「ニコ」と呼んでしまったのは、普段ニナがそう呼ぶから、ただそのクセがうつってしまっただけなのだ。
「あ、いや、ニコラス……さん。今日は、よろしくお願いします」
 怪訝そうに目を丸くした彼に、慌てて言い直した。すると彼はいつも何を考えているのか分からない気怠げな眼を元の細さに戻して、鬱陶しそうな仕草で早く行けと促すようにしっしと手を振る。
「仕事なんだから、しょうがないじゃん……」
 読唇術の使える彼のことだから、敢えて顔を背けて言ったのにもかかわらず、軽く頭を小突かれてしまった。痛くもないのに決まり悪く小突かれた場所に手を当てる。
 そんなやり取りに呆れたのか、長い脚でさっさと歩いて行ってしまう彼に、「あっ、待ってくださいよ!」と慌ててそっちの方向じゃないと伝えるため、なまえはテオ医院を飛び出した。

 今夜のテオ先生の代わりのお遣いは少し距離があって、ちょっとした遠足気分だった。薬を届けるだけなら便利屋さんに任せれば良いけど、一部の治療薬は注射器で打たなければならないので直接患者の元へ行くことになっていた。
 なまえもニナほどの知識や経験は無いにしろ、医院に雇われている身としては注射器の正しい扱い方くらいは学ばさせられていた。この街の路地裏で生きていれば幼い時から注射の差し方だけには詳しい人も多いが、わざわざ顔を見に行くのは薬の乱用への注意と遠くに住む元患者達の様子見も含まれている。
 いつもなら、三人揃っての出張のはずだった。しかし今日は医院を訪れる患者が多く、先生とニナは忙しいので、ひとりでお遣いをしに行くことになったのだ。そこで夜の街を歩かなければならないせいなのか、よっぽど私ひとりでは頼りなく思えたのか、便利屋さんを用心棒にとわざわざ気遣われてしまったわけだ。
 一応このくらいひとりでも行けると言ってはみたものの、あの頭の固いテオ先生が一度決めてしまえば聞き入れるはずもなく、電話をしてさほど経たずにスーツ姿のニコラスさんがやって来た。愛想の良いもうひとりの方は別の仕事だということは、手話の分かるニナから聞いた。
 ニコラスさんのことが苦手なのは別に、強面とか無愛想とか、意思疎通で一番簡単な"会話"ができないだとかそういう理由だけではない。
 ニナとはよく一緒に遊んだりしているけれど、同じ黄昏種としても彼と私では階級が違い過ぎるし、彼は薬で力を増幅させてまで「仕事」を楽しんでいる。そうやって生きてくるしかなかったのだろうけれど、低階級の私にとってはほとんど畏れを抱く対象でしかなかった。
 いつか敵同士になる「仕事」があれば、きっと私は彼に呆気なく殺されてしまうだろう。だからそんな日が来ないことを、私はただただ願うばかりである。


 夜の賑わいを見せる表の通りを避け、地図を片手に細い裏道を歩いて行く。
 ふと道を塞ぐように立っていた数人の厳つい人影に気付き立ち止まりかけたが、ここを通らなければかなりの回り道になる。しょうがない腹を括ろうと気を引き締め一歩踏み出そうとすれば、すっと脇からニコラスさんに追い抜かれていた。
 先を行く大きな背中は真っ直ぐに道を進んで、何事もないかのように言葉もなく通りを塞いでいた男達が脇に退く。なまえも遅れないように付いて行きながら、ニナが「ニコは全然怖くないよ」と言っていたことを思い出していた。
 細い道を抜ければ、どっちに行くんだと尋ねるようにして彼が振り返る。ニナが言っていた通り、ニコラスさんはちょっと意地悪なところもあるけど、きちんと優しい人だった。未だに彼を粗野で暴力的だとどこかで疑っていた臆病な自分が、なまえは無性に恥ずかしくなって、心の中でこっそりと彼に謝っておいた。

 ようやく最後の目的地、昔からの患者さんの引越し先に着き、諸々の処置や話を聞いて、無事に今夜の仕事は終わった。最後に伺った家族は気の良い人達で、遅いから泊まっていけばとも提案されたが、目立つ武器である刀を持った無愛想な用心棒さんが嫌がるだろうと思い丁重にお断りした。
 これで後は帰るだけだと、胸の中だけでひとり喜んだ夜も頃合いの帰り道。
 ぽつりぽつりと雨は突然降って来て、慌てて明かりのついていなかった建物の陰に入れば、あっという間に通り雨のように一気に雨足は強くなってしまった。
 どうしようと思い、肩の濡れてしまっていたニコラスさんを見上げる。
「傘なんて、持ってないですよね」
 答えははっきりと分かっていながらも訊いてみれば、案の定彼は手を動かしだす。案外素早いその動きに驚いて、「待って、待って! 分からない」と慌てて訴えた。
 面倒そうに後ろ髪を掻いたニコラスさんは、ふと顔を背け、そのまま雨宿りをしていた建物のドアを押して中に入る。ドアが開いていたことも信じられなかったが、中に消えていくその背中を見失わぬように急いで追い掛けた。

