「忙しないのね。ここに来たと思ったらすぐまた別のところへ行くなんて」

 男子たちの寝室の一角、まるで人目を忍ぶかのように荷造りをしている後ろ姿に声を掛けた。身一つでここにきたのだから纏める荷物もそうないだろうけど、彼には彼なりの準備があるのだろう。周囲に人はいなかった。珍しいことに、いつもは引っ付き虫のように傍にいる弟の姿も見えない。ここで待ち合わせでもしているのかと様子を窺っていたけれど、今この場にいるのは彼と私だけだった。

「すぐ、でもないでしょう?」

 振り向いた顔は笑みを湛えていた。常に貼り付けられた人好きのする上っ面の笑顔。保護されるまでにどれだけ辛酸を舐めてきたかは知らないが、汚い大人を躱すためにつけた処世術を私に向けられると腹が立った。まるで私が同類だと言われているかのようだ。他の子たちを唆す笑顔も同じくらい嫌いだから、私を相手にするときは無表情でいて欲しい。

「すぐよ。ここにきて一ヶ月もしてないのに養子として迎えられるなんて、前代未聞」
「君にもそんな話があったって聞いたけど」
「……誰? そんな蜚語を流したの」
「シスターだよ」
「……もうお年だものね。耄碌したのかしら」
「はは、心にもないこと言うね」

 居心地悪く視線を逸らす。視界に入る幾つもの二段ベッドは女子の部屋とそう変わらない質素な作りだ。横になると硬くて、眠るとき少し寒い。外の地面で寝るよりは遥かに心地良いものだけど。ベッドの上には綺麗に、または適当に畳まれたシーツたちが見える。その中でも、妙にきちっと畳まれたシーツの乗ったベッドがあった。見えるのは下段だけだがその上段のベッドにも同じものが並んでいるのだろう。誰と誰が使っていたのか、瞬時に判断がついた。
 よし、と呟いて、彼は荷物をまとめ終えた。思っていた通り大した量はない。目的を果たした彼はこちらに向き直る。表情は柔和だが射るような視線に体が竦む。綺麗な赤眼は、何を考えているのか想像させない恐ろしさがあった。

「そういえば、君と一対一で話したことはなかったね」
「私に限らず一対一なんてなかったでしょう。傍にいつももう一人いたわ」
「そう言わないでやってよ。ルイスは大事な弟なんだ。……あぁ、今日話し掛けてくれたのはルイスがいないからかい?」
「今分かったの?」
「ごめんね。君ほど聡明じゃないんだ」
「……厭味?」
「まさか。ねぇ、折角だ。君に訊きたいことが幾つかある。答えてくれるかい?」
「弟が戻ってくるまでなら」
「ありがとう」

 彼は今度は笑わなかった。困ったような顔でお礼を言われた。笑顔よりはいいと思った。

「君は、文字を読めるよね」

 殆ど初めての会話。そして事実初めての彼からの質問だった。けれど今まで誰にも訊ねられずにいたことを問われ息を呑んだ。どうして知ってる? 彼の前で、いや、誰の前でも、孤児院で過ごす中一度だって本や手紙を自ら読んだことなどなかった。「……読めるわよ」今度視線を逸らしたら負けを認めているようで、彼の赤眼をじっと見据えながら答えた。「じゃあ」彼は矢継ぎ早に次の問いを口にする。

「何故それを隠す?」
「隠してなんかない。今までは訊ねられないから答えなかっただけ。今、あなたの質問には答えたでしょう」
「成程。じゃあどうやってその知識を手に入れた?」
「……“潰れた貸本屋を寝床にしていたから”」
「うん、ちょっと面白い」

 彼らが孤児院の皆に触れ回っているのと同じことを言ってみせた。面白いと言いながら頬ははぴくりとも動いてない。さっきからずっと同じ顔だ。同じ、笑顔。それは笑っていることには入らない。

「……半分は本当よ。前にいたところが貸本屋の隣だった」
「前にいたところって?」
「クズ連中の掃き溜め」
「貴族のお屋敷か」
「……ぷっ、あははっ! あはははははっ!」
「……何が、おかしいのかな?」
「貧乏人が、誰も彼も貴族を目の敵にしているなんて思わないことね!!」

 正解だろうと言わんばかりの表情をした彼を、思い切り笑い飛ばしてやった。今まで自分の言ったことに異を唱えられた経験などないのだろう。きょとんと呆けた顔が妙に愛しく思えた。
 そうね、見掛けだけの立派なお屋敷は確かにクズ連中の掃き溜めだと思うわ。けれど本当のクズって、やっぱり貧乏人なのよ。勿論、悪い貴族だけでなく立派な貴族がいるのと同じように、働き者で心優しい貧乏人だっているわ。でもそんなのほんの一部。金に困窮している殆どの人間は、その心さえも貧しいの。

