「大佐!…お帰り」
半年前に別れたままの姿のジェスがいた。その目が彼の部下同様、驚きに見開かれているのにも気が付かず、ダリヤは何時ものようにジェスに抱きついた。
「良かった!…約束どおり戻ってきてくれたんだ」
そしてダリヤはジェスを見上げるが、何時までたってもジェスからは『ただいま』の一言も返ってこない。それどころか抱きついていた腕を剥がされ、払いのけられた。
「大佐?…どうしたの?」
どうして何も言ってくれないのか。ダリヤに会いにきてくれたはずなのに、何時ものように抱きしめ返してくれないのだろうか。
沈黙が辺りを支配していた。
「その腹はどうしたんだ?」
やっと出てきたジェスの声は震えていた。ジェスの視線の先はダリヤの大きくなった腹部だった。
「まだ結婚できないと言っておいたはずだろう!どうして勝手なことをするんだ!」
イラつきを隠そうともしないで吐き捨てるように、ジェスはダリヤを詰った。
「だって……大佐に言ったら、また前みたいにまた始末しろって言われるかも」
「当たり前だろう!ちゃんと説明しておいたはずだ。今は無理だと!…なのに私がいないことを良いことに、勝手なことを!…そんなに私と結婚したかったのか?子どもを盾にまでしてか!……卑しいな」
まるで汚いものでも見るような眼で、ジェスはダリヤを見下ろしていた。こんな目で見られたのは初めてで、どうして良いか分からなかった。昔みたいに優しい目で見て欲しい。だから、そんなつもりはないことを必死で弁明した。
「結婚なんかしなくても良い…ううん、それは無理だって分からないほど、もう子どもじゃないよ。俺みたいなのが大佐と結婚なんかできるはずないって、世間も認めたりしない……そんなことちゃんと分かってるから。この狭い部屋で誰にも知られないで会うことしかできないって、分かってる」
ジェスと結婚などできるはずもないことを、ダリヤは本当はもうずっと前から理解していた。お嫁さんにしてくれると言ったジェスの言葉を無邪気に信じていたあの頃とはもう違った。ジェスにもそんなつもりはないことも、薄々は察していた。
子どもを盾にするつもりなどなかった。紙切れ一枚でジェスを縛り付けて、こんな何もかもがジェスに相応しくない自分を妻にしたと、ジェスを世間の笑いものにするつもりなど無かった。
ただ今まで通りにジェスがいてくれれば、それで良かったのだ。
「そうか……ちゃんと分かっているんだな?私が、お前のような娼婦と結婚するつもりなど無いことを。思ったよりはその空っぽの頭に脳みそが入っていたようだな……だったら、その汚らしい子供も始末して来い!私の子どもかもどうか怪しいがな」
「娼婦…?」
どんなに貧しくても身体を売ったりはしていなかった。それは一番ジェスが知っているはずなのに、ジェスの子どもかどうかすら疑われているなんて。
「そうだ。金を貰って抱かれて、それが娼婦以外のなんだというんだ?」
会うときは何時もこの娼館だった。誰にも知られないような密会だったが、ダリヤはジェスと恋人同士だと思っていた。ジェスはダリヤ以外抱くことは無かったし、何度も好きだといってくれた。
「お金だって貰って…」
ないと言いかけて、ハッと口を噤んだ。何時もジェスが帰って行く時、ジェスはダリヤに数枚の札を握らせた。これで美味しいものでも食べなさいと渡されたものだった。それはダリヤのような子どもが貰うにしては大きすぎる金額だったが、貧しい生活と、母の薬代さえ払えない毎日の中で拒否することは出来なかったものだ。何時しかそれは、なくてはならないものになっていた。
ダリヤの中ではそのお金は、ずっと年上の恋人が食事さえ事欠くダリヤを不憫がって渡していくものだと思っていた。でも、それは違ったのだろうか。
ダリヤにとってジェスはかけがえのない最愛の人だった。でもジェスにとってダリヤはただの娼婦というものでしかなかったのだろうか。あのお金もダリヤが差し出すなんの価値もない身体に支払われた報酬のつもりだったのだろうか。愛の言葉もただのピロートークだったというのだろうか。
「だって…もう中絶できないよ」
悲しくなって、不安になって、ダリヤはそう呟く。縋るように見たジェスは、何時もの優しい顔はしていなかった。
病院に行くお金もなかったから、今何ヶ月かは不明だった。でも、逆算して考えてもダリヤの外見から見ても、とうに中絶できる時期ではないのは誰の目にも明らかだった。
「お金なら…要らないから。俺…頑張って働くから!大佐にお金をくれなんて言わないから…迷惑をかけないから。誰にもこの子の父親は大佐だって言わないから。母さんにも内緒にしたから…だから」
ジェスの冷たい視線を一身に受けながら、必死で言い訳を考えた。本当は、お金が欲しかった。ジェスとは結婚は無理でも、少しくらいは援助してもらえるかと、そう期待していた。でもこんな目で見られるくらいだったら、何も要らなかった。汚らわしいとまで言われて、それでも縋りつくような真似ができるほどダリヤは強くはなかった。
ただ嫌わないで欲しいと、そんな僅かな望みしかなかった。
「流石クライスの娘なだけはあるな」
ジェスはダリヤの言葉に何の感慨も受けなかったようだ。それどころか、ダリヤがひた隠しにしてきた事実を露呈したのだ。
「ど、う、して…それを?」
驚愕に上手く息がすえなかった。言葉すら、上手く紡げずにいた。
ジェスだけには知られたくなかったのに。自分がクライスの娘だという事実を、決して知られてはいけないと、故郷の場所も父親のことも、それだけはジェスに話さなかった。
ジェスにだけは、秘密にしておきたかった。自分が誰の娘か、自分の父親がどれほど罪に塗れた人間かということを。だから自分の名字すら彼に名乗ることはなかった。
「私が何も知らないでいたと思っていたのか?上手く騙せているとでも思っていたのだろう…だが私は知っている。お前がクライスの娘だということを、な」
「知ってた?……そんな、いつから」
頭がガンガンと痛んだ。耳鳴りすらしていて立っていられずに、床に座り込んだ。そう、何度も想像した事があった。もしジェスに父親のことが知られてしまったら、こんなふうに嫌悪に満ちた目で見られるかもしれないと。
「初めて会った時は偶然だった。だが二度に会った時は違う。あれは、必然だった。神を信じない私が、神を信じたほどだったよ。私に復讐のチャンスをくれたのだと、感謝した」
「…復讐…?」
「本当に愛されているとでも思っていたのか?お前のような殺人狂の娘など、誰が好き好んで相手にすると思っているんだ?」
ダリヤを好きだと言ってくれたその声で、ダリヤに対する呪詛の言葉を聞きたくは無かった。