ふ、と目が覚めて真っ先に感じたのは、苦みのある煙草の匂いだった。
 意識がゆるやかに上がり、瞼を開けば硝子に跳ね返るようなまぶしい光の粒がぼんやりとした視界に映る。徐々に視界が晴れていくと、青空の下に紅く色付く木々や畑、池が広がっていた。スカートに包まれたお尻や腿の裏には、椅子に座った時のような感覚が伝わっている。どうやら中庭のベンチに座っているらしい。
 まどろむ意識の中で、頭を寄りかかるように右側に傾けていると気づいてゆっくりと身体を起こす。その時、頭や頬が肌触りのよい布地に触れた。同時に煙草の匂いの中に、ほんの少し清潔な香りが包まれていることに気づく。その香りに覚えがあるわたしは、ようやく虚ろな意識が覚めた。
 右隣を見ればすみれ色の瞳が、それはそれは冷ややかに、絶対零度とまでは言わないけれど冷たい視線を滲ませていた。
 
「……やっと起きたのかい? まったく僕を枕代わりにするとは、いい御身分になったものだねぇ」

 その瞳の主、白秋先生は、冷ややかな視線とともに言葉を放つ。それから視線を前に向けると、右手の人差し指と中指に挟む白く細い煙草を口元に銜えた。暫し味わうような間が空いた後、そこから手が離れる。形のよい唇から細い紫煙が吐かれ、真昼間の青空に向かって棚引いた。
 一体いつの間に白秋先生に寄りかかって寝たのか。悲しいことに覚えていない。
 
「も、申し訳ございません……いつ白秋先生の肩に寄りかかって寝たのか覚えていなくて……」
「だろうね。足元を見てごらん」
「足元?」

 指摘された通りに足元に視線をおろせば、敷き詰めたような紅い枯葉の上に本が落ちている。そうだ、午後はここで次の研究のための資料を読んでいた。庭では犀星先生と朔太郎先生が畑にいて、途中から白秋先生がわたしの右隣に座った。二人を見守るように。それで、それから……。
 
「この資料を読みながら寝た、と言う事でしょうか。そのまま白秋先生に寄りかかったんですね」
「分かれば良いのだよ。その本を拾うにも、君が寄りかかっているから拾えなくてね」
「うう、すみません」

 申し訳なく思いながら頷き、身体を屈ませて足元の本を手に取る。身体を起こして本を膝の上に置けば、白秋先生はベンチの傍に置いてある縦置きの灰皿に小さくなった煙草を差し込んでいた。そういえば、畑にいた犀星先生と朔太郎先生の姿が見えない。
 
「犀星先生と朔太郎先生は……」
「随分と前に猫の世話をしに行ったよ」

 白秋先生は、わたしが寄りかかって寝たから動けなかったのだろう。いくら寝ていたとは言え申し訳ないことをしたと改めて認識する。こうべを垂れそうなところで、暖かくまぶしい日差しがちかちかと視界に映った。
 そのまばゆさに目を細めた時、頭の中に眠りにつくかつかないか、それくらい曖昧な時の記憶が蘇る。確か、うとうとと意識がまどろみ、瞼が重くなった頃。耳元に小さなやさしい歌声が届いた気がする。それはずっと小さな頃に聴いたことがあるような、やわらかな唄だ。
 
「白秋先生は、わたしが眠る頃に歌をうたっていませんでしたか?」
「さあ、どうだったかな」
「違うのかな……先生から子守唄みたいなやさしい唄が聴こえた気がしたんです。そういえば、この間犀星先生に『眠れない時は白さんの所に行ったら、子守唄をうたってくれるんじゃないか』って言われました」
「……君は、相変わらず僕の作品を知らないようだね」
「い、いひゃいです」

 ぎゅ、と右の頬を軽く摘ままれ肩が少しだけ跳ねた。白秋先生の左手の人差し指と親指に抓られたものの、それはすぐに離れる。視線を上げれば先生は静かにわたしを見ていた。
 
「白秋先生の作品に子守唄が……?」

 先生の作品を知らない訳ではないけれど、まだ全てを見ていない。白秋先生は小さく息を吐き、前を向く。
 緩慢に流れる午後の穏やかな風が先生の艶やかな髪を少し揺らしていた。その揺れが落ち着いた頃、先生の口から小さく紡がれた詞は、やはりわたしがうとうとと眠りについた時の唄だ。今の穏やかな日差しのような、やさしい空気に包まれていて、ついさっきうたた寝したばかりなのにまた眠くなる。
 詞が終わりを迎えると、白秋先生は音を立てずに静かに立ち上がった。そして「眠れないのなら、いつでもおいで」と残して、紅い枯葉の絨毯の上を歩いて行った。
 やさしい唄と言葉は、心の奥底にゆっくりと落ちる。ほんの少し泣きそうになったのは、秋の寂しげな空気のせいだろうか。

参考:揺籃(ゆりかご)のうた

繊細な午睡


TITLE:Jubilate

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