ほものがたり





 黒幕の張られた扉を抜ける。私は黙って歩いた。

 ドイルの呼び止めるくぐもった声。かばい立ては無用だ。彼らは学習する必要がある。社会は彼らを中心にできたものではないと――隠しきれぬ苛立ちを抑えて口を開こうと振り返った。

 幕に絡んでもがいている。

「――」

「さ、先に、行ってください」

 先に? よし、先にだ。過ぎたことは置いて前だけ向いて行こう。後ろの教室で狂った笑いを誘っている愚かなコイツも所詮は同じようなものだ。

 彼が道化を演じているのは彼の勝手で、老年に差し掛かろうとしている恩師の癇癪を忘れさせるためではない。決して。

「息が。か、顔に布が」

 次の鐘が鳴れば、生徒は老いぼれのことなどすっかり忘れているだろう。分厚い布の抱擁に右往左往している男だけが主役だ。歓声があがる。

 ため息を吐いた。

「動くな。ドイル、右手を外へ突き出せ」

「こうですか?」

「そのまま」

 握った手を軸に幕をほどいた。素早く中へ潜る。手探りで襟元を引っ張り口づけた。

 策士は暗闇で息も絶え絶えに溺れた。音のない激しさも笑い声に掻き消される。握り返す力強い指。溺れているのは私か? 声が遠退く。彼らは眼があるのに何も見てない。黒い幕の中で、世にも奇妙な珍事が行われているに違いないと想像を――。

 それは事実だ。

 私は息を呑んだ。愛人を廊下へ引きずり出す。止まった時間は一瞬で動き出した。

「ドイル! わかったぞ!」

 彼は余韻を振りほどくのに苦労しているようだった。「ああ――それはぜひお聞きし」

「来い」

 時間は貴重だった。なぜこんな簡単なことに気づかなかったのだ。色惚けが原因か? むしろ他に何が。

 階段の際で立ち止まるとドイルが背中にぶつかった。振り返り際に指を突きつける。

「しばらく接触禁止だ」

「え?」

「君は私の頭脳を犯している」

「――今のは先生が」

「どちらが誘惑に負けたかは問題ではない。重要な局面で隙を見せるほうが悪い」


 生徒に説教を垂れる時間は重要だろうか。

 愛人が扉の前で腕を組みつつ微笑みを浮かべ見学していたのでなければ、さほど重要ではない。

 頭の切れる女生徒が同世代より落ち着いた風貌の開業医にチラチラと視線を送っていたのでなければ、ちっとも重要ではない。

 私は歩き出した。バランスを崩してドイルがまたぶつかる。睨みつけるだけに留めた。

「先生」彼は慎重だった。

「とりあえず握っている手を離していただけますか。今後はおっしゃる通りにしますから」





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