東京の本社に辞令が出たと言われたのは確か10日も前だった気がする。
久しぶりのデートだというのに物凄い深刻な面持ちで話を切り出したから、てっきり別れ話かと思いきや遠距離恋愛のお知らせだった。 どちらにせよショックなことに変わりはないけれど、むしろ私は今のこの状況に悲壮感を味わっている

前述した通り転勤の話を聞いてから10日 はじめくんが素気ないのだ
いや、前から甘い空気なんてほとんどなかったけれど 食事に誘っても「悪いちょっと忙しいんだ」と断られるし土日だって「引越の準備で手が空かない」
だったら手伝いに行くよと言ったのには返事がなかった。

若い子の間ではなんていうんだっけ、そうそう既読スルーってやつだ。社会人になったらそんなの珍しくもなんともないんだけど、はじめくんに既読スルーされたというのがポイント どんなに簡素でも私からの連絡をぶちったことなどないはじめくんが、だ

女を二十数年やっていると分かってしまう「ああ、何か隠してるなあ」っていうあの感じ。それは浮気だったり心境の変化だったりいろいろだったけれど、共通しているのはこの感じを覚えるときは大概別れる前だったってこと

「もう終わりか……」

はじめくんと付き合ってもうすぐ2年
正直結婚も視野に入れていたし、親にだって紹介したことがある。
結婚どうこうの前に、いつかはじめくんと一緒に暮らすなら買いたいと思っていたカーテンだって、雑貨屋で見かけた可愛いモーニングセットだってあったのに……幕引きなんてそんなものなのだろうか
転勤がきっかけで壊れてしまうような関係だったのかなあ。なんか悔しいな

そういえばはじめくん何日に引っ越しするって言ってたんだっけ、とカレンダーを見ようと思ったのに涙で覆われて視界がほとんど見えなかった

▼▽▼▽

それから数日後、はじめくんから「話がしたいから」と食事に誘われた
自然消滅を狙っているのかと思ったら別れ話はちゃんとしてくれるらしい
本当は悲しくて悲しくて、別れ話なんかされたらその場でしがみ付いてやりたいくらいだ

だけど最後くらいはいい女でいたいなあと思って、買ったばかりのワンピースをおろしてみた。ネイルだって塗りなおしたし、もし泣いてしまってもキレイでいられるようにマスカラはウォータープルーフのものにした

家を出る前は体が震えて仕方なかったけれど、深呼吸して待ち合わせしたレストランまで向かう。大丈夫、今日の私は女優顔負けないい女だ。こんないい女振るんじゃなかったといつか後悔させてやるんだ

レストランに着いたら仕事終わりであろうはじめ君がいた。スーツを着こなしてビジネスバッグを足元に置いていたのを、不覚にも格好良いと身惚れてしまい一人で首を振る。
だめだだめだ、惚れ直してどうする!

「おう」
「久しぶり」
「今日気合い入ってんな」
「そう?いつも通りだけどな」

ウソです。めちゃくちゃ気合い入れてきました。ワンピースも普段買わないような高いブランドの新作です。ネイルもいつもの500円のやつじゃなくて1色1600円するやつ塗ってきたんだから(塗ってしまったらあんまり分かんないけど)

「その感じだ、俺が話したいことバレバレだよな」
「うん、まあ……はじめくん分かりやすい」
「悪かったな……とりあえず座れよ」

こんなに歯切れの悪いはじめくんを知らなかった。いつもは真っ直ぐに射抜くような視線をたくさん泳がせながら言葉を探している。
対面しながら思い出すのもなんだけど、はじめくんは元カノさんたちに別れ話をしたことがないって言ってたなあ。いつも多忙を理由に振られてきたと言っていたから、別れ話をする側は初めてなのか

「なまえ」
「なあに?」
「緊張しちまって上手く言えねえけど、その……」

本当に、こんなにハッキリしないはじめくんを見たことがない。頭をがしがし掻いて溜息まで吐いている。
そんなの「俺たちもう別れよう」って言えば済むのに、この人はどこまで優しいんだろう

「だめだ、言葉が出てこねえ」

自分自信にイライラした様子のはじめくんが、痺れを切らしたようにして足元のビジネスバッグを持ち上げた。そこから出て来たのは1枚のクリアファイル

すっと目の前に差し出されて何かと思えば、マンションの写真と間取りが載った紙が入っていた

「はじめくん、これは?」
「駅からそう遠くねえから帰省の時も楽だと思うし、土曜日見て来たけど南向きで日当たりも良かった」

はじめくんの言葉だけじゃ全然情報が足りないけれど、間取りに貼られた付箋に書いてある『2DKで二人暮らしに人気の物件ですよ』という不動産屋さんからの言葉に期待をしても良いのだろうか

「わ、私……別れ話を、されるのかと思って来たの」
「は?なんで俺がなまえと別れんだよ」
「ごめんなさい……いいね、オシャレで素敵だと思う」

マンションがあるという区は、名前だけはよく聞くけれど何処にあるのかとんと検討もつかない。だけどそれでもきっと、はじめくんと一緒ならどこだって素敵な場所になる。さっきまでドン底に居たはずの世界が一変して見えた。


「スーパーがちょっと遠いんだけどよ」
「大丈夫、わたし自転車漕ぐの速いから」
「本社勤務だから今より帰り遅いぞ」
「雑誌とか読んで待ってる」

心配ないよはじめくん。カーテンもモーニングセットも決めちゃう私は、あなたと一緒に暮らせるのをずっと楽しみにしていたのだから。



「じゃあ急で悪いけど、なまえの名前書いてほしいとこあっから頼むわ」

賃貸契約書かな、と思えば目の前に差し出されたのはテレビなんかで見慣れたあの紙で

「こっち側、なまえの名前必要なんだ」

こっち、と叩かれたその欄の上には「妻になる人」と書かれていた

「私が書いてもいいの?」
「なまえじゃねえとだめだろ」
「はじめくん……」
「俺、今まで自分がこんなこと言う日が来るとは思わなかったんだけどよ……返事、はいかイエスで頼むわ」


「うん」
「うんってお前なあ、」

呆れたように安堵したように笑うはじめくんとは反対に、私は震える手でボールペンを握って右側を埋めて行く。視界は涙で覆われてしまって、なんだかもう線もガタガタだ。受理してもらえるといいんだけど

「……仙台離れてもいいのか?」
「はじめくんと一緒にいたいから」
「生活環境全然違うぞ」
「大丈夫、乗換頑張る。山手線しか分からないけど」
「山手線じゃうち帰れねえからな」

それは困った。だけど南北線とか副都心線とかよく分からないけど、はじめくんと生きていけるなら頑張って覚えるよ。だからきっと大丈夫。 そう言ったらはじめくんが破顔して、つられて私も笑顔になる。

書きあげた婚姻届は涙の跡でぼこぼこになってしまったけれどそのまま出しに行こう
泣き疲れてお腹が空いたところで、今夜のディナーを頼むことにした。


星までだってかけていく



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