「ねえ、そっちにいた?」
「ううん……しおりも見てないって……」
 その日。朝食を食べに来た綾部喜八郎は、食堂が普段よりいくらか騒がしいのに気が付いた。
 忍たまの生徒たちではない。くのたまの生徒たちが、なにやら気にかかることがあるというように、ひそひそと話をしていたり、もしくはばたばたと慌ただしく廊下を行き来していたりする。
 それに気が付いた忍たまたちもまた、(なにか面倒ごとでもあったんだろうか)と彼女らをちらちらとみていたが、一方綾部はというと、その騒がしさを感じ取ってはいたものの、全く気にすることなく食事を黙々とたいらげていた。
 そもそもこの綾部という少年、自分の興味の範疇に無い事柄に、ほとんど頓着せぬ性質である。
「おばちゃん、お代わり」
「あら、悪いわね、綾部君。今日はお代わりを用意してないのよ。くのたまの子たちが忙しかったみたいで、予定してた手伝いの子がこれなかったものだから」
 おばちゃんの返答を聞いて、綾部はようやく騒ぎを視界に入れた。とはいえそれは、自分のお代わりを阻む存在としてでしかなかったけれど。綾部は仏頂面で「そう」と言うと、機嫌を直さぬままに食堂を後にした。
 午前中の授業までにはまだ時間があって、綾部は昨日から掘り始めたたこつぼ(=一人用の壕のこと)の続きに取り掛かろうと、学園の裏手に足を向けた。さほど忍たま長屋からも離れていない競合地帯に、綾部は今冬に入ってからもう幾つ目か知れぬ、たこつぼ(見る目のない忍たまたちに言わせれば、落とし穴とそう大差ない)を掘ったのである。
 落とし穴とは違うので、穴を覆い隠すための手間などは必要ないが、昨日時間がなかったのもあって、それはまだ壁をきちんと整えてもおらず、不格好のまま放置されていたのだ。
 忍たま長屋から愛用の鋤(すき)を取ってきて、ふらりと長屋の反対側に回った彼は、しかし再び眉をひそめた。
 学園を囲む堅固な塀、その周りには常緑の灌木が茂みを作るように植わっている。綾部はその近くにたこつぼを掘り、その掘り出した土を山にして積んでおいたのだが、その背丈ほどの山がどうにも見当たらない。
 綾部は近づいて、よく見たが、やはり土の山は綺麗さっぱりと消えている。それだけではない。綾部が昨日掘ったたこつぼさえも消えていることに、彼はすぐに気が付いた。
 しかし、それならばむしろ納得もできるというものである。つまり、綾部の掘ったたこつぼは、昨夜のうちに再び埋められてしまったのだ。
 「用具委員会の仕業だな」綾部は口をへの字にしてひとりごちた。落とし穴というわけでもなし、人の通らない敷地の端を選んでわざわざ掘ったというのに、あの血も涙もない用具委員は、綾部が穴を仕上げるのを待つことすらせず、いつだって穴を埋め立ててしまうのだ。
 綾部はひどく気分を害して、ぷいと、たこつぼの残骸に背を向けた。今朝は何もかもが上手くない。憂さ晴らしに、校庭の真ん中に十ほど穴をあけてやろうかしらなどと考える。
 と、その時。綾部の背後で、くしゅんと何やら音がした。

