※花吐き病パロ


それは昔馴染みであり、自分と同じく留学生として大英帝国にやって来た弁護士・成歩堂龍ノ介たっての頼みで中央刑事裁判所オールドベイリーの資料室に足を運んだ時のことだった。
天井にまで届きそうな書棚にびっしりと詰め込まれた膨大な数の書物の中から、なまえと龍ノ介は手分けして必要なものを探していた。資料室にはたくさんの文献・資料が揃っていたが、過去の裁判資料も多く保管されており外部への持ち出しが全面的に禁止されている。そのため、独学で弁護士の勉強をする龍ノ介はそれらの中から必要だと思ったものを抜粋、なまえと共に辞書を片手に日本語訳に直しながら洋紙に写し取っていた。文献には難しい専門用語も多く使われているため、なまえは時折龍ノ介に「ここはこう訳せば良いのでしょうか?」と尋ねながら写本作業を行っていた。なまえと龍ノ介の、万年筆と書物のページを捲る音だけが聞こえるこの静寂な空間を引き裂くように、突如として硬い靴音を響かせた誰かが資料室内に入ってきた。

「あっ」
「……東洋の弁護士がここで何をしている」
「バ、バンジークス検事ッ!…こ、こんにちは!えっと、その、まだまだ近代裁判について分からないことも多いので!ここで勉強をしておりました!」

キョロキョロと目が泳ぐ龍ノ介を一瞥した瞳が今度はなまえの方に向けられた。―――深淵のような陰湿さを全身に纏っているにも関わらず、瞳だけはその実、透き通る空のような美しい青色をしていた。

「…あっ!こちらはボクの友人でして、語学留学生として大英帝国に来た―――」
「みょうじなまえと申します」

立ち上がり、深々と一礼する。

「…バロック・バンジークスだ。―――ところで弁護士よ、近代裁判について勉強していると言ったな」
「は、はいッ!」
「では―――」

バロックはなまえ達の卓机テーブルに広げられた分厚い書物を手に取り、パラパラとページを捲ると「この項目にも目を通しておいた方が良いだろう」と、ある裁判の事例が記載された項目を指差した。

「え……あ、ありがとうございますッ!!」

龍ノ介が深々と頭を下げる。それに続いてなまえもバロックに向かって頭を下げた。バロックは「それでは失礼する」と呟いて踵を返すと、書棚の奥へと消えていった。―――これが、中央刑事裁判所オールドベイリーの《死神》と呼ばれるバロック・バンジークスとなまえの出会いだった。
それからというもの、定期的に龍ノ介を手伝っているなまえは中央刑事裁判所オールドベイリーでバロックと顔を合わせることが多くなった。といっても《日本人》嫌いであるバロックとは簡単な挨拶をするだけであったが。
―――しかし、なまえは自分でも気付かないうちに、そんなバロックに対して淡い想いを抱き始めていたのだった。



とある日のこと。古書屋での買い物を済ませ下宿先に帰ろうとした矢先、なまえは運悪く雨に見舞われてしまった。倫敦ロンドンは雨がよく降る。雨と言っても短時間で降り止むにわか雨が多いため、傘をささずにそのまま濡れて帰る倫敦ロンドンっ子がほとんどであった。しかし、日本で生まれ育ったなまえにはそれは受け入れがたい習慣。困ったことに今日はあいにく傘を持ち合わせていない。着物や袴は濡れると面倒だし、買ったばかりの古書を濡らすのも気が引けた。仕方がない、と古書屋の軒先でなまえは道路を叩く雨粒をじっと見つめていた。
遠くから軽快な蹄鉄音が聞こえてきた。ふと顔を上げると街中で見かける乗合馬車オムニバスと違い、黒を基調とした格調高い馬車が通りを走っていた。何処かの英国貴族が乗っているのだろうかとなまえは雨の中を颯爽と走る二頭の美しい馬を見つめながらぼんやりと考える。てっきりこのまま通り過ぎるだろうと思っていた馬車はなまえが佇む古書屋に差し掛かる直前で緩やかに速度を落とし始め、ぴったりとなまえの目の前で停車した。驚いたのも束の間、外界を遮断するように閉め切られていたカーテンと窓が開いたかと思えば、中から見知ったバロック・バンジークスの顔が現れた。