「あなたは、人は生まれながらにして善人だと思ってる? 階級制度さえなければ人の心は美しいと? とんだ世迷言だわ」
「……性善説まで知っているんだ」

 そんな本まで所蔵していたなんて、君がいたところの隣の貸本屋の主人は余程勉強熱心だったのかな。
 言われた言葉は今度こそ厭味だったに違いない。少しだけ引き攣った彼の口許がそれを物語る。そんな表情も出来るなら最初から見せて欲しかった。そうすれば少しくらい好感が持てたのに。
 私の真意を図るように彼はじとりとこちらを見遣る。簡単に思惑を晒す気はない。私の過去を教えてやる気もない。彼が自らの過去を語っていないのに、私だけが打ち明ける義理は、ない。

「ねぇ、私にも質問させて頂戴」
「……僕に答えられることなら」
「何故私が文字を読めると分かったの? ……いいえ、何故、文字を読めると確信した上で問い質したの? 前者は私がどこかでボロを出していた可能性も否定出来ない。でも、それをわざわざ訊ねる必要なんてあったのかしら」
「……女の子で、文字を読める子に初めて会ったんだ。感動した。出来れば分かち合いたかった。今まで読んできたもの、これから読むもの。何でもいい。その楽しさを、喜びを、君と」
「……何だ、そんな下らない理由」
「君にとってはそうなのかもしれない。でも僕にとっては驚くべきことだったんだ」
「……女の子、だものね? 私は。この大英帝国に於いて、最も弱く、脆く、踏み潰されても誰も気付かないような存在。確かに驚くべきことでしょう。誰にとっても」
「そんな卑下したように言わないで。僕は本当に……心から君を、凄いと思ったんだよ」

 赤眼に宿る感情が変わった。感嘆、感動、僅かな憐憫。「冗談でしょう。やめて」知らず、語気が強くなる。孤児院に保護されたとき、真っ先にシスターに向けられた憐憫の眼差し。正に博愛といったそれは私だけに与えられるものじゃないことを強く示していた。けれど彼は、今、私だけを見据えている。私だけを可哀想だと思い、あまつさえ救い出そうとさえしている。私を? 馬鹿な。

「冗談なんかじゃない。君は凄い子なんだ」
「や、めて。私は凄くなんかない。卑下したようにじゃない、卑下しているのよ。そういう風に育てられた、そういう環境だった!」
「そういう環境?」
「文字が読めて何になるの? 母親宛のラブレターをアルファベットも分からない父親に聞かせてどうなるの? それがただのラブレターじゃなかったことが発覚して、父親は母親ではなく私に当たったわ! 計算が出来て何になるの? 林檎を三つ、オレンジを二つ、グレープフルーツを一つ盗って合わせて六個持って帰ってどうなるの? それでも少ないと言われまた泥棒をさせられる! たった一つの物を盗むのだって私は命懸けなのに! あの、あの親たちは、いいえ、親なんかじゃない……親の皮を被った心の貧しい悪魔たちは……わた、わたし、なんか、私なんか目にも掛けなかった!」
「学んだのは両親に愛されたかったから、かな」
「あら、今度は正解よ! 素晴らしいわ! 最初はね、そう、愛されたかった。文字が読めれば、計算が出来れば、あの人たちも男や酒なんか放って私を見てくれると思ったのよ。でも結局私は女。文字が読めようが計算が出来ようが所詮は女。何にもならないの。……あぁ、結局喋っちゃった。あなたに教える気なんかなかったのに」

 でもまぁ、いいか。浅かった呼吸を一度落ち着かせる。肺一杯に吸い込んで、静かに、長く、息を吐いた。どうせ彼はここを去る。あのモリアーティ家に引き取られるのだ、今生で二度と会うこともあるまい。すぐ傍のベッドにへたり込むように座る。臀部に当たる部分はやはり、硬かった。

「ルイスが得意ではなかったのは、彼が僕に……唯一の肉親に愛されている姿を見るのが腹立たしかったからかい」
「……正解よ。ここにいる子は皆肉親がいない。でもあなたたちは違った」
「養子縁組を断ったのは、その家に行っても自分が愛されそうになかったからかな」
「それは半分正解。半分は外れ。あの家にはもう何人も同じ年頃の女の子がいた。私も彼女たちと同じように愛されたでしょうね。奇妙な癖を持った貴族の旦那サマに」
「望んだ愛ではなかったのか」
「私が欲しいのは家族愛。欲に塗れた愛は吐き気がするわ。それに……」
「それに?」
「血の繋がらない家族に博愛を振り撒かれてどうなるの? ここにいるのと大差ないじゃない」

