「今回のことはジェスさんが原因。それとも兄さん?」
「どっちかっていうと…俺。大総統も微塵も関係がないとは言わないけどな。たぶん、今大総統が進めているプロジェクトのことで、寄ってきたんだろうって思うけど」
あの男がダリヤを知ったのは研究所にいた頃のことだ。あの頃の自分では何の価値もなかっただろうが、それが今は大総統の愛人で、充分に利用価値があると踏んだのだろう。研究所にいる原因となったのはジェスなので、微塵も関係ないとは言えないが、直接的には関係ない。
「あ〜あ…何で俺って同じ事繰り返すんだろう……別に大総統とこういう関係にならなくても良かったのに。遠くでさあ……誰も知らないところでいても良かったんだし……それかただの部下だったら、そいつも俺に気が付かなかっただろうし」
流されるようにまた身を任せてしまったことを、昨日のことのように思い出した。それは決してダリヤの意思ではなかったはずだった。でも今もジェスの隣にいるのはダリヤの意思だ。
「もう!それが良いわけないじゃないかっ!じゃあ、ジェスさんが他の女の人と結婚してちびユーシスも取られても平気なの?…ずっと昔みたいに切り抜いた写真を眺めていたみたいに、部下としてそんな姿見ていて胸は痛まないの?……あんな思いをしてまで取り返したユーシスの傍にいられなくても平気なの?」
「平気じゃないかもしれないけど……でも、そのほうがたぶん一番よかったんだよ。ユーシスのためにも、俺のためにも、大総統のためにも」
こんなことが起こり得る可能性は容易に想像がついたし、それを懸念してダリヤを知る全ての人から姿を消そうと考えたことも何度もあった。どれだけ事実を隠そうとも、どんなことでそれが露見するか分からない。ジェスがどれだけ権力を握っていても、同じことだ。今回のように、ダリヤのことがアキレス腱になりかねない。
「ねえ、前から気になっていたんだけど、兄さんまだジェスさんのこと階級で呼んでるの?僕だってジェスさんって呼んでいるのに、兄さんが何時までも大総統って呼んでいるのおかしくない?」
「だって……俺は一応大総統の部下でもあるし。普段名前で呼んでると、公務の時とかで間違って呼んだら困るじゃないか」
ジェスにも名前で呼んでくれないかと言われたこともあったけれど、何度言われてもダリヤの呼び方は大総統のままだった。これは今に限ったことではなく、ずっとジェスを階級でしか呼んだことはなかった。
『少佐』『大佐』『中将』『大総統』階級が上がっていくたびにその呼び方は変わっても、彼をジェスを呼んだことはない。世間から見れば妙な家庭だろう。でも今さらそれを変えるつもりもなかったし、そんなふうにしかダリヤは生きられない。今さらこの生き方を変えるつもりはなかった。
「そういう他人行儀なのが、兄さんがジェスさんに打ち解けない一つの原因じゃないの?それで夫婦じゃないけど、夫婦って言えるわけ?役職でしか呼ばない、他人行儀、悩みも言えないなんて一緒にいる意味あるの?」
「大総統には……何も、言いたくない」
「言いたくなくたって言わないでどうするんだよ!僕に言いたくないんだったら、ジェスさんに言って何とかしてもらってよ!全く関係がないわけじゃないんでしょう?ううん、全く関係がなかったとしても、ジェスさんは兄さんを助ける義務があるはずだよ!あの人、命を懸けて兄さんを守るって僕にも約束したんだから」
ユーシスはあまりにも簡単そうにそう言うが、ダリヤにはそんな簡単に割り切れない。
「ねえ、いい加減僕に安心させてよ。兄さんがそうやって不幸だと、僕、安心して恋愛もできないよ。僕もう二十歳なのに、彼女の一人もいないでしょ?兄さんがフラフラしているから心配でしょうがないし、ちょっといいなって思う子は、こうやって頻繁に兄さんが帰ってくるから、兄さんのこと恋人だと思われて振られるし」
「あ、う…そうなのか?」
「そうなの…兄さんのこと兄さんだよとも言えないし。だったら恋人同士にしか見えないんだよ?こういう状況だと。こうやって食事作ってくれるのとかは嬉しいけど……喧嘩のたびに来られるのも困るんだよ」
「分かった……もう来ない」
ユーシスとダリヤは戸籍上兄弟ではない。ダリヤはユーシスと兄弟だった頃とは全くの別人になっていたし、ユーシスも養子に行っている。そういった関係上、二人は赤の他人だ。そう思われて当然だろう。