 綾部は黙って振り向いた。今のは、塀から水滴でも落ちた音だろうか。そうかもしれない。もしかすると、灌木の茂みが風に揺れた音だろうか。そうかもしれない。
 でもどちらかと言えば、それは空気が勢い良く押し出される音のようで、さらに言うと、それは同室である平滝夜叉丸が、くしゃみをした時の音によく似ていた。
 綾部は静かに、たこつぼのあった場所に再び近づいた。そうして鋤を地面に立てると、今度はしゃがみ込み、辺りの地面をよく観察する。すると、灌木に隠れるような場所に、先程は気づかなかったが、何やら奇妙なものがあるのを発見する。
 それは竹の筒である。地面から垂直に、三寸ほどの筒が、にょっきりと生えているのである。むろん、そんな形で生える竹などあるはずもなし、それはだれかが埋めたものに違いない。
 綾部は灌木の枝を手で押しのけて、竹筒を上から覗き込んだ。普通であれば存在する竹の節がその筒には存在せず、奥のほうまで空間がずっと連なっているのがよくわかる。しかしその終わりの方はというと、光が届かないせいか、あまりにも深くまで続いているせいか、どうもよく見えない。
 節を開けられた、長い竹の筒。それは綾部に、水中に忍ぶ忍者が息をするための忍具を思い起こさせた。
 むろんここは地面の上で、水上ではなかったけれど。さらにいうとこの地下は、ちょうど綾部がたこつぼを掘った場所だったはずだけれど。綾部は少し考えて、それから竹筒に向かって口を開いた。
「ねえ、そこにいるのはだれ?」
 竹筒は沈黙していた。一瞬、息をのむような気配をその筒の下に感じたような気もしたが、気のせいかもわからない。綾部は返事を待つことなく、再度竹筒に話しかけた。
「たーこちゃんは作りかけだから、どいてほしいんだけど」
 竹筒の中の暗闇が、かすかにふるえたようだった。そうして、恐る恐るという具合に、そこから返事が返ってくる。
「……この、たーこちゃん、私に、譲っていただけませんか」
「なんで?」
 綾部の問いに、しばしの沈黙が返ってきた。そうして、震える声で
「……私、たーこちゃんのこと、気に入ったので」
 と、返答がある。綾部は少しの間宙を見上げて考えていたが、さほど長い時間も待たせることなく、「それはだめ」と言った。
「えっ……」
「これは、僕のたーこちゃんだもの。ほしければ君もたこつぼを掘ればいい。そうでしょう?」
 綾部の正論に言葉を失ったのか(はたまた、彼の風変わりな思考回路に困惑したのか)、竹筒は何も答えなかった。
 枝を手で押さえ続けるのも面倒になってきたのだろう、綾部はおもむろにその場を立ち上がり、尻を手でぱらぱらと払った。そうして話は終わったと言わんばかりに、近くに建ててあった鋤を手に持ち、竹筒に背を向けようとする。
「あ、だけど」
 その間際、彼は振り向いて竹筒のある辺りの灌木を見下ろした。
 この時誰かが長屋を通りかかっていたのなら、何もない場所に声をかける綾部の姿を見たかもしれない。ただし綾部の場合、それもさほど異常とは思われないに違いない。
「しばらくだったら、貸してあげてもいいよ。ちゃんと、あとで返してね」
 綾部はその後すぐ、再び前を向きなおってその場を後にしたものだから、彼は竹筒の返事を聞かなかった。しかし彼が授業から戻って、近くの縁側を通り過ぎた時、この場所は先程のままの姿で残っており、人が這い出たような跡など少しもなかったので、きっと答えは諾だったのだろうと綾部は思った。



