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「ワグナー、来い」

 ダリヤの危惧とは裏腹に、ジェスは冷静な声で部下を呼んできた。部屋の片隅で蹲っているダリヤをジェスは視線で示すと、信じられないことを部下に命令をした。

「あの子どもを医者に連れて行け……子どもは処分させろ。今すぐにだ」

「え?…大佐。だって、どう見ても…もう産まれる頃でしょう?……処分なんて無理ですよ」

「裏でやっている医者がいる。金さえ出せば、なんだってやる…たとえ臨月だろうがな」

「でも……」

 ダリヤはジェスの無慈悲な言葉を聞きながら、震えていた。

 殺されてしまう。自分がクライスの娘というだけで、ジェスにとってこの子は存在することも許されないのだ。

「い、いやだ…今度は、今度は、殺さない。産みたいんだ!」

「クライスの孫など、産ませるはずがないだろう」

 冷たい声がダリヤにかけられ、頬に激痛が走った。痛いと口を動かそうとすると、口の中に血の味がした。殴られたのだとそのとき漸く気が付いた。

「どうして……俺、迷惑をかけないよ……何も望まないのに」

 夢から醒めて現実を付けつけられ、最後に残ったものですら取り上げられようとしている。

「もう、会わないよ……俺も、母さんも、この子と一緒にこの街から消えるから!……永遠に大佐の前に姿を現さないって約束するから!……だから、だから!」

「聞き分けのない子どもだな……お前が私の子どもを産むのが気持ちが悪いと言っているんだ!存在するだけでな!」

 その声と同時に蹴り飛ばされて、転がった。何度も何度も床に叩きつけられた。耳鳴りがしてジェスが自分を罵る口調すら、聞くことが出来なかった。大佐、止めてくださいと部下の男が制止する声だけは何故か聞こえた。

 蹴り上げる足がなくなったので、重い体を引きずるようにして無理矢理立ち上がった。ここにいたら、赤ちゃんが殺されてしまう。視界を遮る乱れた髪をかき上げると、手に平にはべっとりとした血がついていた。

 何度も蹴られたお腹を抱えながら後ろを振り向くと、部下に拘束されていたジェスがそれを振りほどいてこちらに向かってくるのが、血で濁った視界から見ることが出来た。 

 何度も思ったけれど、本当にこれが現実なのだろうか。ついさっきまで、ジェスが戻ってくるのを心待ちにしていたところだった。子どもができたことを喜んでくれないかもしれないと心配しながらも、ジェスならきっと許してくれると、このどん底の生活から救い出してくれるかもしれないと甘いことを考えていたというのに。

「来ないで、来ないで!」

 何で来るななどと言っているのだろう。目の前の男はダリヤが愛したはずの男なのに。どうしてと叫びながら、走った。勿論走るなどとは程遠い緩慢な動作だった。一歩歩くだけで激痛が走り、足が濡れる感触からも下腹部から出血していることも気が付いた。

「あ、あ……い、いやだ」

 ジェスの血を、内戦の英雄の血を引くことを誇るようにと、何度もお腹に向かって囁きかけたのはついさっきだったのに。

 血が目に入って視界が遮られ、前も見えない。ただジェスから少しでも逃げ出すために、歩き続け、そして階段から滑り落ちた。それでも階段の踊り場で落下は止まったが、今度はダリヤを追ってきたジェスが最後までダリヤを蹴り落とした。

「これで諦めが付いただろう?」

 そう言ったジェスの表情をダリヤは見ることは叶わなかった。どんな表情をしていたのかも分からないまま、それがリヤとしてのダリヤにジェスが会ったのは最後になった。

 

 どれだけそうしていただろうか、誰も助けには来なかった。娼婦と客の喧嘩など日常茶飯事で、これだけの音がしても誰も見にすら来なかった。



―――――本当に優しい人なら、ダリヤ…あなたをこんな目に合わせたりしないわ。責任感のある人なら、こんな小さなダリヤをどうして放っておくの?



 母さん、今はもう言い返す言葉なんか見つからない。

 帰らないと、母さんのとこに。





第三章過去編終わりです。そして現在に戻ります・・・しかしダリヤの悲劇はまだまだマックスじゃありません。むしろこれからです。


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