格調高い一流のレストラン。こんな場所は初めてでダリヤは幾分気後れがした。ダリヤほど軍での地位が高いものならば、当然のように出入りができるだろうが、あいにくこれまでそんな自由は持っていなかった。
この男のようにさも当たり前といったような顔で出入りをする身分では元々無かったし、しかもダリヤはテーブルマナーなど一切知らない。他の女性のように着飾ったりしているわけでもない。いつも着ている黒のジャケットに黒のズボン。余りにも場違いに見えるだろう。
「どうした?食べないのかい」
食事に手をつけようとしないダリヤに、ジェスは不思議そうに尋ねてくる。まさかフォークやナイフの使い方が分からないなどとはジェスは夢にも思わないのだろう。きっと何時も連れているような女性は、精錬されていてマナーも心得ているだろう。
「……どうやって食べたら良いか分かんない」
もう敬語も使う気にもならず、それだけを小さな声で言う。上官であるジェスが使わなくて良いと言ったのだから、もう使うものかと半ば意地になっていた。
「は?」
呆けたようなジェスの声に、ダリヤは睨み付けた。
「中将が何時も連れている女と違って、礼儀作法がなってないんだよ。俺は…育ちが悪いもので」
「それは…悪いことをした。私は、君は……英才教育でも受けて育ったのだと思っていたよ」
ダリヤのような20歳にも満たない少年が研究所の第一人者になるには、幼い頃から英才教育を受けて育ったと思うのも無理はないだろう。実際研究所にいる研究員たちはそういったものが大半だ。高い知能指数を持つものは、軍にとっては宝のような存在なのだ。惜しみのない教育を与える。その中には勿論、基本的な礼儀作法も入っているだろう。だからダリヤがテーブルマナーの作法ができないなどと考えたことも無いだろう。
おそらくジェスはダリヤの過去を調べたに違いない。たいしてめぼしい過去は出てこなかったとしてもだ。だからジェスはダリヤが研究施設の中で育ったため、データが不足していると思っているのかもしれない。
そう思わせておけば良いのに、ダリヤはわざわざ否定した。
「英才教育?とんでもない…俺は、小学校でさえろくに出ていないんだぜ」
その日に食べるものにも困るような暮らしで、学校なんか悠長に行ってられなかった。そう己の過去を暴露すると、ジェスは眉を顰めて黙っていた。
ダリヤも食事に手を付けないが、ジェスもナイフを置いてしまっていた。食べればと声をかけても、食べようとしない。
「顔も覚えていないような父親と、病弱な母親。借金塗れの生活。下層階級には良くある話だけど……中将みたいなお金持ちには、関係のない世界だよな」
「では…どうやって今の地位に?」
幾分痛ましげな表情をして、そんな話を聞けば当然持つであろう疑問をジェスはした。だからといって、ダリヤが答えてやる義理もない。元々こんな話をしたのは、ほんの少しのヒントを与えてやるためだった。何も知らないままではフェアではないだろうと思ったからだ。これで何の違和感も覚えないような男だったらただの馬鹿だ。
「君はとても不思議な子だね……それだけ稀有な才能を持っているというのに、無頓着な様子だし。媚びることをしない。それだけ君の過去を聞いても、君という存在が定まることがない」
「かもね」
だって本当はダリヤ・ハデスなど存在しないのだから。
「それにその名前…ダリヤ・ハデス。変った名字だ……本名なのだろう?」
「この名前?偽名だったらもっとらしいのをつけるよ…これは、ろくでなしの親父から貰ったものだ」
ジェスが変ったと言うのも当然だろう。ハデスとは死者が行く場所、という意味だ。一家の名としては相応しくない。
「昔は……他の名前で通していたけどな。苛められるからって」
それだけが理由ではなかったが。
「どんな?」
「もう…忘れた」
もう、そう名乗ることも無いからだ。その偽りの名では。