 二日目。よくよく眠ったはずであったが、綾部の眠気は、朝になってもまださめなかった。
 欠伸を噛み殺しながら、寝巻のままに井戸に向かってふらふらと歩いていると、綾部の寝ぼけ頭がふと昨日の記憶を思い出す。
 縁側から庭に降り立つと、朝の冷えがぶるると彼の裸足の裏から駆けのぼった。草鞋を探して見渡しても、浜守一郎あたりがうっかりどこかへやってしまったのか、近くにはどうも見当たらない。履物を求めて長屋を一周するのも馬鹿らしく、綾部はとててと早足に塀の傍に寄った。
 彼のたこつぼの跡地は昨日と変わらぬ様子で、どうやら中の者はまだ、たーこちゃんを綾部に明け渡す気がないらしい。
 まだ寝ているかしら、と思いつつ、綾部は「ねえ」と竹筒に向かって声をかけた。意外にも、竹筒の奥で布が擦れる気配がする。
「ねえ、まだ、どいてくれないの」
「……はい」
 竹筒の声はかすれていた。先程起きたばかりなのか、もしくは一晩寝つけなかったのかもしれない。
 冬の地面はどうにも冷たい。綾部であれば、真冬の野宿でも問題なく寝られるかもわからないが、それを他人に求めるのは酷というものである。
「いつになったら返してくれる?」
 綾部の問いに、竹筒は頼りない声で「……そのうち、です」と答えた。
 綾部の経験上、そのような返答は全くあてにできなかった。綾部が平を朝食に行こうと呼ぶとき、鏡を見ながら奴はいつも「あと少し」「もうちょっと」などと抜かして、まともに動こうとしないのである。最近では綾部はもっぱら一人で食堂に向かうことにしている。
 けれども綾部はそんなことをくどくどと言うことはせず、ただ彼らしい平たい声で「……そう」と返事をしただけだった。
 風が吹いて、そわりと綾部は腕をさすった。
 不意に、どたどたと慌ただしい音がして、綾部は振り返った。まだこんな早い時間だというのに、奥に見える校舎の廊下を、数名の生徒が駆けていく姿が見える。その装束の色が桃色であることを確認して、綾部はぽつと口を開いた。
「……昨日から、くのいち教室の生徒たちが、誰かを探してる」
 やっぱりなまえ、まだ帰ってきてないみたい。大きな髪飾りをつけた少女が心配そうに言う声が、綾部のもとにもかすかに届いた。綾部は竹筒のほうに視線を戻す。
「『なまえ』って、君の名前?」
「……違います」
 数拍ほど間が空いて、竹筒は小さく答えた。綾部は「そう」と短く返し、代わりの名前を尋ねるでもなく、竹筒にふらりと背を向ける。
 冷たい地面から逃れるように縁側に駆け寄る彼の耳に、「あの子、ほんとにどこ行っちゃったのかしら」と言う、誰かくのたまの声が聞こえた。



