。だがジェスが出会った12歳の少年は学校にさえ行っていなかった。どう考えても無理がある。
ダリヤは決して自分の過去を語ろうとはしない。だから自分が知らないダリヤの4年間をジェスが遡ってみるしか、ダリヤの隠された過去を、抱えているものを見つけ出す術はなかった。
今日ここに来たのはダリヤの過去を知るためと、ジェスが自分自身に折り合いをつけるためだった。自分のしたことを正視し、見つめなおすためだ。あのダリヤを目の辺りにした、あの言い知れない不快感。それはダリヤに感じたのではなく、自分自身に感じたものだったのではないだろうか。その全てと向き合うために、ここに来ていたのだった。
だがもう分かっていた。ダリヤの過去の痕跡を辿るべくもなく、自分が感じている思いが何か分かった。
この気持ちは過去自分が犯した行為に対しての、後悔と、嫌悪感だ。今までそれを微塵も感じなかったことが不思議なほどに。
一度芽吹いたそれは、日を追うごとに大きくなっていった。初めは、ほんの少しだけだった。あの素朴でジェスにあれほど従順だった少女が、ダリヤという少年に変わったのをやっと実感して、自分がどれほどのことを仕出かしてきたのかが分かったのだ。
ダリヤがリヤであったと知ってから初めて会ったのは、ジェスがまだ拘束されている時だった。あの時は己の置かれた理不尽な状況が許せなくて、冷静にどうしてそうなったのか、どうしてダリヤがあれほど変わってしまったのか、考えもしなかった。あの時ジェスの内にあったダリヤへの感情は、昔のままだった。
だが、次にダリヤと対面した時に、どれほど自分の放った言葉がダリヤを貫いていたか、考えるにつけ吐き気と自己嫌悪と、ダリヤへの嫌悪感との戦いだった。そして、この始まりの地である東方地方に戻ってきて、鮮明にあの頃のことを思い出し始めた。リヤの笑顔と、最後の絶望の顔。それを交互に思い出して、まるで昔に戻ったかのような錯覚すら覚えた。
「ダリヤの口ぶりだと自分から望んで、デュースの下にでもいるかのようだったが……実際は違うかもしれない。好きであそこにいるとは思えないんだ」
墓参りのついでではなく、墓参りが今回のついでだったのかもしれない。
正直気が進まなかった。ダリヤの空白の時間を調べることは、自分の罪を暴くことだ。
最後に会ったときダリヤは妊娠していた。痩せ細った体で、それでもお腹ばかりが大きくなっていた。ジェスが中央に行っている間、朝から晩まできっと働いていたのだろう。それでも今にも死にそうな母親の薬代で全てが消えていったのかも知れない。罵倒してつかんだ腕はやつれきって今にも折れそうな腕をしていた。
あの後どうしたのだろうか。あの時はダリヤが死んだとて構わないと思っていた。ジェスの妻子はクライスによって殺されたのだ。だったらクライスの娘と孫が死んでも当然とくらいにしか思えなかった。クライスの孫が自分の子どもだという認識などまるで無かった。それどころか、自分の子どもがクライスの血を引くなど許せるものではなく、消し去って当然だとさえ思っていた。
だからあの後、再びダリヤに会って、あの少年の目を見るまで思い返すことすらなかったのだ。
「…ダリヤ・ハデスの子どもはどうなったんでしょうか」
あのダリヤの身体で無事に産めたとは思えない。
ダリヤは何も話さない。死んだとも生きているとも。
そしてジェスからももう聞くことはできなかった。今さらどんな顔をして聞けばいいのだろうか。自分が死ねと言い、汚らわしいと言って殴った子どもの生死を聞くなどできなかった。いや、一度だけ訊ねたが、今さらそんなことを聞いて何になるのだと、ダリヤの失ったものは何も帰ってこないと言っていた。
「子どもは…死んでいる。おそらく、あの様子からでは死産だったのだろう」
ワグナーもダリヤが血塗れになってジェスの元から逃げ出した様を、その目で見ていた。容易に想像がついたのだろう。ジェスのその言葉には何のコメントも無かった。
「でも……その子は中将の子どもでもあったんですよね」
「ああ、それは間違いない」