「…今日は俺のことをあれこれ聞くために来たんじゃないだろう?飯は中将が食べればいいから、俺は勝手に話させてもらう」
ダリヤはファイルを取り出すと、ぱらぱらと捲り該当ページをジェスに差し出した。
「このファイル。東方地方で起こったNO,8の事件……どうしても気になったんで、調べなおしてみた。被害者の女性は当時26歳。6年前だから、被害者の年齢的におかしい部分はないけれど…当時は20代女性ばかり殺されていたし」
そこまで言うとダリヤはチラリとジェスの顔を仰ぎ見た。硬い表情をしている。
「まず一番気になったのは、被害者は当時臨月だったこと。この点で今までの被害者の女性とは異なる…他にやつは妊婦を狙ったことはない。それに遺体の損傷ぶりも、かなり酷い。魔術反動で裂傷や破裂状態になっている被害者も多くいたけれど……この女性の致命傷になったのはナイフによる刺し傷だ。あとの遺体の損傷は、魔術で死後作った傷で、死因には関係していない。遺体の損傷は死後、魔術によって損壊されたものだ。一見やつの仕業に見えないこともないが、一つ一つ洗っていくと、模倣犯っていう可能性も浮上してくる。アイツは凶器を使用しない……使用するのは魔術だけだ」
ダリヤは一つ一つ相違点を上げていった。第一に妊婦は彼女だけという点。第二に凶器の使用。第三に魔術が使用されているが、死後の使用である点。そして最大の違い。魔術を使用する際に魔方陣が描かれていたのだ。
やつなら、魔術発動に魔方陣は必要としない。どんな優秀な魔術師とはいえ、それを必要とするというのにだ。
その三点からダリヤは模倣犯という可能性を導き出した。
「その点は調査済みだ。奴以外の犯人の可能性も視野に入れたが、浮上してくるものはいなかった。狂った男の考えることだ。一貫性がなくても仕方がないだろう」
「でも!」
「そう当時の捜査を担当した者が、奴の犯行だと認めたんだ。今ある以上の資料はない。だったら君の推理はただの憶測にしかすぎない。何の証拠もないだろう?…真実なら、奴を捕まえれば分かることだ」
ジェスの言うことは正論だった。だがダリヤが知りたいことをジェスは絶対に知っているはずなのに、語ろうとしていない。この事件だけはどうしても裏があるような気がしてならなかった。だがそれ以上追求してもジェスは絶対に口を割ろうとはしないだろう。
「最後に2つだけ聞きたいことがあるんだけど…良いか?」
「何だ?」
「この妊婦殺害事件を担当したのは中将じゃないの?」
「私が?いや、違う」
「だって東方地方で起きた事件だろ?何で中将が担当しなかったんだ?事件が起きた当初は中将が……当時は大佐だった中将が担当していたって記録にはあるのに、この妊婦殺害の事件の後、中将の担当から外されている。なのに、今担当になった。何年ぶりだろ?おかしいよ、何で当時は外されたの?」
「そんなことを気にしてどうする……事件には何の関わりも無いことだ。正直答えたいことでもないな。軍の内部事情は色々あるんだ。当時大佐だった私にはどうにもならないこともたくさんある」
ジェスももう皿に手を伸ばすことは止めて、しかめ面をしているだけだ。せっかくの料理も冷め切ってテーブルの上を飾っているのみだった。
「君も分かっているだろう?……研究者としてとはいえ、軍に籍を置く者だ。どんなに軍の内部が腐敗しきっているか……こちらは必死になって解決しようとしている事件も、たった一声が台無しにさせられてしまう。自分たちの利益のためだ」
「知ってる……あいつらが腐りきった存在だということくらい」
誰よりも身にしみてダリヤは知っていた。ここにいるのもそのせいだ。自分の利益しか考えない連中がこの国に巣食っているせいで、この国は金持ちにしか優しくない国だ。こうやってダリヤも特権階級の一員にならない限り、生きてはいけない。存在を許してはもらえないのだ。