 三日目。夜のうちに雪が降ったらしい。忍術学園の校庭は、うっすらと白く染まっていた。
 綾部はたこつぼ跡の傍で、塀に寄りかかるようにして立っていた。すでに雪は止んでおり、長屋からは綾部の足袋の跡が、彼の足元まで黒く点々と続いている。それを見て綾部はおもむろに(雪の日の忍務って大変そうだなあ)とぼんやり思ったが、そんなときの仕事のやり方すら授業ですでに習っていることを、その直後に思い出した。
 ふうと息を吐くと、暖かな白い雲が彼の口元から流れていった。
「ねえ」
 最初から変わらぬ、まるで独り言のような口調で、綾部は竹筒に問いかける。
「君、どうしてずっとそこにいるの」
 竹筒は沈黙していたが、その先から時折ふわりと白い気が立ち上るところを見ると、まだ中の者が凍死したわけでもないだろう。綾部はかまわずに言葉をつづける。
「今日の朝食は魚定食だよ。食べないなんて信じられない」
 綾部はこの日、朝早くに忍術学園に兵庫水軍からの使いが到着したのを知っていたし、そうして作られる朝食がとってもおいしいことも知っていた。
 同時に脂の乗ったかれいの鍋や、あまえびの入った吸い物を思い出して、綾部の腹がぎゅるると鳴る。彼は朝食に行く途中でこの場所に寄ったのだ。
 と、まるで綾部の音につられたように、竹筒からも、ぐぎゅるとつぶれたような音がかすかに聞こえた。しかしそれは、健康的な腹の音とは全く違う、力無いそれである。綾部は彼の下に居る者が、少なくとも丸三日食事をしていないことに思い当って、なんだかひどく不憫な気がしてきた。
 人は腹が減っているときにこそ、同じ立場の者に同情できるものである。
「……昨晩には雪が降ったし、明日にもまた降りそうだよ。君、死にたいの?」
 食堂には温かい味噌汁か、そうでなくても炊きたてのご飯が待っているというのに。返事は半ば期待しないままに、綾部はそう問いかけた。
 そこに、思いがけず、返答がある。
「……はい」
 その声はあまりにも冬の寒風とよく似た音をしていたから、綾部は一瞬、気づかずに塀から腰を浮かせていた。そうしてふと動きを止め、竹筒に再度問いかける。
「……死にたいの?」
「はい」
 今度の応答はさすがに風と違えるほどではなかったが、しかしそれにしても、ここ数日の間にずいぶんと弱弱しく変わったことは明らかだった。
 綾部はしばらく黙っていたが、わかりやすく顔色を変えることもなく、その起伏のない声でゆっくりと「……どうして?」と問うた。
「……私、だめなくのたまだから。生きてたって、仕方ないんです」
 竹筒から漏れる声はあまりにささやかで、綾部はその声を聞き取るために、その場にしゃがみこまなければいけなかった。
「くのいちにも……他のものにも、到底成れそうにないんです。……周りに迷惑をかけながら、こんな無様な人生を続けていくよりは、いっそ早いところ、死んじゃったほうがいいんです……」
 綾部は黙って、何も言わなかった。『たった人生十数年で何が分かるの』とも言わなかったし、『そう言って今現在、ほかのくのたまたちに迷惑が掛かってるんじゃないの』とも言わなかった。
 綾部はただ黙って、竹筒の話を聞いていた。
「……だけど、血を見るのも、く、首を絞めるのも、恐ろしくって……誰もいない、静かなところで、冷たくなりたいと思いました―――そんなときに、私、あなたの作った落とし穴にはまったんです……」
 はっと、急に、その空間に憧れたのだと声は言った。そうして落とし穴から抜け出したのち、数日間かけて胃袋を空っぽにして、ちょうど綾部が掘り途中だったたこつぼの一つに、そっと一晩かけて自ら埋まったのだと。
 竹筒の声は次第に小さくなって、最後には綾部の聞き取れないほどとなった。
 綾部は相槌の一つも打たず、始終黙っていたのだが、それでも竹筒には彼がまだこの場にいることが感じられたらしい。ふと、
「……たこつぼ。勝手に使って……ごめんなさい」
 と小さな声が聞こえた。綾部は竹筒を見下ろして瞬いたが、ゆっくりとその場に立ち上がり、「いいよ」とそっけなく言葉を発した。
「いいよ。さいごに、ちゃんと返してくれるなら」
 竹筒は答えなかった。