ダリヤはジェス以外と寝るような少女ではなかった。初めてその身体を開いたとき、性行為が何であるかもしれなかったようなそんな少女だった。幼さゆえの一途さと潔癖さを併せ持っていた。
自分の妻だった女とは違う。何がそうまでダリヤにさせたのかは分からないが、初めて会ったときからダリヤはジェスだけを見つめていたのだ。それは幼い憧れだったのかもしれない。ジェスはそれを利用して復讐していたが、ダリヤはジェス以外の子どもを身ごもるような子どもではなかったのだ。それだけはジェスも認めることが出来た。今はどうであれ、リヤはそんな少女ではなかった。
「つくづく中将は子ども運ないんですね……本当だったら今頃3人の子持ちだったかもしれないのに」
「本当だな…」
もはや自嘲の笑みしか浮かばなかった。3人もいたのに、皆殺されたのだ。しかもそのうちの2人はジェスが殺した。殺させたのだ。
異教徒で何百人と人の血で塗れた手で、今度は自分の子どもを殺したのだ。どれほど血塗られた男なのだろうか。
だからこそこの目で見なければならないのだ。自分が犯した罪の証を。
扉を開ける。
僅かな家具しか残っていない、寂れた建物だった。真冬になったらどれほどの寒さになるだろうか。ただ雨風を防ぐことしかできないだろう。こんな狭い場所で母子2人暮らしていたのだ。
ジェスは貧しさとは縁のない暮らしだった。生まれた家庭は何不自由なく、ジェスに金をかけて教育を受けさせてくれた。軍人になってからも国家魔術師と軍人としての報酬で、普通の人の数倍の年収があっただろう。ダリヤのように10になるかならないかの歳で、働きずめの生活は想像もできなかった。
そういえば何時も同じ服ばかりを着ていたな、と思い出した。清潔にはしていたが着古した薄い布地一枚の服を冬の日でも着ていたのを見て、暖かい服を買うようにと握らせた金は全て母親にと消えていったのだろう。ダリヤの服装が変わることはなかった。
何時も情事の後で渡す金を、ダリヤは何だと思って受け取っていたのだろうか。きっと純粋にジェスの厚意なのだと思っていたのだろう。ジェスがその金銭を渡しているのはただの保身からということも知らずに。
あんな幼い少女と関係を持っていることがばれたら、ただの醜聞では済まないことは分かりきっていた。だがその少女が娼婦であるなら話は別だ。金を渡していたら、そこには売買があった証拠になる。実際ジェスはダリヤにだけではなく、店にも毎回金を払っていた。ダリヤには自覚はなくとも、彼女は娼婦としてあの店にいたことになる。ジェスはそこにいた娼婦を買っただけということだ。
「何もないっすね」
「ああ…何もない」
生活臭のするもの一つすら残されてはいなかった。ダリヤがこの部屋を出るときに持っていったわけではないだろう。初めから何もなかったのだ。食べていくだけで精一杯の貧しい暮らしだった。それはジェスが毎回渡すそうたいした大金でもない金を、驚いた目で見ていたことからも分かる。12、13歳の子どもが一日中働いたとて手に入る金は高が知れているのだ。
「ワグナー…悪いが近所の人を探してきてくれないか?できればダリヤの…リヤについてよく知っている人物が良い」
「近所の人ですか?良いですけど…でも、中将と別れた後のことを聞きたいのなら、娼館の女将に聞いたほうが良いんじゃないですか?…たぶんあの子、母親にも中将とのことを話してなかったと思いますよ」
「女将は私が中央に行った後、しばらくして事故で死んでいる……他の者も、私が聞きたかったことは何も知らない」
ジェスがリヤに暴行を加えた後、二度とリヤは現れなかったことしか分からないとしか言わなかった。実際リヤの客がジェスだったことを知っているのは女将しかいなかったのだ。その彼女が死に、リヤとジェスの過去、そしてリヤのその後を知るものはいない。
「でも、その後一応調べたじゃなっすか……でも行方不明ってことしか分かりませんでしたよ。今さら中将自ら調べたって何か分かるとも思えませんが」
「あれは人を使って調べさせただけだ……私が実際見て、調べたわけではない。行方不明で終わらせた一編通りのものでしかない」
実際にこの目で調べなければ分からないこともある。