小学校にあがる頃まで海の近くの田舎町に住んでいた。
 私たち一家が暮らしていた団地は四角い豆腐みたいな棟のならぶ市営住宅で、確か4階建ての2階の部屋を借りていた。すぐ近くに八幡神社があり、毎年正月になるとそこは市内各地から訪れる参拝客でいっぱいになった。その年は数えで七つになるということで、十一月にはそこで七五三の参拝に行くことになっていた。着物の色は赤だと決まっていた。
 薬局やスーパーマーケットに用があるときは峠を越えたところにある隣町まで車を走らせなければならない。私は母の軽自動車の後部座席に乗せられて、しばしば買い物につき合わされた。隣町のスーパーは見たことのないようなお菓子がたくさんあり、それはたいへん魅力的だったがあたり付きのチューインガムを交換してくれないのが気に食わず、高価な食玩ばかりをねだって母を困らせていたように記憶している。私はなぜか「引きのいい」子供であったから。
 当時の遊び場といえばだだっ広いだけのグラウンドだったり、開発途中のままほっぽり出された空き地だったり、そういうところに限られていた。よく晴れた昼下がりには、ひなびた潮風がここまで匂うのがいやでいやでしょうがなかった。
 神社の境内の裏に、大人の背丈ほどのちいさな祠がある。
 かみさまはいつもそこにいた。
 かみさま、と誰かが呼んでいた。あれは昔からここいらに棲むかみさまなのだ、と。若いおとこのひとの姿をしていて、気味が悪いくらい白い肌の上に、これまた白い女物の着物を着ている。髪の毛も真っ白で、瞳は陽のひかりに透けると明るい金色に輝いた。地の者でない大人たちは彼をホームレスだとかルンペンだとか呼んで気味悪がっていたけれど、それらとは一線を画す雰囲気を持っていることは子供ながらに感じ取れた。
 私はかみさまと遊ぶのが好きで、よく保育園を抜け出して会いに行った。見た目よりも人間くさい性格のかみさまは頼みもしないのにたくさんの話を聞かせてくれた。お供え物の炭酸入りのオレンジジュースが好物だとか、最近では空き地の土管の中に隠れて通りかかったガラの悪い中学生を脅かすことに全力を尽くしているだとか。神社の裏はじめじめしていて夏場でも少し肌寒いので、私たちはよくアパートに隣接する公園で話した。公園から少し歩いたところには沼があり、そこは私が四歳の年の縁日で手に入れた金魚を泣く泣く捨てた場所でもあった。水がある場所ならどこでも生きられる、と父親に繰り返し言い聞かされたことをいまでもよく覚えている。
 かみさまはなんでも知っていた。スズメよりもカラスのほうが早起きなこと。夕焼けが綺麗な日の次の朝はかならず晴れること。深い悲しみに襲われたときは張り裂けそうになるほど胸が痛くなること。それから、この世に生きているすべてのものにはいつか終わりがやってくるということも。
「大抵のことはきみが教えてくれたからな」
 きい、きい。ブランコに腰かけて鎖を握ると、必ずといっていいほど茶色く錆びた鉄が手のひらにこびりつく。この手で着物に触れようとすると決まって嫌な顔をしてくるのが、かわいかった。
「私、知らない」
「そうさな、ずっと昔のことだからもう覚えちゃいないか」
 かみさまはそう言い、瞼を伏せた。そのいっしゅんにもみたない仕草の合間に新しい宇宙がうまれ、まっしろまつげの上を何光年も離れていた星たちがあつまり完璧な軌道を描きながらすべりおちてゆく。
「きみと将来結ばれる相手の名前も知っているぜ」
「ほんと?」
「ああ。ちょいと耳を貸しな」
 ブランコから飛び降りて軽やかに駆け寄る。かみさまは薄い色のくちびるを左の耳に寄せ、ごくごく注意しなければ聞き取れない小さな声でその名を教えてくれた。甘くとろけるような響きの、たいそうかわいい名前だった。はちみつ色のあめだまを舌の上で転がすように、まだ見ぬおとこのこの名前を繰り返す。なんだかこころが暖かくなるのを感じて、私は思わずかみさまに抱きついて頬擦りをする。いつもは汚れることを嫌がるのにこういうときだけその素振りを見せないので、許されているのだと勝手に思っていた。

 引っ越しをするのは私が「きちんとした」小中学校へ通うためだと聞かされた。
 今住んでいる地域はあまり評判のよい学区ではないらしく、昔から素行の悪い生徒が深夜の店をうろついているとかの噂が絶えなかったらしい。このアパートの駐車場でも煙草の吸い殻がポイ捨てされているのを見かけることがよくあったが、それも近所の中学生の仕業なのだそうだ。
 新しい住居を構える土地をめぐって、両親が喧嘩一歩手前レベルの言い争いを繰り返していたのも知っている。深夜に会議をするのは幼い私がぐっすり眠っていると思い込んでのことだろう。一度ヒートアップするとなかなか終始がつかずにヒステリックになるのが母で、相手の痛いところを的確についてわざと煽りにいくのが父だった。隣の部屋の壁はとても薄く、天井の木目はいつも恐ろしかった。

