「レンフォード大尉!ダリヤ・ハデスはどこですか?!」

 ジェスの面会から帰ってきたワグナーは、ダリヤに会わなければとそれだけを考えて急いでいた。

「彼女なら、中将の執務室にいるわ……ワグナー中尉、中将の様子はどうだったの?」

 青ざめたレンフォードの顔色からも、状況は芳しくないのがワグナーには分かった。レンフォードはジェスの部下の中で一番の高官であるし、副官でもあることからジェスの不在の場合は彼女がジェスの代理を務めることがしばしばあった。

 今回ジェスに会うことを制限されている中で、彼女は自分でできる最大限の情報や権力を使い、ジェスの無罪を証明しようとしているに違いない。それでもこの強張った表情なのだから、ジェスの立場はかなり不味いことになっているのだろう。

「すいません!急ぎますので!……あとで詳しく話しますから!」

 ジェスの許可も得ずに彼女に容易に話すこともできない。あの過去は余りにも凄惨で、ワグナーの一存だけでレンフォードに告げることはできなかった。それだけではなく、レンフォードが女性だからこそ、話し難いということもあった。

「いったい何があったの?」

 レンフォードの祖父はジェスと同じく将軍位にいる。その彼女が何もできないでいるのだ。もはや突破口はダリヤしかないと思った。ワグナーは自分が姦計に向いていないことは十分理解していた。こうした裏工作はジェスやレンフォードのほうが余程向いている。自分一人で動くよりも、きっとレンフォードに全てを話して任せたほうが上手く行くだろうことは容易に想像がついた。

「すいません…本当に今は何も話せないんです」

 それでも今ジェスが捕まったせいで心身ともに疲れきっている彼女を見て、これ以上深い闇の真実を話すことは躊躇われた。彼女がジェスのことを上官としてだけでなく、男としても愛していることをずっと一緒にいたワグナーは知っていた。いや、ワグナーだけではない。ジェスも他の部下も皆知っているだろう。だがジェスの冷え切ってしまっている心は誰も受け入れることは無い。それを誰よりもジェスを見て知っているレンフォードは見返りを求めることは決してなかった。きっと傍にいられるだけで幸せなのだろうとワグナーは勝手に考えていた。その彼女にこんな場面でジェスの過去を教えることはできなかった。

「じゃあ…どこに行くのかだけ教えて」

「ハデス少佐のところです…」

「ワグナー中尉…貴方は中将しか知らないことを知っているのね?」

「たぶん…そうだと思います」

 ジェスとワグナーは秘密を共有していた。いや、ジェスにはそんな認識はなかったかもしれない。だが少なくともワグナーはそう思っていた。ジェスの深い暗闇の部分を彼の唯一の親友でも知らない部分を、ワグナーとジェスは共有していたのだ。

「ハデス少佐が私に言ったわ…今の自分があるのは、誰よりも愛した人に裏切られたからだって。それに関係があるの?」

「……」

「私は……仮にも肉体関係まで結んだ中将に対して…いいえ、目的のためなら簡単に身体さえ投げ出して、中将を陥れて笑っているようなハデス少佐に怒りを……いいえ、同じ女として、軽蔑さえ感じたわ。何の感情も持っていない、卑劣な女だと思ったの……でもね、そう言った彼女には誰よりも深い悲しみを感じたの」

「すいません!今は…何も言えません!勘弁してください」

 言えるわけない。ジェスを信奉し、そして愛している女性に向かって言えるわけはないのだ。

 



「やあ…ワグナー中尉。そんなに急いで何のようだ?」

 執務室のドアを開けるとワグナーは思わず目を見張った。記憶の中で印象の薄い、今となっては殆ど思い出すことも出来ないような少女が、こんなふうに変ることができるなどとどうして思えるだろうか。

 自信に満ちた不敵な笑みを浮かべる少年を見て、ワグナーは痛々しくさえ感じられた。ここまでこの少年を変えてしまったのは、皆ジェスのせいなのだ。そしてワグナー自身は上司の振る舞いを知っていながら、見て見ぬ振りをしていた。その全てが今振り重なって、このダリヤ・ハデスという少年になっているのだ。

「なあ……もう、止めにしよう」

 そんなワグナーの言葉にダリヤは不思議そうな顔をしている。だがその目は笑っていた。

「あとで幾らだってユーディング中将に謝らせる。なあ、リヤ」

 その名前はジェスとの会話で口にしたことはあった。だが実際少女に呼びかけたことは無かった。気の毒な少女だと思いながらもジェスに逆らえず、ただリヤが堕ちていくのワグナーは見ているだけだった。お互い見知っていても、ただそれだけの関係だった。