 硬いベッドに仰向けに寝転び、完全に体を預けた。頭の位置には畳まれたシーツがある。きっと皺になっていることだろう。シスターに見付かったらベッドの主は怒られるかもしれない。ごめんなさい。心の中だけで謝った。
 私が欲しいものはただ一つ、両親からの愛だった。シスターの愛も養父母の愛も決して私を満たすことはない。そして満たされたいという願いはもう叶わない。私は二度と、血の繋がった家族からの愛を与えられないのだから。

「血の繋がりだけが愛とも言えないだろうに」
「分かってるわよ。例えばあなたとモリアーティ家のお坊ちゃま。血なんて繋がってなくても素晴らしい兄弟に見えるわ。そういえば、あのお坊ちゃまにも実の弟がいるらしいわね。慈善活動には一度だって来たことがないけど。普通、兄に倣うべきじゃないかしら? その実弟より、あなたの方がよっぽど弟のようね。でも私は、私には、血縁が最も魅力的に思える。それだけ」
「……それほど血の繋がった肉親が欲しいなら、手伝ってあげようか」
「今更両親を見付けようって言うの? 無理よ。見付けたところで彼らは私を視界にさえ入れな……」
「君の腹に、血の繋がった家族を宿すことなら出来るさ」

 きし、と木製の床が鳴る。彼がこちらに近付いている。ゆっくりとした歩みだった。私はぴくりとも動かなかった。

「どうする?」

 私が転がるベッドの脇で彼は止まる。やはり私を救おうとしている赤眼と視線がかち合う。本気だ。私が望めが彼は私を抱くのだろう。初潮はきている。絶対に、という確証もないけれど、何もしないよりは可能性があった。子供の私が、愛されたいがために、子を宿す? は、と気の抜けた音が口から洩れる。嘲笑か、溜息か、それとも期待しているがゆえの熱を孕んだそれなのか、私には分からなかった。……けれど、あぁ。タイムリミットだ。

「兄さん?」
「ルイス」

 この部屋に近付く足音に私も彼も気付いていた。その持ち主も勿論分かっていた。彼は私から視線を逸らし親愛なる実弟に声を掛ける。途端に漏れた息は安堵のものだった。どうやら呼吸を止めていたらしい。何だ、柄にもなく緊張していたのか。あんな冗談のような申し入れに。……冗談ではない、なんて分かりきっているけれど。“困っている人間がいて自分が役に立てるなら、何でもしたい”。あのお坊ちゃまに向けて彼が言った言葉はいい意味でも悪い意味でも本気なのだ。彼には助力するだけの力も知識もある。一度でも願ってしまえば、彼は必ず、実行する。

「“弟が戻ってくるまで”」
「え?」
「だったわよね、最初の約束」
「……何だ、その人もいたんですか」

 ベッドから起き上がれば怪訝な目に迎えられる。私が向こうをよく思っていないように、向こうも同じ感情を向けてくる。その理由は容易く想像がつくけれど。

「ごめんなさい。あなたの大事なお兄様を取ったつもりはないのよ」
「……構いませんよ。兄さんに相談を持ち掛ける人は幾らでもいますから」

 言外に、お前だけが特別なのではない、と言われた。知ってるわ。私に向けられたのは愛ではなく情け。彼が唯一肉親として愛するのはあなただけ。困っている私に安易に手を差し伸べた彼も結局ただの博愛主義者。シスターよりもっともっと深くて、それでいて冷たい愛の持ち主。

「それじゃあね、お二人様。もう会うこともないでしょう。万が一顔を合わせても、そのときあなた方は伯爵家のお坊ちゃま。私のような下民とは言葉も交わさないことでしょう」
「なっ、僕たちはそんな連中とは違うッ、」
「ルイス、いいよ」
「でも兄さん! 僕はともかく、あの人は兄さんまで馬鹿にして……!」
「“僕にこたえられること”」
「……が、どうしたのかしら?」
「兄さん……?」
「二つ目の約束だったでしょう。……“僕に応えられること”なら、何でもするさ。いつでもね」
「……そう。じゃあ、気が向いたら、お願いするわ」

 私たちのやりとりについていけない弟はきょろきょろと目を泳がせるばかりだった。そんな弟とは裏腹に、兄である彼は私に屈託のない笑みを向ける。そこにあるのは結局、貼り付けられた人好きのする上っ面の笑顔だった。彼は生涯、そういう人なのね。その表情を脳裏に焼き付けて部屋から出た。そして、一笑する。嫌いな弟君だったけれど、あの瞬間だけは割って入ってくれて良かったと心から感謝した。でなければ私は、きっと――

 一年後、街中で仕立てのいい服を着て洒落たステッキを構える彼の姿を見た。……あぁ、そういえば。“彼に答えられること”なら何でも訊けたのに、私は名前さえ訊ねなかったのね。

アガペーに溺れる



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