 四日目。水気を含んだ重たい雪が学園に降り注いでいた。
 寝巻のままでは、長屋の縁側をほんの少し歩くことさえ耐えられず、綾部はその身に薄手の掛布を巻き付けながら、ずるずるとそれを引きずるように廊下を歩いていた。
 そうして、ふと、ひどく寒そうな冬空の下を見ゆる。今日もまだ、あの地面の下から何かが出てきた様子はない。綾部が足元をちらと見降ろせば、きっとあの真面目な田村三木ヱ門が用意したのだろう、元のように草鞋が一足用意されていて、綾部はそれを軽くつっかけると、雪の降る中に駆け出した。
 持ってきた掛布を頭にかけて、竹筒に近寄り、しゃがみ込む。竹筒の口には、みぞれのようになった雪が薄く積もっていて、綾部はなんとなくそれを手で払った。
「ねえ、まだ、生きてる?」
 ほう、と竹筒の中で、息をする音が聞こえた。
「……はい」
 ああ生きてるんだ、と綾部は、安堵とも落胆ともつかない気持ちでそう思った。それから、人って案外たくましいんだな、という感想を抱きつつ、むしろ、人はこんなに脆いのかとも、思う。
 その脆そうな声が、「あの」と綾部に問いかける。
「綾部先輩、は、おかしなひと……ですね」
「喧嘩でも売ってるの?」
 まさか、と声はくすぐったそうな声を上げた。―――声はどこか、昨日よりも活気を取り戻したようにも感じられた。しかし、この寒空の下ではそんなこともあり得ないと思えば、声の主はもしかするといくらか熱でも出しているのかもしれなかった。
「私のことを、ほかの人に、黙っていてくださいますし。……毎日、私なんかのところに、来てくださいますし」
 くのいち教室のくのたまたちは、毎日学園内を駆け回るのをやめていた。代わりに食堂などで見かければ、彼女らは皆ひどくしょげ返った顔をして、魚の干物をつついていた。
 といっても、学園側が捜索を打ち切ったわけでないことを綾部は知っている。山本シナ先生や学園長先生は、今も学園外のあちこちに掛け合っているのだろうし、ほかの先生方も聞き込みを続けているらしい。まさか学園の敷地内に、こうして穴を掘って自ら隠れているだなんて、誰が想像しよう。
 きっと綾部が彼女の居場所を告げたなら、学園内の奇妙な緊張もすぐに解け、綾部の望む朝食のおかわりも再び得られるようになるのだろう。けれど。
「……別に」
 凍えてもなお死にたがり、綾部の掘ったたこつぼの中に閉じこもる人。この者から無理やりこの穴を取り上げてしまうのは、なんだか違うような気がした。
 それでも綾部はそれを竹筒に向かって言うことはしなかった。軽く頭上の掛布を傾けると、とさとさ、と積もった雪が背後に落下する。綾部は立ち上がる。
「別に、君が生きようが、死のうが、僕には関係のないことだもの」
 君を見に来ることだって、気まぐれだよ。綾部の言葉に、声の主は、ほう、と息を漏らしたようだった。
 しかし、それは落胆ではなかった。
「……そうですよね」
 まるで安堵にも似た声色に、綾部はそのまま、動けずに立ちすくんだ。
 重く冷たい雪が降り積もる。竹筒の口に降りた雪を、綾部はかがんで再度手で払い、それから一瞬ためらった後、手に持っていた掛布をその上にふわりと乗せた。そしてふと、息ができなくなるかもしれないと考えて、掛布をずらして地面に置く。
 綾部は屋根の下に早足に戻ると、振り返って、雪の積もる地面に掛布が転がっている風景に(馬鹿みたいだ)とひとりごちた。

 雪は一日中降り続いた。夕方、授業を全部終えて綾部が長屋に戻ってくると、校庭の掛布は雪に濡れて、ぐしゃぐしゃになっていた。



 五日目。まだ雪は降り続いている。
 ねえ、と声をかけても返事がない。竹筒の傍で何度か声をかけて、ようやく地中で装束の擦れる音がする。
「ねえ、なまえ、まだ生きてる」
「……はい」
 竹筒に近づいて、ようやく聞き取れるほどの声だった。綾部はしばらくその場にしゃがみこんでいたが、ろくに話をする元気もないのだろう、竹筒からの声はそれで最後であった。
 もう声もなさそうだと判断して、綾部は静かに立ち上がる。そうしてふと気が付いて、雪の中に半ば埋もれていた、昨晩放置したままだった掛布を拾い上げた。掛布は夜の間に冷えたのか、不格好な姿のままにごわごわと固まっている。
 固い掛布を棒切れのように握りしめながら、綾部が長屋に戻ると、ちょうど朝食から戻ったらしい斉藤タカ丸に出くわした。無残な姿となった掛布を見て「それ、どうしたの?」ときょとんと尋ねる斉藤に、綾部は少し考えて、
「……なんでもありません」
 と答える。不思議そうに瞬く斉藤の隣をするりと抜けて、綾部は自分の部屋に戻った。途中、ふと(そういえば、名前を呼んでも否定されなかったな)と、少し思った。



