海開きもまだしていない、人気のない沖縄の海。人がいなくても、変わらずに潮の匂いは私の元へと届いてくる。風が私に届けてくれる。太陽の光を反射する水面に、そっと足先を潜らせる。すると、まだ冷たいそれが私の足を包みこんだ。
 「なー冷たいさー。」
 「わかってるさー。」
 突然、海に行こうと誘った幼馴染みの凛の心情はわからない。彼は、何かあるとここによく来たがる。部活のことで悩んだりだとか、進路のことで親と喧嘩しただとか、自分がどうしていいかわからなくなったときに、よく私を連れてここに来る。でも、今日はまだここに来た訳を聞いてない。
 ぶくぶく、ぶくぶくぶく。水泡が弾けて消えていく音が、ここに来てからずっと私の耳元で鳴り続けている。五月蝿いなあ。それはいくら頭を振っても消えない。ふと、海に視線が行く。太陽の反射するキラキラとした光が、目の端でチカチカする。眩しい。遠くまで光の道は続いている。綺麗だ。だけど、この光は私には眩しすぎる。
 海に入りたての足から感じる、この水のひんやりとした感覚が私は好きだ。水中にくるぶしが入ったところで、片足を軸にまだ浜にいる凛を振り返る。まだ、ぶくぶくと音は止まない。
 「凛!」
 私が彼の名前を呼んでも、気付いた素振りを見せない。聞こえていないのだろうか。そこまで距離はない筈なのに。私を見ている筈の瞳は、どこか遠くを見つめていて。それは私越しに何かを見つめているようだった。
 両手に片ほうずつ持っていた靴を浜に投げ捨て、私はまた足を水中へと進める。くるぶしは水の中へ隠れた。ぶくぶくぶく。先ほどよりも音が細かくなった。
 押しては引く波が私に当たって、弾けて、消える。それを繰り返す波は、疲れを知らない。いつもと変わらずにこの動きを繰り返すだけ。この波は、一体誰が起こしているのだろうか。なんて、私にはわからないことだけど。
 足を進め続けると、波が膝に届いた。弾けて宙に舞った水しぶきは、膝上のスカートに濃い色を残す。替えの制服は持っていなかったなあ。ぼんやりとした頭で考える。まだ音は止まない。まるで心臓が動くように、ぶくぶくと鳴っている。どくどく、ぶくぶく。
 水平線の境には、真っ青な空が広がってる。どこまでも続いている。それは小さい時から見慣れたもの。波の動きも変わらない。飽きないでずっと繰り返している。いつここに来ても、届く潮の香りも、透き通った青い海も、入ったばかりのときの冷たい水の感触も、変わらないで私を迎えてくれる。
 凛が前に言っていた。海の底には生身の人間じゃまずたどり着けないと。水族館で深海魚を見たとき、それらを自分の目で見たいと言った私に、彼は言った。その時の彼の声音は、いつもと違ってすこし怖かったのを覚えている。まるで、底に沈みたいとでも言いたげな私に、行くなと念を押すように。無理だと冷たく言い放った。
 海へと向かっていた足が止まる。動きを止めない波は、スカートの下半分を濡らしていた。ゆらゆらと水面から見える私の下半身。それが足先からじわじわと、ぶくぶくと音を立てて、この広い海に溶けていってしまいそうな気がした。溶けてしまえたら、海の底へと沈んで行けるのだろうか。見たかった世界が見えるのだろうか。
 沖縄の、透き通った青が壮大に広がる海。これを見るたびに思う。私には深海魚が住むような暗闇が似合っている。夢も希望も見当たらないこんな私に、この光はもったいない。私の足が止まったのも、光の道を歩んで行ける何かがないからだ。ああ、ほら。凛ならどうだ。きっとよく似合う。
 「やーは、悩みがなくていいな。」
 この場所で、並んで腰を下ろすたびに言われる言葉。でも、悩みがないのは、やりたいことも、夢も希望もないからなんだ。凛は、それがはっきりしているから、悩んで、泣いて、苦しむことができるんだ。そして、その名のごとく、自分の意思を持ち、凛とした彼には明るいところが、太陽に照らされたところがお似合いなのだ。だって、いつも日陰にいた私を日向へと連れて行ってくれるのは、決まって凛だったのだから。
 ざぶざぶ。バシャバシャ。乱暴に海へと誰かが入ってくる音がした。ぶくぶくといまだに耳元で五月蝿く鳴っている音と重なって、不協和音を奏でている。ああ、頭が可笑しくなりそうだ。薄く笑みを浮かべた私の片手を誰かが強く、勢いよく引く。
 ――世界が反転した。
