「大総統…」
「こんな時も名前で呼んでくれもしないし……君は部下としては最高だが、恋人としては少し失格かもしれないな?」
抱きしめてくる腕をそのまま受け入れて、そっとジェスを見上げた。こうやって抱かれるのは嫌いではない。
「ユーディング大総統」
名前なんて呼べるはずはない。今までそれなりに長い間ジェスと一緒にいても、一度も呼んだことはなかった。呼べなかった。
「なんだい?」
見下ろしてくる瞳は優しい。優しすぎるほどに。
「もう……こういう関係止めにしないか?」
驚いたように目を見張ると思ったら、ほとんどその目に変化はなかった。ただダリヤが言葉を紡ぎだすのを黙ってみているだけだった。
「もともと、俺…こんな関係望んでいなかったし。大総統の部下でいられれば満足だったんだ……それが俺の夢だったし。こんな関係間違ってる。大総統にプラスになることなんか一つもないよ」
マイナスばかりだった。ジェスの邪魔になることしかないのだ。ダリヤとの関係は。
「もう私が好きではなくなったか?愛してはいないか?」
「そういうんじゃなくて…」
「そうだな…君は私を愛してはいなかった。だけど私が無理矢理引きずり込んだ。君の過去の愛情を盾にして。強く迫れば君が拒否しきれないのを知っていたのに。卑怯だな、私は」
「そうじゃ……ない。大総統が俺のことを大事にしようと…してくれていたのは、してくれていたのはちゃんと分かってるよ。でも、俺が駄目なんだ。俺は……」
自分自身がジェスのキャリアを駄目にしてしまうことが耐え切れない。自分自身がこの生活に耐えられない。
「ここから出て行きたいと言うことかい?」
頷くことで肯定を示した。
「こんな時に聞くとはね」
「ごめん」
つい先ほどまで抱き合っていたという熱も冷めない時に、突然のダリヤの別離の言葉だった。
「ユーシスはどうするつもりだ?」
「どうもしない……今までどおりに大総統が育ててくれれば。ずっとそのつもりだったし」
そのつもりで一度は手放したのだ。
「また見捨てるのか?あの子を」
「そんなんじゃない!……今までどおり、俺は大総統の部下だ。何時だって会えるし、ユーシスだってきっと分かってくれる」
また見捨てるという言葉が辛かった。自分のしていることが、勝手だって分かっていた。ユーシスには何一つ母親らしいこともできず、自分勝手に振舞っている。それにユーシスが心を痛めないはずがなかったのに。ユーシスは分かってくれるんじゃない。我慢してくれるのだ。聞き訳が良くて、我慢することに慣れている子だから。
「それで君はここを出て行って、どうしたいんだ?」
「別々に暮らしたい……ずっと前に借りたアパートがそのままになっているから、そこで暮らすつもりなんだ」
「もう決めているんだな。私がなんと言おうとも」
「うん……」
全部決めてきて、それでここに一旦戻ってきた。ジェスとユーシスに自分の決意を告げるために。
「私が不甲斐ないから、君が不安になるのだろう?」
「違う……俺が弱いから。大総統のようにはなれない」
「なんと思われようとも、私が愛しているのは君一人だ。それだけは覚えておきなさい」
何だか同じようなことをダリヤが昔言ったことがあるように思った。おかしな感覚だった。昔はあんなに好かれようとすても、想いが返ってくることは無かったのに、今はこんなにも簡単にジェスの愛が手に入る。嘘のように。
本当は聞きたい。その愛はどのくらいなのか。奥さんよりも愛してくれているのか。自分はその愛を返すこともできずに、逃げ出そうとしているのにだ。
「職場にはきちんと顔を出しなさい。落ち着いたら……話し合おう」
それにあやふやに頷いて、部屋を後にした。住み慣れたジェスとの二人だけの寝室。もう何年になっただろうか。
「ユーシス……」
眠っているわが子に見て、胸が痛んだ。もう一度捨てるのかというジェスの声。違う、そんなんじゃないとダリヤは心の中で反論した。
ジェスがあの時、あんなことをダリヤにしなくれば、ちゃんと産ませてくれていれば、いいや違う、無視でも良かった。ダリヤと子どものことは無いものとして、見捨てるのでも良かった。そうすれば、こんなことには。
駄目だ、こんなことを考えてはいけない。何時まで過ぎた過去のことを拘れば気がすむのだろうか。自分は。今のこの状況は皆自分がまいた種だろうに。自分がジェスへの復讐のためとユーシスの解放のために費やした四年間のツケが今回ってきたのだ。
「ダリヤ……?どうしたの?」
気配に敏い子だからだろうか。無言でいたのにも関わらず、ユーシスが目覚めた。
「ユーシス……起してごめんな」
「ううん。いいけど……でも、ダリヤまた泣きそうな顔をしている」
「ユーシス……ちょっとだけ俺はいなくなるけど。ここでお父さんといてくれるかな?」
「ダリヤどっかに行っちゃうの?僕のせい?僕がまたダリヤを傷つけるようなことを言ったの?」
以前兄弟が欲しいと言ったことを気にしているのだろう。
「ううん、違うんだ。お前は何も悪くないよ……悪いのは俺なんだ」
「でも、僕がいなければ……ダリヤはもっと別の人生を選べたんでしょう?ダリヤは一杯僕のために我慢したんだ。パパとだって、僕が一緒にいて欲しいって言ったからいるんでしょう?ダリヤは初めは僕たちと一緒に住む気はなかったみたいだし」
昔から幼いなりに聡明で、人の気持ちを汲み取る子だったが、ここまで人の本質を見抜く様に驚きを隠せなかった。
そう、ダリヤはジェスに流されたように一緒にいたが、一番の原因はユーシスだった。ユーシスが一緒にいて欲しいと言ったから、ダリヤ自身もユーシスの傍に居たかったから。だから今のような状況になると分かっていて、それでも離れられなかった。色んなことを理由にしても、ダリヤの一番はユーシスだった。
「違うよ…ユーシス。お前がいたから、お前が生きていてくれたから俺は、お母さんは生きてこれたんだ。お前のおかげだよ」
「でも…そばにはいてくれないんでしょ?」
本当にこの子は聡い。ダリヤが何も言わないうちから、何を言いたいのかを悟っていたのだ。
「ちょっとだけだよ。別々に暮らそうと思うんだ」
「どのくらい?」
「この前みたいにずっと居なくなったりはしないよ。何時でも会いに来るし、来ても良いよ……ごめんな……こんな母親で。もっと、きちんとしたお母さんが欲しかったよな?」
「ううん…ダリヤじゃなきゃ嫌だ。僕待っているから、ちゃんと帰ってきてよ」
「いい子でお父さんと待っててくれ」
ちゃんと戻ると言えない。戻れない可能性のほうが高い。
自分を、今から何を得るために、そして失うために、ここを去るのだろうか。そう縋りつくユーシスを抱きしめながら、唇をかみ締めた。
まるで、何かを失うためだけに生きているようだとさえ思った。