 六日目。降り続いていた雪は止んだが、ひどく寒い。
 昨夜までに積もった柔らかな雪は、踏めばざくざくと音を立てるようになっていた。朝食から戻った綾部は、食堂でもらってきた熱い茶で両手を温めながら、ざくりざくりと竹筒の場所に近づいた。
 竹筒の傍にかがみこみ、茶を一口すする。
「ねえ、朝だよ」
 白い息ともに呼びかけても、竹筒から応答はない。朝食に行く前に寄った時も、返事はなかった。ただ、竹筒の中で何かがわずかに身動きする気配はあるから、きっと生きてはいるのだろう。
「ねえ、まだ生きてるんでしょう」
 答える声は聞こえない。数日前には見えたはずの、竹筒から漏れるかすかな吐息も、今や綾部の目には少しも映らなかった。雪の白さに紛れてしまっているのか、それとも水滴となるほどの温かさも、もはや持ち合わせていないのか。
 地面の下で足を抱えて、まるで死体のように冷たくなる少女を脳裏に浮かべる。綾部は少しだけ顔をしかめて、手に持っていた湯飲みを足元に向けてひっくり返した。
 一瞬、暖かな湯気が舞い上がる。けれどもそれが消えて見下ろせば、ただ周りの雪がわずかに溶けただけだった。



 七日目。久しぶりに、今日はよく晴れた。
 大変珍しいことに、この日綾部はまだ日も昇らぬうちに目が覚めた。軽く伸びをして、温かい綿入りの着物を羽織ると、ここ最近の日課のようにして、長屋の裏にとととと回る。
 縁側で足を止め、辺りを見る。またもや、誰かがどこかにやったのか、それとも雪に埋もれてしまったのか、履物の姿がない。綾部はためらったが、すぐに裸足のまま雪上に降り立った。赤く痛んだとしても、少し雪の上に立つ程度で、どうにかなってしまうような綾部の足ではない。
「なまえ」
 竹筒に駆け寄って、しゃがみ込む。積もった雪はまだ溶けてはおらず、綾部の曲げた膝頭がつかんばかりの高さまで未だにあった。
 昨夜彼のこぼした茶は、竹筒のすぐ手前で、丸く水たまりのように凍っていた。
「なまえ」
 竹筒は灌木の近くだったからか、まだ積もった雪に埋もれることなく、かろうじてその空気穴をぽっかりと保っていた。もしや中に雪が詰まったのかと、灌木の枝を押しのけて綾部が覗き込んでみるも、暗い筒は最初と変わらぬ様子で、奥までずっと続いている。
 筒の奥に向かって、ふうと綾部が息を吹き込んでみたが、息が何かに当たる気配もない。奥で何かが動く様子もない。
 竹筒は沈黙している。
「なまえ、ねえ、死んだの」
 竹筒は沈黙している。綾部は体勢を戻して、立ち上がった。身体のあちこちについた雪を手で払い、竹筒に背を向ける。
 綾部は長屋へと戻っていった。



