「リヤ!もう帰るのかい?」

 リヤとはダリヤが名乗っている別名だった。ある事情で本名は名乗っていなかった。勿論姓を名乗れるはずもなかった。両性だから女の格好をしていてもおかしくないが、どちらかといえばダリヤは少年のように育ってきた。スカートなども故郷にいた時に履いたことはなかった。自分のことは俺と呼び、弟も兄さんと呼んでいた。パッと見はどちらかか分かりにくいだろうが、ダリヤの口調で男の子だろうと思われることが多かった。
 だからこそこの見知らぬ東の地では、女の格好をしている。自分の父親が誰か知られないように。

「うん…女将さん…母さんが待ってるから」

 もうとっくに上がる時間のはずだが、何時ものようにただ働きをさせられていたダリヤは、これ以上用事を押し付けられないように母親のことを出して暗に断った。母が病で倒れ、ダリヤが生活費を稼ぐためにここにきていることは、この女将もよく知っているからだ。

 それこそ休む暇もないほど一日中働いても、支払われるお金は雀の涙ほどだった。やっとダリヤと母親が食べていけるほどのお金にしかならない。それでもダリヤのような子どもを雇ってくれるのは、こんな如何わしい店くらいしかなかった。

「最後に上に水を持てってくれないかい?それで上がっていいから」

「でも…」

『上』は男たちが娼婦を買い、欲望を満たすための空間だ。以前あそこに行かされた時に、男に無理矢理部屋に連れ込まれそうになった恐怖をダリヤ思い出した。あの時はジェスが助けてくれたけれど、何時も逃げ切れるとは限らない。

「ユーディング大佐が酔っ払ってね…今上で寝ているんだよ。大佐は娼婦が近寄るのを嫌うからね。リヤが行ってくれると助かるんだけど」

「ユーディング大佐が?」

 思わず高くなる声を隠し切れず、帰り支度をしていたダリヤは女将に言われるがまま、2階に上がって行った。ずっと昔から憧れ続けた人にまた会える。そう思うと、胸がどきどきして水差しを持つ手が震えた。せめてあのときのお礼を上手く言えたら、そう思ってドアをノックする。

 返事はなかったが、ジェスは酔っていると言っていたので寝ているのかもしれないと、少しがっかりしながらジェスを起こさないように水だけ置いてこようと、足音を立てないようにそっと部屋に入った。

 ベッドだけが目立つ汚らしい部屋に、ジェスは横になっていた。思ったとおり眠っているのだろう。水差しをベッド脇の小さなテーブルに置くと、そのままダリヤは立ち去ろうとした。

 だが寝ていると思っていたジェスに急に手を引かれ、ベッドの中に、正確にはジェスの身体の下に引きずり込まれた。

「誰だ?」

 軍人だからだろう。ジェスは酔っていても俊敏な身のこなしで気が付くと両腕は片腕で頭上に縫いとめられ、もう片方の手はダリヤの首に置かれていた。

 驚愕の余り言葉を発することもできず、喘ぐように息を漏らすと、ふいに両手が外された。強い力で押さえつけられた両腕に、血流が戻ってくるのを感じた。

「ああ、あの時の女の子か」

 覚えていてくれたのだと、ずっと会ってお礼を言いたかったのだと、そうジェスに言いたかった。あの時からジェスのことを忘れたことはなかったのだと言おうとして、言葉は永遠に出ることはなかった。

「悪かったね…急に乱暴なことをして。戦争の弊害かな……寝ているところに近づかれると、反射的に敵だと判断してしまうんだ。近づくときは声を掛けてくれ」

 そう言って脇に置かれた水に手の伸ばし、一口、ジェスは口に含んだ。

「水を持ってきてくれたんだね……ありがとう。しかし、前のような目にあったらどうするんだ。いつも誰かが助けてくれるわけではないんだよ。気をつけなさい。できればこんな所にこないほうが良い」

 その言葉にジェスが覚えていてくれたのは、つい先日ここで助けてくれたことだとダリヤは悟った。娼婦でもないのに男に部屋に連れ込まれそうになったダリヤをジェスは助けてくれたのだ。彼はその時の事を言っていた。
 あんな昔の、それもほんの数分リゼンブールで助けてくれたことなど覚えているはずがないのに、覚えていてくれるのを期待した自分が恥ずかしかった。

「うん…でも、仕事ですし。あの!この前は…助けてくれてありがとうございます。あの時お礼を言おうと思ったんですけど…慌てていて、お礼も言えないままでした」

 今度は言葉を選び、選んで、何とかあの時のお礼を言い切ることが出来た。ペコリと頭を下げれば、相変わらず優しい笑みを浮かべていた。

「いや、構わないよ。私も軍人だからね…目の前に困っている子どもがいれば助けるのは当然だ」

「ううん!…ユーディング大佐は顔も知らなかっただろうけど…俺に絡んできた男も、軍人だよ。でも大佐とは全然違うよ!」

 皆が皆ジェスのように正義感を持っている軍人ばかりではない。それどころか権力を翳して不当な行為をしようとするのは圧倒的に軍人が多いのだ。これでもジェスが東方司令部に赴任してきてだいぶマシになったほうだという。

「そうか……そういった根性が腐りきった奴は一掃したいのだが、組織というものは厄介でね。末端に行けば行くほど監視が行き届かないことが多い……君のような子どもには言い訳にしか聞こえないだろうが、どんな組織にも馬鹿なやつはいるものだ。それを根絶しようと思っても、次から次へと沸いてくる…私の力量不足もあるがね。君のような防御する術が無い弱者にばかり被害が行ってしまう…すまないね」

 この東方の最高司令官の地位にある責任を感じているのだろうか、ジェスはそうダリヤに謝った。

「違うよ!そんなことないの俺知ってる!…大佐はこんなに偉い人なのに、ちっとも偉ぶってないし、本当だったら司令室で命令だけしていれば良いのに、事件があれば大佐自ら現場に行くし、皆大佐が来てから住みやすくなったって言ってるよ!本来だったら身内の恥は内密にしておくのに、大佐は何時も厳重に処罰してくれるって言ってるし」

 一息にそこまで言うと、ジェスは目を少し見開いてダリヤを見ていた。何か変なことを言ったかなと頭を傾げると、ジェスは声を上げて笑った。

「あ、あの?」

「いや…誰がそんなことを君みたいな子どもに話したんだい?普通は君くらいの年齢の子は、そんなことは知らないものだが」

「皆言ってるよ…お店のお姉さんたちも、大佐が来るといつも大佐の噂しているし」

 ジェスは凄くもてる。でも誰とも夜を一緒に過ごそうとはしなかった。それでもいつもジェスがここに来ると皆今日こそは自分を選んでくれないかとソワソワしているのだ。そしてジェスのことばかりを話していた。それに客は軍人も多いので、必然的に軍に関する話題も多い。軍の話題が多いということは、ジェスの話題も多いということになる。

「だから俺!」

 興奮しすぎてつい何時もの口調になってしまったことに気が付き、ハッとした。

「じゃなくて…私は」

 そう言い直した。普通、ダリヤのような少女は自分のことを俺とは言わない。何度も母に注意されてもどうしても直らない、口調。幼い頃は注意されなかったが、今は女の格好をしているのだ。そのダリヤが自分の事を何時ものように俺と言っているのはおかしく写るだろう。

「だから、私は……大佐のことをよく知っていたんです」

 そんなダリヤのもの慣れない口調にジェスは一瞬面を食らったような顔をすると、次の瞬間には微笑んでくれた。

「俺で構わないよ…無理に言葉を直そうとしなくても構わない」




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