*年齢操作


 陽炎のなかをあの人が歩いてくる。
 絵の具を塗りたくった空とわきあがる入道雲を背景に、右手でペットボトルを、左手に背広と花束をさげて坂道を登りながら、ふと眼をあげて、あの人は私に気づき一瞬だけ足を止める。
「久しぶりだね」
 私は墓前で手をあわせていた。その背後に近づいて、彼はゆっくりとそういった。
「五年ぶりくらいかな。大きくなって。最初、だれだかわからなかったよ」
 私は目を開き、手のひらを膝に置いた。制服のスカートはすこしだけずり落ちて、円い膝頭があらわになっていた。湿った熱を孕んだ風が体をひと撫でした。香炉のなかを線香の煙がさまよっては外へ漏れていく。
「降谷さんは変りませんね」
「そうかい」
 意外そうな声をあげて彼は頬をさすった。これでも老けたつもりなんだけどな、という横顔が、四十を超えた男のものだとはにわかに信じがたい。
 四十の男といえば。父が時おり連れてくる会社の同僚や、学校の先生の外には知らず、そういう人たちはきまって熟んだ果実の眼をしていた。彼らは一揃いに私へ幼さと老成を望み、だんだん、近ごろの私は鏡の向うで似たような濁った眼つきをしていることに気づいたのだった。
「きれいな花。わざわざ買ってきてくれたんですね」
 私は立ちあがり、目を伏せて場所を譲った。
「すこしお節介だったかな」
 と、彼がいうのは、すでに花立へ生けられていたからだろう。
 首を振って受けとると、菊の青々としたにおいが鼻先に満ちた。
 水をかけ、線香を供え、手を合わせる後ろ姿はしばらく動かない。カッターシャツの下からうかがえる背中はたくましく、筋肉の張りがあった。おそらく無駄な肉のひとかけらもないのだろう。そうであるから、かつて母の部下だったというこの人が、聞いていた話とちがって事務職などという可愛らしい職種とはかけ離れたことをしているとはなんとなく気がついていた。捲った袖から覗く腕はもとより浅黒く、辿っていく視線の先で、色素のうすい髪はよく映えた。絹糸じみた髪は陽射しを弾いて、みつめる私の眼を刺し、私は黙ったまま眼を細めた。背骨を汗がすべり落ちていった。
 入口のそばにそびえる老木から、蝉の声が聞こえる。
「さて」
 彼は振りかえっていった。
「送っていくよ。喉が渇いたろう、どこか寄り道でもするかい」
「なら、降谷さんの家がいい」
 言下に答えれば彼は戸惑ったように足元でかすかな砂利の音を響かせた。
「恋人に怒られちゃうかな。私ももう十八ですから」
「まさか。二六時中仕事ばかりだよ」
 彼はやんわりとほほえんでズボンのポケットに手を入れた。鍵を探っているのか、金属の擦れあう音が聞こえる。
「麦茶くらいしか出せないけど本当にいいのかい。コンビニへ寄ってもいいけど」
「いいえ。いいんです」
 私のぶんの荷物も軽々と持ちあげて、彼はきびすを返した。陽はまだ高い。私たちは無言で坂道をおりて、すると途切れたところに停まっている車をみつけた。彼がキーをさしだし、ボタンを押した。暗黙のうちに私は助手席へ乗りこんでシートベルトを締める。ドアを開けた瞬間のむっとした熱気を追いだすよう、エンジンがかかったとたん窓を全開にした。車は走りだした。