 ―――綾部がその場に帰ってきたのは、それから半刻ほど後のことだった。
 手には愛用の鋤を携えている。綾部は竹筒の前に立って一度辺りを見渡すと、おもむろに鋤を地面に突き立て、雪を掻き始めた。
 表面の雪はまだ扱いやすいが、下の方の雪は固く重い。そしてその下の土などは、もはや氷のようであった。綾部は黙々と、雪と地面を掘り続ける。
 途中、朝食に行かないのかと平が綾部を呼びに来たが、穴掘りをする、さほど珍しくもない綾部の様子に、肩をすくめて通り過ぎた。ただ、普段の穴掘りの時ほど楽しそうな表情でないことに、少々疑問を抱きつつ。
 ある程度掘り進めると、長く埋まっていた竹筒も、どうにか掘り出せるまでになった。綾部は竹筒をそうっと抜き出して、今度はその筒のあった穴に沿って、ゆっくりと深くまで掘っていく。
 やがて、鋤を差し込んだ穴の底がぼろりと崩れ、空洞にぶつかった。朝早くに掘りはじめ、食事にもいかずに掘り進めた、昼頃のことである。綾部はふうと汗をぬぐう。冷たい空気が心地よい。
 綾部は慎重に、足元の穴を広げていった。そうしてある程度開けたところで、綾部は穴の中を覗き込んだ。
 土に汚れた装束の少女が一人、足を抱えて丸くなっている。よく見ようとするが、彼の影が邪魔になって、その顔色まではわからない。
「なまえ」
 少女は身動きをしない。綾部は足元の土を崩し、穴の中にすとんと下りた。近づき、少女の隣にしゃがみこむ。彼女の隣には穴を埋めると気に使ったらしい、学園備品の鋤が落ちている。
「なまえ」
 顔色を見ようと触れれば、その頬は生き物で無いかのように冷たかった。綾部は両手を伸ばして、そっと少女の頬を挟む。それから、顔ばかり温めても仕方がないと気が付いて、綾部は彼女と壁の間に腰を下ろし、後ろから少女を抱きかかえた。
 少女に触れている場所から先に、綾部の体は冷たく冷えていく。だというのに、少女の方は一向に温かくなる様子が無いように綾部には思われた。
(このまま二人して、穴の中で冷たい死体になってしまいそうだ)
 ぼんやりと彼がそのようなことを考えた時、少女の頭に回していた左手に、かすかに触れるものがある。彼の左の手のひらを、細かな刷毛に撫でられるような。(なんだろう)と思った綾部はしばしして、それが少女の瞬きであると思い当たった。
「なまえ、目が覚めたの」
 手を退けて、少女の顔を覗き込む。少女は血の気の失せた顔を、まだ幾分膝にうずめたまま、ぱちりぱちりと瞬いている。
 全く知らぬ顔ではない。群れたくのたまの中に、二度ほど見たような顔だった。とはいえ、今まで綾部は関わりあうことすらなかった。
 その瞳がきょとりと綾部をとらえて、(あやべせんぱい)と青い唇が動く。彼女は声も出ぬ様子だったが、不思議なことに、綾部は彼女の言いたいことを難なく読み取ることができた。
(どうして、わたしの、じゃまするの)
「この期に及んで、まだ死にたがりなんだね、君」
 死にかけてなお変わらぬ少女の意思に、綾部はなんだかひどく嫌な気分になった。少女の冷え切った手を握りこみ、ふうと温かいため息をつく。首元に息を感じた少女が、驚いたように目を瞑るのが綾部にも見えた。
「別に、君が生きようが死のうが、僕の知ったことじゃないよ。だけど、これは僕のたーこちゃんだ」
 ちょうど、この日の明るい太陽が、たこつぼの真上に来たのであろうか。不意に差し込んだ日の光が、暗いたこつぼの中を照らし出した。綾部の真っ赤になった足先。二人の土に汚れた装束。
 血の気のない、まるで雪のように白いなまえ。

「僕の掘った穴の中で、勝手に死なせてなんかやらない。綺麗な白い木乃伊(みいら)になんて、頼まれたって、させてやるもんか」

 ちゃんとたーこちゃんを返してくれるって、そう約束しただろう。綾部のくぐもった声に、少女は何か反論しようとしたようだった。それは例えば、約束なんてしていないとか、私が死んだところでたーこちゃんは無事ですよとか。
 しかし彼女はしばらくためらった後、結局そんな言葉を綾部に向けることはなく、ただ一言(せんぱいは、意地悪ですね)と、声に出さずにつぶやいたのだった。その白い頬を、ほんの少しだけ微笑ませて。

白い雪にも似た木乃伊



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