※現パロ 久々知くんとわたしの名前が黒板の端に並んでいる。
7月24日 (土) 日直 久々知兵助 みょうじなまえ
四月のはじめに席替えをして、友人に散々羨ましい、羨ましいと言われた久々知くんの隣。羨ましいなんて言ったって、ほとんど話すことなんてなにもなかったけれど。
わたしはうるさい人の隣でなくて良かった、程度の感想しかなかった。
一学期最後の学校は浮き足立ってる。夏休みの予定とか、夏期講習の日取りとか、なんとなくわくわくする単語が飛び交う、強いエネルギーが充満した教室。
窓際の前から三列目、わたしの隣の席では、しゃんと背を伸ばした久々知くんが、夏にもかかわらず白い肌色をした二の腕を露出させて本を読んでいる。
久々知くん越しに空を眺めていると、夏がきたんだなぁと実感する。
青の水彩絵の具を水で思いっきり薄めたみたいな空。雲はきりりと白くて、遠くの山々を際立たせている。
わたしは高いところで結った髪に手櫛を通してあくびをした。クーラーのきいている教室から見るグラウンドが、別の世界に見えてしかたない。
通知表を抱えた木下先生がやって来て、教室のエネルギーはしゅるしゅるとしぼんでいった。白い厚紙の束を見て、期待する人、うなだれる人。
わたしはきっといつもと変わらない。
尾浜くんがやたらと元気に号令を言うと、みんな同じように頭を下げて席に着く。
ポニーテールの毛先が汗でべとべとになった首もとにはりついて、少し嫌な気分になった。
高校三年間で一番だれる高二の夏こそが踏ん張りどころだからな!と木下先生が締めたところで夏休みを告げるチャイムが鳴った。
我先にと外の世界へ急ぐ男子。きらきらと弾ける笑顔で顔を付き合わせる女子。
わたしは日誌をからっぽの机から引っ張り出して、堅い表紙を開いた。
久々知くんは、木下先生の豪快な文字を消すべく黒板に腕をいっぱいに伸ばしている。
「なまえ、私バイトだから先帰るね!」
「はいよー良い夏休みを!」
「なまえも!」
あくびをひとつ。
部活のある生徒以外は、教室からいなくなった。
「みょうじさん」
「なに?」
外で黒板消しをはたいていた久々知くんは、少しむせながら戸の施錠をしてわたしの方を向いた。
大きなまあるい目がわたしをじっと見ている。
なんだか恥ずかしくなって日誌に視線を戻す。
「日誌、書けた?」
「まだ。先生の名前って」
鉄丸だよね?と言おうと顔を上げると、目の前いっぱいに久々知くんのシャツが飛び込んできた。
柔軟剤のかおり。久々知くんのにおいと混ざって、ほのかに空気感染する。
「合ってるよ」
そのまま隣に、久々知くんは自分の席に座って、日誌を覗きこんだ。
「みょうじさんさ、書くのすごく遅いよね」
「えっ、ごめん」
「いやいやそうじゃなくて……授業中、黒板、先生が消しちゃうと俺のノートちらちら見てたからさ」
「ばれてた?」
「ばれてた」
久々知くんのノート見やすいんだもんというと、久々知くんは静かに笑った。人を嫌な気分にさせない、爽やかな笑い方。ははは、と笑う久々知くんの背中はしゃんとしている。
わたしはなんだかいたたまれなくなって、日誌をにらんだ。不出来でトロくさい自分が恥ずかしくなる。
「日誌、俺書くよ?」
先に帰ってくれて構わないのに。
こんな気づかいもできてイケメンで優等生なのに恋人の噂を聞かないのが不思議だ。4組の西田さんなんて、お似合いだと思うけど。
わたし、すごい下世話なこと考えてる。
「じゃあさ、わたし、今日の授業内容書くから、久々知くん連絡事項書いてもらってもいい?」
「わかった」
古いクーラーのうなる音と蝉の声。
ボールペンの走る音とわたしと久々知くんの呼吸。
「久々知くんさあ、授業中だけ黒縁の眼鏡かけるじゃん、あれ、似合ってるよね」
「ほんと?はじめて言われた」
「わたしあんまり眼鏡萌えとか分かんないけどさ」
「でも、眼鏡ってネクラに見えない?コンタクトするほどじゃないからさ、困ってるんだ」
ネクラ?ネクラって、久々知くんが?
こんな王子様みたいなイケメンがネクラなんて。
「ネクラには見えないよ。久々知くんかっこいいから、いいんだよ」
「ええ、なんか、照れるな」
授業内容の欄を埋めて、久々知くんにバトンタッチ。
透明な瞳がわたしの字を追うのを、じっと見つめる。
「久々知くんと尾浜くん、女子人気すごいよ」
久々知くんは視線だけ上げて目を少し見開いた。イケメンの貴重な上目使い。
「勘ちゃんは分かるけど、俺はなあ」
「かっこいいし、なんか真面目で、勉強できて、いいじゃん」
「そう?」
「高嶺の花?」
「あはは、みょうじさんこそ、もてるんじゃないの?」
「わたしい?全然ですよ」
みるみるうちに連絡事項欄がきれいな均等な字で埋まっていく。難しい漢字もすらすらと書けてすごい。
騒がしい、って、わたしならすぐに出てこないのに。
「いいじゃん、みょうじさん」
「お世辞はいいわよ」
話している内に、日誌の連絡事項欄はきれいに埋まった。
わたし職員室行ってくるね、と日誌を受け取ろうとしたら、久々知くんに取られてしまった。いたずらっ子みたいな顔をしている。
「あのさ、このあと暇なら水族館行かない?」
「水族館?」
久々知くんは鞄からチケットを取り出してひらひらさせた。
「割り引きチケット、今日までなんだ」
「いいけど、わたしでいいの?」
「全然構わないよ」
一学期中隣の席ではあったけど、他にはなにも接点のなかった久々知くんがなぜ?
尾浜くんを誘えばいいのに、と言ったら、笑って却下されてしまった。
「男二人で水族館は寂しすぎるでしょ、仲良い女友達もいないし。勿論なにか予定があったらいいんだけどさ」
「じゃあ行こうかな、水族館。……暇だし」
久々知くんは、決まりだなとやわらかく笑って歩きだした。
職員室の木下先生のところに行き、日誌を渡す。こんなに暑いのに出前のラーメンをすすっていた。
汗だくになりながら甲子園を見ている木下先生にさようならをして、昇降口へ向かう。
わたしの斜め前を歩く久々知くん。丁度頭のまん中につむじがあって、それは久々知くんの人となりを表しているようだった。
「暑いな」
「これからもっと暑くなるよ」
駅までの道中、横断歩道の向こう岸がゆらめいている。なにがそんなに悲しいのかと訊きたくなるくらいうるさい蝉の声もしている。
夏休みの第一歩、久々知くんがわたしの方に振り返って目を細めた。
青のまどか