 背中に強い衝撃と、耳にザブンと大きな音。瞬間、私の視界はぼやけた。息が出来ない。押さえつけられた肩には、力強い手がある。凛の手だ。水中から彼を見ても、揺れる水面に邪魔されて表情が伺えない。ねえ、今どんな顔をしているの。私の両肩にある凛の両手は、私の体を沈めていく。ぶくぶくと繰り返し耳に届く音は、私が水中に居るからか、先ほどの音なのかわからない。
 ゴポリ。口の端から息が漏れる。それと同時に口内に入り込んだ海水は、いつもとなんら変わらずに塩辛い。だけど、その変わらない美しい海の裏側を、ありありと突きつけられたような気がした。息が出来ない。苦しい。怖い。美ら海は、こんなにも怖いものだっただろうか。ねえ、凛。教えてよ。震える片手を水面から出し、凛の影に触れる。
 重くなった瞼は、制御がきかなくなってきた。もしもこのまま凛に殺されるのなら、最期くらいは彼の顔を眺めて逝きたいのになあ。死んだ私の体は、きっと凛が水葬してくれるだろう。海の底へ、沈めるように。最後の息を吐き出した瞬間、視界が開けた。勢い良く入ってくる空気が痛い。力の入らない私の体は、しっかりと凛の腕に抱えられている。目に入る太陽の光が痛い。潮水に濡れた眼が痛い。眩しさが目に痛い。光って、こんなに痛かったっけ。
 ずぶ濡れになった制服は、風に触れて冷たくなっていく。彼の胸元にある私の耳からは、トクトクと凛の心音が聞こえる。ポタポタと聞こえる私の髪から落ちる雫は、水面に波紋を作っているのだろうか。回されて抱きしめられた凛の腕からは、あたたかな体温を感じる。
 生きている。
 気付くと、あれほど耳障りだった、水泡が弾ける音が聞こえなくなっていた。
 「ねぇ、凛。」
 彼の名を呼ぶ。
 「……ぬーがや。」
 返ってきた返事はとても弱々しくて、その震えるそれに気づかないフリをして、私は口を開く。
 「私はイチチョーンね。」
 さっき水面から見た私の足は、いとも簡単に消えてしまいそうだった。過去に読んだことのある御伽噺のラストのように。凛に気づかれなかったあの時にはもう、私が気づかなかっただけで消えてしまっていたのかもしれない。
 「当たり前やっし。」
 「私、深海に沈んでみたいってうむゆん。」
 「うん。」
 「やしが、一人で沈むには、ウトゥルサンやー。美ら海が私を殺しに来るんだばーよ。」
 「やーはイチチョーンどー。」
 それに小さくうんと返し、行き場のなかった手を凛の広い背に回す。
 綺麗な海の中へ、深く深く沈んでしまいたいと思った。深海魚のように、漂っていたかった。だって、魚達はあんなに幸せそうだった。光を見ずとも、太陽をその目にせずとも、あんなに美しく生き生きと泳いでいたから。けれど、私もそうなりたいとは思ってはいけなかった。
 「苦しかったか。」
 沈黙を破ったのは、凛のその言葉だった。
 「ウトゥルサヤー。海が私を殺すんじゃないかってうむゆん。」
 私のその言葉に小さくそうか。と告げた彼は、私に回した腕に力を込めて、口を開く。
 「夢、みたんばーよ。やーが帰り道に死ぬ夢。」
 その凛の声は、心なしか震えているように聞こえた。
 「アンクトゥ、くまに連れてきた。……やしが、やーはまた消えちまいそうだ。」
 前に水族館で言ったことを思い出したらしい。沈んだ感じはどうだったと彼は聞いた。私は素直に答えた。もうこりごりだよ。回されていた腕が解かれて、両手が肩へとおりる。
 「……なー、沈もうなんて思うな。」
 泣きそうな笑顔で、彼は言った。震える彼の手が、腕が、声が、凛にどれだけ心配させたかを物語っているようだった。
 「わかったさー。」
 そう答えながらも、考えてしまう。もし消えてしまうのなら、大好きなこの沖縄の海で、愛しい凛と海底に沈んで死にたいと。凛が一緒にいてくれるなら、きっと私は大丈夫。
 私にも光が見えたよ。
 凛はほっとしたように小さく笑って、私の頭を撫でる。さぁ、帰ろう。私も凛も、片方が消えることはないのだから。
 ゴポリ。どこかで水泡の弾ける音がした。





イチチョーン//いきてる
ウトゥルサヤー//怖い、怖かった
アンクトゥ//だから

世界の中心でふたりぼっち



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