「もう!そんな顔しないでよ!僕は、兄さんを虐めたいんじゃなくて、幸せになって欲しいだけ。だから、来るなって言ってるんじゃなくて……ジェスさんとちゃんと話し合って、僕のところに逃げてこなくてもすむようにしてってことだよ。分かった?邪魔に思っているわけじゃないよ、ジェスさんやちびがいないんだったら、喜んで兄さんと暮すよ。でも兄さんにはジェスさんやちびユーシスがいるでしょう?……今回の事だってジェスさんに全く無関係のことじゃないでしょ?むしろジェスさんが大総統として推し進めているプロジェクトのせいなら、逆に兄さんのほうがジェスさんのせいで迷惑をこうむっているって考えないの?兄さんがジェスさんに厄介事を運んでるんじゃないんだよ。お前のせいなんだから何とかしろってくらい言っても良いと思うんだよ。そんなふうに兄さんだけが一人で抱え込むことじゃないよ」
素直に頷けずに、だんまりを決め込む自分にユーシスは呆れたような表情だった。ユーシスが心配してくれているのも、自分の幸せを願っていてくれているのもわざわざ言われなくても分かっていた。でもできることと、できないことがある。
素直にそうできるなら始めからユーシスのところへ逃げてこなかったし、一人でうじうじと考えたりもしなかった。
「ねえ、何がそんなに怖いのか、ちゃんとジェスさんに言って?そうじゃないと、また兄さん一人で抱え込むことになるんだよ」
一人で抱え込むのが好きなんだ。放っておいてくれと、居候の立場では言えず、同じように黙ってユーシスの言葉をやり過ごした。
ユーシスも強情な自分を扱いかねたのか、お互いムスッとしたまま口も聞かずに時間だけが過ぎていった。こんなところは離れて暮していてもやっぱり兄弟なんだと思える瞬間だった。
「ねえ、兄さん」
黙っていたユーシスが口を開いた。
「ん?」
「今幸せ?……ちゃんと幸せになってる?ジェスさんといてそう感じれている?」
その問いにダリヤは曖昧に微笑んだ。どちらとも取れるような笑みだ。でもユーシスだって分かっていて聞いているのだろう。何時まで経っても不幸そうな自分を見ていられないって、さっき言ったばかりなのだから。
不幸ではないはずなのだけど。最近良く分からない。元々何が幸せかすら分かっていなかったのかもしれない。少なくともこの弟にとっては、自分は幸せには見えないのだろう。
「そろそろ寝ようか」
曖昧に話を切り上げて、終わりにしようとしたがユーシスは首を振った。
「そろそろ来ると思うから。あ、来た」
「ユーシス?」
ユーシスの言ったとおりに、足音が近づいてきて見慣れた顔をのぞかせた。
「さあ…帰ろう?」
ダリヤが家出したことを怒りもせず、何時ものことだというように仕方がないとと言った表情のままジェスはダリヤに手を差し伸べた。帰ろうともう一度言う。
「ユ、ユーシス!……お、お前!裏切ったな」
「さっさと帰りなよ、兄さん」
「でも」
「僕は何も言っていないけど、ちゃんとジェスさんに言いなよ」
ジェスはダリヤの手を取って、歩き出した。ダリヤからはその手を取らなかった。ダリヤからジェスの手を掴んだことは一度も無かった。いつもジェスにその手を委ねているだけだった。何年だっても自分からジェスの手を取る勇気は持てないままだった。
誰かに見られたらと必死になって手を離そうとダリヤはしたが、ジェスは決してその手を離そうとはしなかった。夜で暗いとはいえ、誰に見られるか分かったものではない。なのにジェスは誰に見られたって構わない。この国の民衆全てに私が愛しているのは君だけだと宣言しても良いとさえも言った。
そんなことができるはずはないのに、ジェスは全部簡単に出来るかのように言う。そんなところがダリヤの苛立ちの一つであり、どうしても分かり合えないところだった。
言ってしまいたい。どんな気持ちで自分がジェスの傍にいるのか。どんなに自分を押さえ込んで、どれほど自分を押し殺して一緒にいるのか。それを分かってくれているのか、ジェスに問いただしたいのに、そうできない自分がいた。
これでは昔の頃にジェスに嫌われたくないと、何でも言うことを聞いていた頃の二の舞ではないだろうか。