「もう敬語は使わないんだな?…俺相手に使う必要がないってことか」

「リヤ!今はそんなことを言っている場合じゃあっ!」

「懐かしいな…その名前」

 ダリヤはジェスの席に着きながら書類を弄っていた。ワグナーが来てもその手を止めることは無かった。懐かしいとも思っていないだろう、なんの抑揚もない声だけをワグナーに向けていた。

「もうずっと昔に墓の下に葬り去られた名前だ……」

 ダリヤにとってはとっくの昔に捨てた名前なのだろう。忌まわしいだけのダリヤの過去。どこに行っても受け入れられることのない、不幸の源の名前。

「本当はダリヤって言うのは、俺の本名なんだ…戸籍を調べればすぐに分かる事実だ。リヤはただの愛称。ハデスもっていうのも、今の俺に相応しいと思わないか?もう生きてはいない俺にぴったりだろ?……確かに、ダリヤ・ハデスで調べても何も出てこなかったとは思うけど、ちょっと考えればすぐに俺が誰かって分かると思ったのに、思い込みって奴は激しいよな」

「何もかも別人だろ…名前も姿も、経歴も…外見も女から男に変えて。それで気がつけって言うほうが無理だ!だいたい、どうして」

 どうして戸籍すら変えることが可能だったのだろうか。あの少女ではそんなことをできるはずもなかった。権力や陰謀の世界からは程遠い場所にいた少女なのだから。ほんの少しの愛を健気に欲しがっていた、小さな小さな少女だった。

 今のダリヤと比べたら、歯牙にもかけられないような子どもだった。だがこのダリヤの怜悧な美貌に比べ、やせ細った身体だが何時も笑顔を絶やさないリヤのほうがワグナーには幸せそうに見えた。ダリヤが今の地位を手に入れることが、一体何と引き換えにしたのだろうか。

 疑っていたダリヤの背後にいる『軍の大物』もダリヤの正体が分かった今、それがダリヤを軍に引き寄せたものではないのは一目瞭然だ。彼はダリヤの正体すら分かっていなかったのだからだ。軍の大物とは、ジェスのことだから。

「俺は…ちょっとだけだけど色々とヒントをあげていたんだぜ?中将に……俺のように何も知らないままじゃ可哀想だと思って。でも、全然気がつかないんだもん、な。笑っちゃったよ」

「…それは余りにも変ったから。これで気が付けって言うほうが無理だ」

「あとで謝らせるだって?…あの男はこれぽっちも悪いなんて思っているものか…だいたい俺は謝罪なんか必要ない。そんなものは要らない」

「そんなことはない!…中将は……」

 あの娘に相応しい扱いをしただけ、そう言ったジェスの言葉を思い出した。ダリヤの言うとおりだ。ジェスはダリヤにした過去を少しも詫びれてはいない。傍観者でしか過ぎなかったワグナーですら、こうしてダリヤの目の前に立つと罪悪感の余り居た堪れない思いで、ダリヤの顔を直視することすら難しいというのにだ。

「ワグナー中尉…アンタ、中将の部下にしては腹芸ができなさすぎだよ。ちょっとはあの綺麗な大尉を見習ったほうが良い。嘘をついているのが丸分かりだよ」

「っ!……生憎俺は肉体労働派なんだ。頭は悪いし……こんな時に上手い言葉すら思い浮かばない。だからあの当時も中将を諌めることすらできなかった…何もできないまま、ただ見ていただけだった……どうしたら良いか分からなかった。今もどうしたら良いか分からない……ただ、頼むしかできないんだ。なぁ、どうすれば良い?どうすれば中将を許してやってくれるか?今は中将も頭に血が上って、冷静に考えられないかもしれないけど、きっと戻ってきたら自分がやったことを認めると思うんだ」

 実際ジェスが本心からダリヤに謝罪するとは思えない。ワグナーがリヤを見る目からジェス自身どれほど彼女を忌み嫌っていたか知っているからだ。
 だがジェスも馬鹿ではない。内心どう思っていたとしても、必要があれば頭を下げることができる。ここでダリヤを懐柔しない限りはジェスの未来への希望を突破する足ががりができない。このままではジェスに未来はないのだ。どんな屈辱的な行為でも、ジェスは必要とあれば自分のプライドよりも実をとる方を選ぶ男だ。

「なあ!リヤ…中将を許してやってくれ!あの人はこの国に必要な人なんだ!俺たちでできる償いなら何でもする!どんな願いでも叶えてやるから!」

「償いなんか必要ない!そんなことされたって、俺が失ったものの一つでも帰ってくるって思うのか?」

 氷のように何の感情も滲ませていないその声は、だがレンフォードが言ったように、何よりも大事なものを失ったものしか持ち得ない響きを持っていた。そう、彼らの上司と同じようにだ。

「俺のね、願いは…あいつの破滅だ。それ以外は要らない」

 ワグナーはその言葉を絶望的な思いで聞いた。


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