「バンジークス検事様……!」
「そこで何をしている」
「…あっ、雨宿りをしております。その、着物や古書が濡れると困りますので」

なまえの答えに、バロックは幾分か沈思黙考すると徐ろに馬車の扉を開けた。

「下宿先まで馬車に乗るが良い」
「えっ、ですが―――」
「《死神》の馬車には乗れぬか?」

そういうことではない。そういうことではなかったが《死神》という単語を強調して言われると断ることなど出来なかった。なまえは「では、お言葉に甘えて……」と深くお辞儀をすると、御者に下宿先の住所を伝え、バロックの馬車に乗り込んだ。
ゆったりと二人が座ることのできる座席シートになまえはバロックと向かい合う形で腰を下ろした。内装も外装と同じく黒を基調としており、所々に装飾がしつらえてあった。乗り心地も良く、座席シートに体が沈み込む。こんな壮大な馬車に乗るのは初めてでなまえはそわそわと落ち着かない様子だった。バロックはと言うと目を瞑り、腕を組んだ状態で座っている。何処か重苦しい空気が漂う車内とは裏腹に、馬車は軽快に道を走っていた。カタカタと心地良い音を耳にしながらなまえはバロックをちらりと見やる。青みがかった灰色の髪、彫刻のような端正な顔。黒の外套コートに身を包んだバロックの出で立ちは最近読み終えたばかりの『吸血鬼ドラキュラ』を彷彿とさせた。どきりと胸が高鳴る。怖いのではない。思わず息を飲んでしまう程、彼の佇まいは美しかった。
それにあの青―――。なまえは瞼の奥に隠れている瞳の色を無意識に思い出していた。
しばらくして馬車の速度が落ちていき、やがて停車した。どうやらなまえの下宿先に到着したらしい。馬車の揺れが止まったのをきっかけにバロックの瞼が開かれる。ばちりと合った視線。目が覚めるような青に思わず吸い込まれてしまいそうになる。

「…私の顔に何かついているのか」
「い、いえ!大変失礼いたしました!」

なまえは会釈し、扉に手を掛けながら立ち上がる。御者の手を借りて階段ステップを降りると、なまえはくるりと馬車に向き直った。

「バンジークス検事様、本当にありがとうございました」
「礼には及ばぬ。それよりも濡れると困るのではなかったか」
「……そうでございました」

なまえは慌てて下宿先の玄関まで走ると、軒先からもう一度バロックに向かってお辞儀をした。バロックは何も言わずに扉を閉める。それを合図に御者が手綱を引くと、バロックを乗せた馬車は軽やかに通りの向こうに消えていった。バロックは極度の《日本人》嫌いだ。そんな彼がわざわざ《日本人》である自分を個人用馬車に乗せるなんてどういう風の吹き回しなのか―――。なまえには全くもって検討がつかなかった。ふと、ばちりと合った視線を思い出す。脳裏に焼きついて離れない澄んだ青がなまえの胸を騒つかせた。