「卒業後の進路はもう決まったのか」
 車が国道に入ったころ、とうとつに彼はいった。私は窓枠に頬杖をつきながら髪をなびかせて、
「いいえ」
「もう夏だろう。いまが過ぎればあわただしくなるぞ」
「父みたいなこという」
 と、相手を舐めるようににらむ。おもむろに体を起こし、窓を閉めた。吹出し口から吐きだされる冷たい風が頬にあたった。
「降谷さんが父はいやです。屈強な大男じゃなきゃ」
「手厳しいな」
 彼はゆっくりとハンドルをきって、車は右へ曲がった。
 とはいえ、残念ながら実父は屈強とはほど遠く、白樺を髣髴とさせる見目をしていた。加えて度の強い眼鏡をかけている。母のような溌溂とした女性がなぜ父を選んだのか、一向に気が知れないが、たとえ運命が変わろうといま隣りに座るこの人だけは配偶者たりえなかったろうとおもう。
 幼いながら見憶えている母の姿は気高く、火焔のような烈しさを持っていた。母は強い人だった。仕事に関してなにか話された記憶はなく、それは父に対しても同等らしかった。そんな女性が夫になにを求めていたのか。心の拠りどころだったのだろうか。とにかく、家族という一個体に母が果てしない愛の形を見ていたことはたしかなのだ。
「……ねぇ、ちょっとだけいじわるいってもいい」
「なんだい」
「私のこと、母だとおもったでしょ」
 彼は前をみつめたまま苦笑をこぼした。
「恥ずかしながら。あの人が立っているのかとおもった。うっかり化けて出てきたのかと。けれどいささか若すぎたから」
「よくいわれるんです、似てるって」
「けれど君のほうが思慮深い顔立ちをしているよ。彼女はすこし邁進すぎるところがあったし……なにより荒っぽかった」
「そう」
「よく笑うんだけど、声が空高く響いてね。ああ、よく上司に叱られてたな。おきゃんだったんだよ。夏みたいな人だった」
「それは……じゃあ、父譲りかも」
「ああ」
 彼の横顔は懐旧の情に染まっていた。とても柔らかな表情だった。私が剥きだしの腕をさすると、すかさず腕がのびてきて冷房の温度をあげる。こういうところがいやだとおもった。スマートすぎるのだ。
「髪を伸ばしているんだな」
 とうとつに、彼が。
「なぁに」
「前に会ったときはもっと短かったろう」
「このくらいだった」
 と、語尾をあげ、髪を一束つまんで顎のあたりまで丸めてみせる。
「中学の入学祝いにって、降谷さんが髪飾りをくれたんじゃない」
「そうだったかな」
「ひどい。兎のヘアゴム、いまでも家でつけてるのに」
「それは似合うだろうなぁ」
「ふん」
 彼が高らかに笑う。私は座席に深くもたれて、首に喰いこむシートベルトをうっとうしく引っぱった。
「中学生で兎なんて、本当は幼すぎたんだから」
「そうかい?」
「いつまでも子ども扱いして」
「君にとっては僕だっておじさんじゃないか」
 私はいらいらとスイッチに指をかけ窓を開けた。まったく癖のように窓枠へ肘をつき、その指先で口元を覆う。塊になって風が襲いかかってくる。埃とガスのにおいだった。
「降谷さんがくれたんじゃなかったらとっくに棄てています」
 彼は唇にほほえみを乗せたまま。
「降谷さんだからよ」
 町中は車が飛び交い騒然としていた。彼は慣れた顔つきでハンドルを握っている。制服や髪に染みついた線香の香りがふと漂った。太陽は白く、額をじりじりと刺してくる。ほの白く輝く額を透かして脳味噌までを露わにしそうな厳しさが、陽射しにはあった。私は黙って目を閉じた。建ちならぶのは灰色のビルばかりだというのに、どこからか蝉の声は聞こえてくるのだった。
「あの人の、癖が……」
 と、彼がいった。
「癖だったんだろうな。よく頭を撫でられた。手つきは乱雑で不器用だった。……可愛がられていたんだと思うよ。部下として。僕はそれがいやだった」
 スムーズに車を走らせながら、それでも太陽が眩しそうにじっと遠くをにらみつけている。
「……ええ」
「君のことは大事にしたいんだ」
「…………」
「とても」
 車はいつしか地下駐車場に入って、やがて停まった。エンジンの轟が途絶える。私たちのどちらとも動こうとはしない。地下は生温かい空気が充満していて、ひどく埃っぽかった。
「降谷さんに、ずっと聞きたかったことがあるんです。私」
「なんだい」
「……母の年齢を越したとき、あなたはどう思いましたか」
 私は初めてそうするように、彼のことをみつめてつぶやいた。
「なにかを感じましたか」
 彼はそのうつくしい瞳をかすかに、たしかに震わせて、眼を閉じた。ハンドルにかかる両腕がだらりとぶら下がっている、まるで人工物のようだとおもった。ゴムかなにかでできた玩具。
「なにも」
 と、彼は答えた。
「……怖くなかった?」
 と、私は小声で聞いた。それから眼でも訴える。母から解放されるとおもう自分が、なにか大きく不気味な獸のようで、怖くはなかった? けれど伝わらなかった。
「同じ日々がただ過ぎていくだけだったよ」
 そういって、彼はおもむろに私の頬へ手のひらを当てがった。皮膚は乾いて、若さを失いつつあるのだ、とおもった。彼の下瞼にさざなみが寄る。私の頬を撫でる手つきはやはり幼子へ対するそれの外になんの邪心もなく、ひたすら慈愛に満ちている。

utsusemi



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