「でもそれは中将だって一緒だろう?俺たちから見れば中将だって、軍の上層部の一員だ……自分の利益のために、踏み潰してきた存在だっているだろう?自分の欲望のためだけに、たくさんの人間を犠牲にして見捨ててきたはずだ。理不尽に踏みつけにした存在がいないわけがない」
一息にそれだけ言うと、ジェスは黙ったまま不快そうにダリヤを見つめた。きっとこんな面と向かって批難されたことなどないのかもしれない。ジェスは今や軍のトップの一角を担う存在だ。誰もがジェスに擦り寄り恩恵を賜ろうと近寄ってくるだろう。
最後にデザートとコーヒーがやってきた。これくらいはマナーを気きせず食べれると、砂糖をコーヒーに入れ、スプーンでかき回す。砂糖が溶けると、また一つ砂糖を落とした。そしてかき回していたスプーンでジェスを指し示すと、小首を傾げた。
「違う?俺の言ったこと間違っていたか?」
そう尋ねて自分はどんな返事が欲しかったのだろうかと思った。どんな返事が来ようとダリヤがしようとしていることには変わりはないはずだ。だがここでジェスが自分の犯した罪を認めれば、ダリヤは己の進む道をほんの少しは方向転換をしようとしたかもしれないと、後になって思った。
「私は君の言う腐った上層部の人間を一掃するために、大総統になるつもりだ……君の言うことも分からないわけではない。上にいるということは奇麗ごとだけでは済まされないからね。私も自分の身を守るためにそれなりのことをしてきたのは否定しない。だが他人に後ろ指を刺されるようなことをしてきたつもりは無い」
「本当にそう言い切れる?」
「……ああ」
一瞬置いた後、ジェスはそう言った。
「そう」
もうどうでも良かった。
「もう……俺帰るよ」
聞きたいことは聞いたし、もう用はなかった。何の収穫も無かったことが少しダリヤの気を重くさせていた。もっとも今日聞いたことは任務とは何の関係もない。事件解決に役に立つことでもなければ、デュースの示唆したことにもだ。
だがダリヤなりに自分の気持ちに整理をつけることには役立ったかもしれない。ジェスは最低の男だ。それだけは今さら思い直すまでもない事項だと再確認できたのだ。
「待たないか…まだ夜には早い。もう少し一緒にいないかい?事件の話ばかりで、味気なかっただろう…ほとんど君は食べていなかったしね」
事件の話をしていた厳しい表情を一転させて、甘い雰囲気でダリヤを誘う男がいた。一瞬耳を疑い目を見開くが、その優しい笑みを浮かべるジェスに何を考えているのかを悟った。
「それ…ひょっとして、俺のこと誘ってるのか?」
ジェスがこんなふうに言うのは分かりきっている。ダリヤを懐柔して、ジェスの陣営に取り込みたいのだろう。決してジェスがダリヤに惹かれた、そんな理由はあり得ない。ジェスは人を愛することをしない男だ。
そしてダリヤがジェスに靡くことなどもあり得ない。ユーシスがいる限り。いや、例えユーシスのことがなくても、ダリヤがジェスに味方をすることは無い。こんな最悪な男に陥落させられる女など、脳みそのない馬鹿な女のすることだ。
自分になびかない人間などジェスは存在しないと思っているのかもしれない。そう思うならそれで良い、逆に利用してやるまでだ。
「ストレートに聞く子だね……こういう時はもっと雰囲気を大事にするものだよ」
「悪いね……察しが悪いもので。今まで中将が相手にしてきたような恋愛ゲームをする趣味もないし…もっと直接的に言ってくれないと分かんないんだ」
「では……私もストレートに言うとしよう。私と一緒に夜を過ごさないかね?」
「俺…義足だよ。左足……それでもよければ構わない」
こんな身体でもジェスがその気になるというのなら、幾らだって投げ出して構わない。今さらこんな身体を惜しむ理由もない。そうジェスと同じように作り笑いで笑って言った。