 通りのネオンの明かりが窓から入ってくる建物の内部は、少しだけ埃っぽい廃墟だった。かつてはカフェやバーだったのか、弾丸で穴だらけになったカウンターの前に壊れたテーブルや椅子が並んでいる。
 奥の方で無事に残っていた豪華なソファーの埃を軽く払ったニコラスさんはそこにどっかりと座り、丸テーブルに肘をついて窓の方に顔を向けた。猫背気味な姿勢で刀を腕の中に立て掛け、退屈そうに欠伸をひとつしている。
 彼の近くまで行きどうしたものかと立ち尽くしたままでいれば、不意に顔を上げたニコラスさんが緩慢に手招きをしていた。向かいの店の派手なネオンライトの明かりに、彼の眼だけが光っているように見える。それにちょっとだけどぎまぎしながら恐る恐る近付けば、ニコラスさんはいきなりスーツのジャケットを脱いで、ばさりとこっちに投げかけてきた。
「うわ」完全な暗闇に驚きつつもがいて顔を出せば、背凭れに背中を預けた彼がトントンと指先で自分の胸元を叩く。
 意味ありげな仕草に一瞬手話かと勘繰ったが、ふと自分の胸元を見下ろしてみる。そこでシャツがすっかり濡れて透けていたことに、ようやく気が付いた。
 恥ずかしさのあまりにわあともぎゃあともつかない悲鳴をあげて、寄越されたジャケットをいそいそと着込む。前ボタンも全てきっちりと留めてみれば、当然大きくって袖も裾も余っている。それでもさっきのままでいるよりはずっと安心感に包まれた。
 ありがとうございますと半分ほど声に出しかけて、ニコラスさんは既に窓の方に顔を向けていることに気付いた。
 声に出した音では、彼に届かない。だからそっと伸ばした指先で、軽く彼の肩を叩いた。振り向いた彼に、握った左手の甲の上を円を描くように右手で撫でるという、唯一覚えていた手話を披露する。
「上着、ありがとうございます」
 言葉でもきちんと言い、目を合わせて純粋な感謝の気持ちを伝えたつもりだったが、なぜか彼はポカンとした表情をしたまま固まってしまった。
 この人ってこんな顔もするのか、知らなかったなあ。そんな場違いなことを考えていれば、我に返ったらしいニコラスさんは急に眉を顰めて後ろ髪を引っ掻き、はあと重たい溜息を吐き出した。あれ?
 想像とははるかに違っていた反応に今度はこっちが固まって、けれどどう問い返せばいいかも分からず、首を傾げて困惑する。
 あほ、と上目気味にこっちを見上げていたその人の唇が、低い音と共に動いていた。
「えっ」一瞬誰の声なのか、言われた言葉の意味も頭に入らなかった。
 彼は喋れないから手話を使っているのだと勝手に思い込んでいた。引き結んだような薄い唇は、ごくたまに打つ舌打ちくらいだけで口笛を吹いたりもしない。
 でも、こんな風に今見せている挑発的な笑みは、よく見かけていた。ニナを揶揄っている時なんかに。
 お礼はこうやんだ、とちぐはぐに並べられたような台詞と共に、ニコラスさんは手を動かして見せてくれる。それはさっき自分がした動きとは、全くと言っていいほど違っていた。
「あれじゃあ、私がやったのって……どういう意味?」
 色んな訊きたいことでパンクしそうになった頭のせいで、口をついて出た言葉は的外れにも程があった。
 ニコラスさんはすぐにムスッとしたいつもの分かりずらい表情に戻って、ふいと猫のように顔を反らしてしまう。
「え、ちょっと、教えてくださいよ! ズルいですって!」
 勢い余ってニコラスさんの肩に掴みかかるものの、即座に片手で軽々と撥ね付けられてしまった。これがA級タグ付きの凄みなのか。
 絶対に敵わないという力の差をまざまざと感じてすっかり怯んでしまい、まだ手話の意味が気になってはいたものの、これはもう諦めるしかない雰囲気だった。変な意味だったら知らない方が良いような気もしたが、この好奇心は抑えきれないことだろう。今でさえ本当は、気になって仕方ないのだから。後でニナに訊こうと固く心に決める。
 外から聞こえる雨音は一向に止む気配がなく、今もずっと降り続いていた。
 近くの椅子にでも座ろうかと思い辺りを見回す。するとニコラスさんの方からテーブルを叩く音がして、見れば彼がソファーの奥に移動してくれた。どうやら私の座るスペースを空けてくれたらしい。
 一度だけ合わせられた視線はすぐ外されて、彼はまた窓の方へと頬杖をついて向いてしまう。そんな意外な仕草に少し迷ってから、「お邪魔します」と口にしつつニコラスさんの隣に座った。
 遠くから時折稲妻の音が聞こえてくる。まだまだ雨は止みそうにはなくって、もしかしたら朝方まで降り続くかもしれない。
 明かりはつかないし窓ガラスもあちこち割れている埃っぽい廃墟だけれど、不穏な空気や恐怖感はこれっぽっちも感じていなかった。荒れたエルガストルムの街の一角にある見知らぬ場所だというのに、不思議と穏やかで静寂に満たされた空気が流れている。
 会話もなくただ座ってぼんやりとしていれば、歩き疲れたこともあって自然と眠気はやって来る。ソファーに深く腰掛けながら、なまえは気づかぬ間にうとうとと船をこぎ始めていた。
 ふと体を支えきれなくなって、彼の肩に寄りかかってしまう。夢うつつの狭間で意識が覚め、ごめんなさいと言って体を起こしても、またすぐにもたれかかってしまう始末だった。けれどニコラスさんは全くもって肩を揺すったり嫌がったりせず、起こしたりもしないで、そのままでいてくれていた。
 微睡んだ世界には染みこむような雨の匂いに混じって、微かに煙草の匂いがしていた。テオ先生が吸っているのとはまた違う種類で、そういえばもう一人の方の便利屋さんが煙草を吸っていたなあと思いだす。
 降りしきる雨音と、慣れてしまった埃っぽさに混じった煙草の匂いと、寄りかかった人の体温。それらがなんだか懐かしいような気がして、意識を覚ましていようという努力も全部放りだしたなまえは、もうすっかり目を閉じきっていた。


