冷たい口付け 中編
「ダリヤ」

 ぐったりと横たわっていたダリヤの髪をジェスは優しく梳くと、その名前しか知らないかのようにダリヤとしか呼ばなかった。昔は寡黙だったのに、とふと思った。
 こんな上等のシーツじゃなくて、こんな大きなベッドじゃなくて、ガサガサの売春宿のシーツの上でダリヤは終わった後、いつもジェスの機嫌を気にしていた。行為が終わると、ジェスはすぐにシャワーを浴びに行ってしまい、一緒にいてくれたことなどなかったのに。
 寡黙でダリヤが声をかけれないような雰囲気さえあったこともよくあった。触れ合うことを嫌って、終わったらすぐに帰らなくてはいけないような、そんな暗黙の了解さえあったような気がしたのだった。

 なのに今ダリヤの機嫌を取っているのはジェスだった。嫌なことをさせて悪かったねとでもいうようにダリヤを抱き寄せて、子どものように頭を撫で続けた。ダリヤはジェスの胸に顔を伏せたまま、ジェスのなすがままにさせていた。

 そしてこんなふうにされたかったのだと、思った。昔、恋人とは名ばかりだった身体だけの関係ではなく、こうやって優しく抱き寄せて欲しかったのだと。
 そんな幼い恋だったのだと、ジェスも分かっているからだろう。昔できなかったことを、ダリヤにしようとしてくれている。
 少なくとも、努力しようとしてくれているのは気がついた。ただジェスも大人だからただこんなふうに抱きしめて終わりと言うわけにはいかないのだろう。
 ダリヤも抱かれると言う行為自体が嫌だったわけではない。そこには嫌悪感があったわけでもない。ただ心の準備や、過去に起こったこと。同じことを繰り返そうとしている愚かさを感じて、昔と同じようにただ純粋にジェスを愛することはできないのだ。

「一緒にいてくれ……離れていたくないんだ。だからこうした……私は昔も現在も変わらない自分勝手で、酷い男だ。だが、今度こそ誰よりも大切にする。そう約束するから。この先現れるかもしれない他のどんな男よりも」

 髪を撫でていた手をジェスは止めると、腕を伸ばし何かを取った。そしてダリヤの左指にはめた。

「約束していた時よりもだいぶ遅れてしまったが……結婚してくれ。そして、ユーシスと一緒にここで暮らそう」

 指輪だった。シンプルな決して豪華ではない。

「できるわけないだろう!俺が一年前まで何処にいたか知っているだろう!刑務所だっ!……そんな俺と大総統が結婚なんてできるはずないのに!」

 以前別れた時と同じことを繰り返すジェスに、怒りさえ覚えた。はめられた指輪は取って投げつけてやりたいほどの衝動を覚えたほどだ。ダリヤがどうしてあれほど愛したユーシスと一緒にいられないか、自分が一緒にいることでどれほどの弊害があるか。それを考えて一緒にはいられないと思ったか。それも全部ジェスの立場を考えてのことなのに。

「できるさ!周りくらい簡単に黙らせて見せる!何も偽らなくても、ダリヤ・ハデスのままで良いんだ。私はこの国の最高権力者だ……それくらいできないとでも思っているのか?」

 できないとはダリヤも思っていなかった。この国の最高権力者にはそれだけの権力が付随している。だからといって、100%ではないだろう。どんなことでダリヤの過去がばれるか分からないのだ。

「社交界にだって出なくて良い、必要ない……ここで静かにユーシスと私と暮らせば良いんだ。外は警備の人間がいるが、公邸内に一歩足を踏み入れれば、私たちだけだ。君は、大総統夫人ではなく、私の妻になるだけだ」

 それはジェスの口から語られるととても簡単なものに思えた。大総統夫人などとお披露目もせず、ただ普通の家庭と変わりなく、ただダリヤとしてここにいれば良いのだと。誰にも知られないようにこの白亜の要塞の中で。だがダリヤは首を振った。

「ユーシスに知られたくない」

「何を?」

 分かっているだろうに、言いたいことを全て言えとばかりにジェスは問いかけてきた。

「あの子に知られるのが怖いっ!俺の犯した罪を……やってきたことをっ!……自分がどんなふうに生まれてきたかを」

 やっと掴んだユーシスの幸せをダリヤが壊すことなどできない。ジェスは余りユーシスは昔のことを覚えていないと言った。ジェスに救出された後、ユーシスはあの忌まわしい研究所での暮らしのことを段々と忘れていったようだった。まだ三歳だったのだから当然かもしれないが、それを知った時ダリヤは心底安堵したのだった。
 そして何も持っていなかったユーシスが、大総統の息子として誰よりも大事にされていることにも。それでユーシスの未来は万全のものになったはずだった。それでダリヤは満足していたのだ。研究所で実験材料でしかなかった頃と思えば雲泥の差だからだ。だから絶対にあの頃のことをユーシスには思い出して欲しくなかった。自分がいれば余計なことを思い出すかもしれない。

「知られなければ良い」

「知る時が来るかもしれないって言ってるんだ!俺の…せいで」

「隠し通せばいい」

「でもっ!」

 ユーシスは聡い子だった。ダリヤが自分が母親とも伝えていなかったというのに、あんなに小さかったユーシスはダリヤが母親だと、ジェスが自分の父親だと分かってしまっていたのだ。ユーシスの出生を知るものはわずかな人数しかいない。それでも、どこからか秘密が露呈したらと思うダリヤにあるのは、恐怖だった。

「隠し通すんだ。いくらあの子だって、自分が禁断魔術の結果蘇ったなどと思いつくはずがない。あの子が知っていることは余りにも少なすぎる……君の過去を知っていた私でも、思いつかなかったことだ。どうやってユーシスが知ることが出来るんだ?ほとんど覚えてもいないのに。誰も話さないし、私たちが黙っていればそれで終わりだ。君が心配するようなことは起こらない」

「いずれ真実を知りたいと思う日が来るかもしれない……俺なんかが母親なんておかしいだろう?普通14歳で子どもなんか産まないよな……どうしてって思う日がきっと来るんだ…どうしてって聞かれても俺は答えられない。それを知っても、ユーシスは幸せにはなれない。知ったら俺を恨んで、自分の存在すらを憎むかもしれない。俺が過去クライスを憎んで……そして自分自身を疎んじたように」

「だから……隠し通すんだ。私も自分の犯した罪をあの子に言わないのは卑怯だと思っている。だが、知らせることはただの自己満足に過ぎない。あの子が傷つくだけだ。だから私は決して話すつもりはない。だから君も同じようにするんだ。それが苦しいのなら…ユーシスのためだと思い込むんだ」

 ダリヤは情事の後で潤んだ目のままジェスを見上げた。こんな混乱した状態のままでは正常な思考はできそうもなかった。ジェスの言うとおりにしたほうが良いのか、ジェスの言うことが正しいのか。こんな時にジェスはダリヤを説得しようとするなんて卑怯だと思った。こんなふうにダリヤにジェスが触れてきたら、正しい考えなどできるはずもないのに。知っていたけれど、ずるい男だ。

「明日……明日になったら…ちゃんと、考えるから。今日は寝かせてくれ」

 だからダリヤは答えを出さないまま、眠りについた。身体は疲れていたけれど中々眠りにはつけなかった。だがもうこれ以上ジェスと話す気力はなかった。

 ジェスはダリヤが眠るまでずっと起きていた。眠った振りをしていることを気がついていたからだろうか、ダリヤがいなかった間のユーシスのことを寝物語の代わりに話してくれた。

 それを目を瞑ったまま聞きながら、涙が溢れそうになった。




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