「うっ」

それは強烈な嘔吐感に変わっていき、なまえは反射的に口許を押さえると急いで自室へと駆け込んだ。部屋に入るや否や我慢しきれなくなったなまえは体を丸めて嘔吐えずく。しかし、吐き出されたのは胃の中の消化物ではなく薄青色の小ぶりの花弁だった。
嘔吐中枢花被性疾患。―――通称・花吐き病。それは片想いを拗らせて苦しみを感じると花を吐くという遥か昔から流行を繰り返してきた奇病の一種。花に統一性はなく、罹患者によってそれぞれ異なる花が吐き出される。ただ誰もが無作為に罹る病気ではなく、感染経路は罹患者から吐き出された花に触れることのみ。その特異な感染経路と発病から根本的な治療法も特効薬も未だ発見されておらず、完治させる方法はその想いが成就する他になかった。絶えず湧き上がってくる嘔吐感になまえは床に崩れ落ちる。胸に手を当てながら、先程と同じ花を数輪吐き出した。苦しい。床に舞い散った鮮やかな薄青色はバロックの瞳と同じ色。日本では目にすることのない美しい宝石のような瞳。これから先、なまえはバロックを想う度に花を吐き出してはこの薄青色を見続けていくことになる。完治などありえない。なまえは嘲笑を浮かべた。ああ、なんてかなしい恋を患ってしまったのだろうか、と。


―――花を吐いてからなまえは龍ノ介の手伝いを少しずつ断るようになっていった。三月末までに提出しなければならない大学の課題レポートに追われて、作業を手伝える程のまとまった時間が取れないということもあったが、一番の理由は中央刑事裁判所オールドベイリーでバロックと顔を合わせるのを避けたかったからだ。頼みを断った時のしょんぼりと項垂れる龍ノ介の姿を思い出しては、本当に申し訳ない気持ちに襲われる。龍ノ介には落ち着いたらまた手伝うとは伝えていたが、それまでにバロックへの想いをどうにかすることができるのか、なまえには自信がなかった。




季節は変わり―――四月。まだまだ肌寒い日は続いているが、少しずつ暖かい日差しを感じるようになってきた今日この頃。なまえは久々に龍ノ介の手伝いをすることになった。中央刑事裁判所オールドベイリーへ足を運ぶのは二ヶ月ぶりになるだろうか。もう気持ちの整理はついている。

「よし」

なまえは両頬を軽く叩いて気合を入れると、龍ノ介が下宿しているベーカー街221Bへと向かった。しかし―――。

「今日は中央刑事裁判所オールドベイリーに行くんです!」
「今回のボクの論理と推理の実験はミスター・ナルホドー、キミに実験台になってもらわないと困るんだ!それに弁護の依頼だってここのところ全然じゃあないか!少しぐらいボクの実験を手伝ってくれたっていいだろう!?」
「ぐっ……!」

221Bを訪れるや否や、玄関でちょっとした小競り合いが繰り広げられていた。身支度を済ませ、今にも玄関を出ようとする龍ノ介の動きをホームズが背後から羽交い締めする形で封じ込めていたのだった。なまえは困ったように眉を下げ、どうしたものかと考え込む。

「……あの、私、一人で大丈夫でございますよ?」
「え…?」
「資料室の勝手は分かっておりますし、写本は私に任せて龍ノ介様はホームズ様のお手伝いに専念してくださいませ」
「いや、でも―――」
「ああ感謝するよッ!ミス・なまえ!お礼に今度、ボクの素晴らしいストラディバリウスの演奏をお聴かせしようではないかッ!」
「ちょっとホームズさんッ!もう勝手に!…ああ、なまえさんすみません!少し待ってください!」

龍ノ介はホームズの腕から逃れると部屋の中へと消える。しばらく経って戻ってきた龍ノ介から一枚のメモを受け取ると、そこには資料の題名タイトルと写本が必要な項目名、そしてその資料が置いてある書棚の場所までが丁寧に書かれていた。

「ご丁寧にありがとうございます、龍ノ介様」
「いえ、こちらこそ任せきりにしてしまって申し訳ありません!」
「お気になさらないでください。では行って参ります。龍ノ介様にホームズ様、実験の方頑張ってくださいませ」

にこやかに微笑んだなまえはベーカー街221Bを後にすると乗合馬車オムニバスに乗って、中央刑事裁判所オールドベイリーへとやって来た。馬車から降りて建物を見上げる。いつ来てもこの荘厳な外観を見るだけでぴしゃりと背筋が伸びる。建物の中へ入るとなまえは一直線に資料室へと向かった。扉を開けると洋紙と洋墨インキの匂いが鼻腔をくすぐる。龍ノ介からのメモを頼りに目当ての書棚を探していたなまえは、書棚の角から突如として現れた黒い人影と出会い頭に衝突してしまった。