 かみさまはまれに私を遠くへ連れ出すことがあった。行先は街の端から端までだったり、神社の裏の別の世界だったり、すべて彼のその時の気分で決まった。
 とにもかくにも、あの白い手に引かれるのが好きだった。父のものとも、ましてや母のものとも全く異なる感触は、適度なよそよそしさに満たされていたような気がした。知らないおとなの乾いた肌と、ぎこちないつなぎ方。
「きみ、腹は空かないかい」
 どことも知れない標識だらけの薄暗い通りで、かみさまはそう優しく声を降らす。まるでそれが合図だったかのように、小さなお腹が「きゅう」と鳴る。目尻をくしゃっとする笑い方で私を見ると、彼はこんな提案を持ち掛けてきた。
「とっておきの場所へ連れて行ってやろう」
 向かった先は海沿いの道にある古いラーメン屋だった。道路脇に赤茶けた自転車が停めてあり、もう何年も使われていないみたいに砂埃をかぶっている。色あせた暖簾をくぐり適当な席にかけて待っていると、注文した覚えのないどんぶりがふたつ並んで置かれていた。
「さあ食え。俺のおごりだ」
 店内は私たちのほかにはだれもいないみたいに静かだった。明かりもついておらず、埃まみれの窓から差し込む陽光だけが頼りの薄暗い雰囲気。ネズミが走っていてもおかしくないような店内で、湯気の立つどんぶりの置かれたこの席だけが息をしている。「火傷には気を付けろよ」という忠告を左耳に受けつつおそるおそる口にはこんだ。育ち過ぎたおおぶりのもやし。つながったネギ。ゴムのように堅いチャーシュー。お世辞にもうまいと言えたものではないはずのその醤油ラーメンが、当時はなぜかむしょうにおいしく感じられた。両親は……とくに母は必要以上に食事にこだわるたちで、粉から作られる料理のことをなぜかたいそうけいべつしていたから、なかなか食べさせてもらう機会がなかったのも理由のひとつだろう。
 夢中になって麺をすする白い横顔に一筋の汗が垂れるのをみて私はひどく意外な気持ちになった。かみさまも熱いものを食べると汗をかくんだ。誰もいない厨房で換気扇がごうごうまわる音と、隣でずっ、ずっ、と太めの麺をすする音だけが響いている。
「また来たいかい?」
 店を出て数歩歩いたところで、かみさまは私にたずねた。その質問の裏側にあるものを汲めない幼すぎた私は「ううん、もういい」と覚えたての遠慮の言葉を使ってしまった。彼が拗ねるでも食い下がるでもなく「そうか」と目尻を下げて手を繋いでくれたから、それでいいものだと思った。

 いつの間にか時がたち、足元の落ち葉が楽しい季節が訪れていた。
 この日は七五三のお参りの日で、早朝から寝ぼけまなこで真っ赤な振袖を着せられての撮影が行われた。髪を伸ばすことは許されていなかったのでおかっぱ頭での撮影になってしまったのは不機嫌の種だったのだろう。あとでアルバムを見返すと、ひどくいやな顔をした憎たらしい女の子がたくさん写っていた。
 昼食はコンビニでおにぎりを買って車の中で済ませた。母はショクヒンテンカブツがどうとかぶつくさ文句をたれていたけれど、パリパリの海苔と塩の効いたごはん、それから生まれて初めて食べる辛子明太子の味は格別だった。大人になったいまでも私の好物だ。
 参道の真ん中ではいつもより綺麗な着物をまとったかみさまが待っていた。大きな白い刀を腰に下げているのに私が気付くと、にんまりと歯を見せて笑う。
「つい昨日のことのようだな。百日参りも三つの祝いも」
 砂利道にイチョウの葉が敷き詰められた道で、そこだけ輝いてみえる。大人たちには見えていないから、私も知らんぷりして歩く。
「懐かしいなあ。あの頃はまだ俺の名前も呼んでくれたろう」
 私たち親子の隣に歩幅を合わせるようにしてゆっくり社へ向かう「かみさま」。耳元でかちゃかちゃと刀の揺れる音がする。なぜだろう、懐かしい。
「俺が見てやれるのはここまでだ。ああ、これが最後なんて辛気臭いことは言わんさ……短い間だったがそれなりに楽しかったぜ。またな、きみ」
 大きな鳥居の真下でそう聞こえたかと思うと、誰のものでもない冷たい手が頭を撫でる気配がして、消える。あとには光の残滓だけが遺された。突然しゃがみ込んで泣き出した私を、父と母は足をくじいたものだと勘違いしてくれただろうか。
 かみさまは私をよく知っていた。たぶん、私がうまれるずっと前から。

 引っ越しの日の朝、いつもの祠にかみさまの姿はなかった。きっと七つのお参りの日、光にとけてしまったのだ。その証拠にあれ以来見ることも感じることもできなくなった。そう遠くない未来に、記憶のうちからもいなくなってしまうのだろう。
「早くしなさい。あんたはいつもとろいんだから」
 私と、母と、最低限の荷物だけを載せた白いワゴンがきしんだエンジン音で嘶いて市営住宅の駐車場を離れる。
「お父さんはもう新しいおうちで待っているわ。念願の新築よ」
 空き地が、公園が、通った保育園が景色の中で流れてゆく。あの少しだけひょうきんな顔も、暖かかった声も、手を引かれるときの冷たいぬくもりも、みな思い出そうとするたびに遠くなる。なんだったっけ。いつか誰かが教えてくれた、甘くとろけるようなはちみつみたいな名前。
「窓を開けてもいい?」
 母は一瞬だけ顔をしかめたが「ちょっとだけよ」と念を押してから後部座席の窓を半分くらい開けてくれた。いやというほど見慣れた、せいの高いコンクリート塀の向こうにある、きらめく海の色。
 ひなびた潮風が匂ってくる。
 あのラーメン屋は私たちが引っ越した後まもなく取り壊されてしまったそうだ。

かみさま



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