何も言わずに俺の胸の鼓動をさらっていくずるいひと。ぎゅうぎゅうとあまり変わらないその体で全てを閉じ込めてしまおうというのか、痛いほどの力でもって抱きしめてくる大人とも幼いともいえないひと。何の意図があって、だなんて聞けやしない。聞いたところで結局自分の息を詰めるだけ。

「…あなたはずるいひとですね」

わかっている。わかっているよ剣城。お前の瞳に浮かぶ感情が何の部類にはいるのかなんて。ましてや勘違いなんてことではないことも。自惚れだと一時は自分を恥じた。自分の見間違いだろうとも。それでも自分を欺くなんて出来やしなかった。剣城に見つめられた瞬間、確かに跳ねた鼓動を、上がった体温を無視することは出来なかったのだ。剣城の感情を否定するより前に自分自身を否定しなければならなくなった。その思いは許されない。消さなければならない。そう焦れば焦るほど、ますます彼の様子を見ていられなくなった。大人ではないが、子どもとも言い切れない彼。どこか大人びていて、無邪気さというものはあまり感じられない。必死に大人へと近付こうとしているのか、自分の我を通そうとしない。それが彼なりの優しさであることを俺は知ってしまったのだ。さあ、どうしようか。気付いてしまわなければ後戻りできように。何故彼でなければならないのだろう。彼も何故、自分でなければならいのだろう。どう覆しようもない真理を何度も反復しては詰まった息を吐き出す。わかっているのに辛いよ。なのにどうしても剣城は離れてはくれない。取り返しがつかなくなる前に離してくれ。明らかに喜んでしまっている自分に言い聞かせるように幾度となく言おうとしながら本音が邪魔をする言葉を、ぐるぐると反濁する。抱きすくめられた体に更に軋むほど、力を篭められる。手入れはあまりされていないのか、埃っぽい旧部室内は日が沈んでもいないのに互いの顔を判別できないほどに暗い。どうしたらいい。どうしたら、いい。情けなく、みっともなくこぼれてしまいそうな思いの丈を必死に喉で留めて。これ以上の苦しさなんてないほどの痛みを押さえつけていたのに。

「…今日だけ」

「っ剣城、」

「今日だけ、ですから」

ああ、今まで聞いた中で一番ずるい言葉。なんということを言ってのけるんだろう。あまりに甘美で痛い言葉はひゅうっと元からその場にあったかのように俺の胸の内に納まった。いつもの立てた襟から香ったのは寂しさと愛しさ。夕日の差し込んだ室内で初めて見えたお互いの頬には涙と、そして確かに僅かばかりの笑みがあった。


史上最低の口説き文句

立場に振り回される話
お互い生徒と教員だし男同士だしででもその立場を利用して隣にいるからお互いずっこいって話
素敵企画「Mercy,Mercy,Mercy~*」様に提出させていただきました!ありがとうございました。