「あ、申し訳ございま―――!」

何故?と思った。心臓がどくりと嫌な音を立て、血の気がさっと引いていくのが分かった。せり上がってくる嘔吐感をなまえは必死に飲み込む。

「そなたは―――」
「ご、ご無沙汰しております……ッ」

気持ちの整理はしたはずだったのに。なまえはすっと体を離してバロックとの距離を取る。目は合わせられなかった。

「今日は弁護士と一緒ではないのか」
「…え、ええ。今日は、龍ノ介様は…その、ホームズ様の実験の、お手伝いで」
「そうか」
「……は、はい」
「?体調が優れないのか」
「いえ、そんなことは……」
「しかし、ひどい顔色だ」

頬に触れたバロックの手をなまえは反射的に払い除ける。と同時に懸命に抑えていたはずの嘔吐感が喉元を一気に駆け上がった。ついに我慢しきれなくなったなまえは体を丸めて手で口を覆うと、激しい嘔吐と共に薄青色の花を吐き散らした。今まで以上に吐き出された花を受け止めきることが出来ず、指の隙間からほろりほろりと花が零れ落ちた。そんななまえを見てバロックは驚きのあまり、体の動きを止める。

「あっ…あっ…申し訳ございません……」

なまえは掌に残った花を忌々しげにぐしゃりと握り潰すと、着物の袂に隠し入れた。見ないで見ないで見ないで。こんな汚らわしい私を見ないで。

「フォーゲット・ミー・ノット……か」
「―――え?」
「これほどまでにそなたは誰かを想っているのか。そなたに強く想われている者が……羨ましくなるな」
「何を、そんな……仰います、バンジークス検事様……げほっ」

なまえは後退りする。しかしなまえの歩幅よりも大きく足を踏み出し、たった一歩で距離を縮めたバロックに腕を掴まれる。

「そなたは誰を好いている。あの弁護士か?それとも探偵か?」

まるで法廷の如き鋭い追及になまえは俯く。足許に散らばった花をじっと見つめることしかできない。

「……検事様には、関係のないことでございます」

やっとのことで言葉を絞り出した瞬間、バロックに顎を持ち上げられ、顔が上へ向いた。視線を無理矢理合わせられる。

「私は《日本人》が嫌いだ。にも関わらず《日本人》であるそなたに何故、こんなにも心を掻き乱されなければならない」

その瞳が揺れ動くのを初めて、見た。

「え……?」
「そなたは一体、誰を想って花を吐くのだ」

バロックがなまえの腕を引いた。前のめりに体勢を崩したなまえを抱き留めるようにして後頭部に手を回すと、自らの唇でなまえのそれを塞いだ。なまえは突然の出来事に目を見開く。彫刻のように目鼻立ちの整った顔が眼前に広がっている。睫毛が長いだとか、鼻筋がすらりと通っているだとか、眉間に刻まれた十字の傷痕がはっきり見えるだとか。なまえは不思議とそんなことばかり考えていた。
―――それは一瞬にも永遠にも思えた。唇に触れていた熱がゆっくりと離れていく。せり上がっていた嘔吐感が引いていくのを感じた。互いに口を開くことなく、至近距離で見つめ合う。薄青色の瞳から目を逸らせないまま、なまえはぽつりと言葉を零した。

「私は―――私が吐く花は、貴方様のお色にございます。馬車で送っていただいたあの時から……私は貴方様を想って、花を吐き出すのでございます」

胸に抱いた想いを解き放った瞬間、今度はいつもと感覚が異なる嘔吐感がやって来た。なまえは慌てて両手で口許を押さえる。げほり。吐き出されたのは大きな一輪の―――白銀色の美しい百合の花だった。

どうかその花に口づけを


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