 それから雨が止んだのは、太陽が昇ってからのことだった。
 目を擦りニコラスさんとふたりして大欠伸をしながら医院に戻れば、連絡くらいしろとテオ先生にふたりしてこっ酷く叱られてしまった。
 あれから特にニコラスさんとの会話はしていなかったけれど、別れ際に改めてお礼を言って上着は洗って返すと伝えると、髪をぐしゃぐしゃに撫でられた。それがどういう意味だったのかすぐに分からずに、きょとんとして彼を見上げる。するとニコラスさんは珍しく頬を緩めたような柔らかい表情を浮かべていて、私がぽかんとしている間に彼はさっさと背を向けて、雨上がりの澄んだ朝の街へと歩いて行ってしまった。
 "会話"は少なくても、以前よりはニコラスさんと打ち解けられただろう。今度上着を返しに行く時には、もう少し話が出来るようになったら良いなと考える。
 そんな風に眩しい朝陽の中に目を細めながらニコラスさんの背中を見送れば、昨夜意味を間違えて覚えていた手話のことを思い出した。
 すぐに屋上で洗濯物を干していたニナに、握った左手の甲を撫でる手話の意味を聞きに行った。そうしたびっくりしたような顔で、「愛してるって意味だけど、どうしたの?」と訊き返されてしまった。
 想像も想定もしていなかったその意味に、顔を赤くすればいいのか青くすればいいのかも分からず、とりあえず昨日の失態をしどろもどろに話す。そうしているうちにありありと、昨日のニコラスさんの驚いた顔やら何やらが全部頭に浮かんできて、顔に熱が一気にあつまるのが自分でも分かるほどだった。
 失敗したなあと嘆けばニナには明るく励まされたけれど、偶然やって来たテオ先生にまで話を聞かれてしまい、鼻で笑われる。気恥ずかしさで自分の髪を撫で付ければ、さっき頭を撫でてくれたニコラスさんの大きな手の感じまでが脳裏を過って、しばらくは何をしても頭の中を昨日のことがぐるぐると巡るのだろうと思うと、まさに穴があったら入りたい気分だった。
 次にニコラスさんに会う時にもまだまだ、気不味い思いは引きずっていそうです。

天には天のやさしさがあり



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